平和民主党
平和民主党 평화민주당 | |
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成立年月日 | 1987年11月12日 |
解散年月日 | 1991年4月9日 |
解散理由 | 新民主連合と統合新党結成。 |
後継政党 | 新民主連合党 |
政治的思想・立場 |
中道右派 保守自由主義 民主化 |
平和民主党(平民党) | |
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各種表記 | |
ハングル: | 평화민주당、평민당 |
漢字: | 平和民主黨、平民黨 |
発音: | ピョンファミンジュダン、ピョンミンダン |
平和民主党(へいわみんしゅとう)は、第六共和国時代の大韓民国に存在した保守政党。党総裁・金大中の出身地である韓国南西部の全羅道(湖南)に強い支持基盤を有していた。略称は平民党(へいみんとう)。金大中政権(1998年2月25日~2003年2月24日)と盧武鉉政権(2003年2月25日~2008年2月24日)における与党勢力(新政治国民会議→新千年民主党→大統合民主新党)と、文在寅政権(2017年5月10日~)における与党である共に民主党も一定の範囲内で、平民党の流れを汲んでいる[1][2][3]。
概要
[編集]1987年当時の最大野党である統一民主党(以下、民主党)内における有力政治家であった金泳三(党総裁)と金大中(常任顧問)の大統領候補一本化交渉が決裂したことを契機に、金大中が独自に結成した政党である。結成に際し民主党内の金大中系(東橋洞系[4])議員28名が参加した。金大中が大統領選出馬と新党結成を表明した翌日の1987年10月29日に結党準備委員会が構成、30日に創党発起人大会、11月12日に結党大会という短い期間で結成され、党総裁(党首)と大統領候補に金大中が選出された。1987年12月に行われた大統領選挙では「平民は平民党、大衆は金大中」をスローガンに戦ったが、金大中は27.1%の得票率で3位に終わった(当選者は民主正義党の盧泰愚)。しかし翌1988年4月に実施された第13代国会議員選挙では第2党[5]に躍進し、韓国における2大政党の一つに浮上した。
1990年1月に与党民主正義党が野党の民主党や新民主共和党と統合して定数299議席中、200議席以上を有する巨大与党「民主自由党」を結成したため、平民党は少数勢力に追い込まれることになった。その後、平民党は1991年4月9日に「新民主連合」[6]と統合して「新民主連合党」(신민주연합당、略称:新民党)を発足させ、同年6月20日に行なわれた広域議会選挙[7]に臨んだが、強固な地盤である湖南地域を除き民自党に大差をつけられて敗北した[8]。地方選挙での敗北を受け、第2野党である民主党(統一民主党残留派で釜山を地盤としている李基澤や盧武鉉等を中心に90年6月15日に結成された)との統合を推進し、同年9月10日に統合野党「民主党」を結成した。
- 綱領[9]
- 民主主義理念を基盤とする真の民主政府の樹立
- 中小企業主・労働大衆・農民の利益代弁、及び富の公平な分配を通じた経済正義実現
- 軍の中立
- 非同盟国家との交流を通じた自主外交
- 平和共存・平和交流・平和統一の3段階統一政策の推進
選挙における党勢推移
[編集]年月日 | 大統領選挙 | 候補者 | 得票数 | 得票率 | 当落 |
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1987年12月16日 | 第13代大統領選挙 | 金大中 | 6,113,375 | 27.1% | 落選(3位) |
年月日 | 総選挙 | 議席数 | 得票数 | 得票率 | ||
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地域区 | 全国区 | 合計 | ||||
1988年4月26日 | 第13代総選挙 | 54 | 16 | 70 | 3,783,279 | 19.3% |
主要野党の変遷過程図(第六共和国前半期)
[編集]脚注
[編集]- ^ 木村幹著『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書)254-255頁、巻末資料「韓国政党変遷図」
- ^ “「사설」 막 내린 60년 민주당(「社説」幕下ろした60年の民主党)”. 新全北新聞. (2014年3月27日) 2015年4月29日閲覧。
- ^ “「한마당-박정태」 당명 변천사… 이젠 ‘더불어민주당’(「ハンマダン-パク・ジョンテ」党名変遷史・・・これからは‘共に民主党’)”. 国民日報. (2015年12月28日) 2016年10月30日閲覧。
- ^ 金大中派の別称で、金大中の自宅所在地が麻浦区東橋洞にあることから呼ばれるようになった。なお、東橋洞の韓国語表記と読みは“동교동トンギョドン”
- ^ 得票率では19.3%と、民主党の24.8%に告ぐ第3党に留まったが、平民党は全羅道における強力な地域感情を背景として効率的に当選者を出したことで、野党第1党に躍り出ることができた。
- ^ 在野の立場で民主化運動を担っていた人々が結成した政党。「全国民族民主運動連合」(全民連)からの離脱者で政治勢力化を目指すグループが結成した「民衆の政党建設のための民主連合推進委員会」(民連推)で平民党や民主党との統合を志向する「民主連合派」の一部(金大中批判的支持派)が結成した。あくまで独自の政党作りにこだわる「民衆政党派」は「民衆党」を結成した。
- ^ ソウル特別市と釜山・仁川・大田・大邱・光州の各直轄市(現広域市)の議会と、京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道・江原道・慶尚北道・慶尚南道・済州道の各道の議会を構成する議員総勢866人を選出するために行なわれたもので、1961年の5・16軍事クーデターで中断されてから30年ぶりに復活した地方自治制度の整備の一環として行なわれた。なお同年3月に区・市・郡の基礎議会選挙が行われたが、政党公薦は禁止されていたため、当選者全員が無所属である。
- ^ 新民党は総定数866議席の内、2割弱にあたる165議席を得るに留まった。しかも、全165議席中137議席は湖南(全羅道の別称)での当選者で、湖南政党としての性格がより強まる結果となった(自治体国際化協会編集・発行、クレアレポート第103号『大韓民国の地方選挙』より)
- ^ 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』(日本評論社)553頁「平和民主党 (平民党)」の説明文より
参考文献
[編集]- 中央選挙管理委員会『大韓民國政黨史』第3輯(1980~1987)
- 金容権編著『韓国近現代史事典 1945~2004』(日本評論社)
- アジア経済研究所編『アジア動向年報』(アジア経済研究所)