金泳三

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金泳三
김영삼
Kim Young Sam 1996.png
金泳三(1996年)

任期 1993年2月25日1998年2月24日

出生 1927年12月20日
大日本帝国の旗 日本統治下 朝鮮慶尚南道統営郡長木面外浦里(現・巨済市長木面外浦里)(巨済島
死去 (2015-11-22) 2015年11月22日(87歳没)
大韓民国の旗 大韓民国 ソウル特別市
政党 自由党民主党民衆党新民党新韓民主党統一民主党民主自由党(→新韓国党)→ハンナラ党
配偶者 孫命順
署名 Kim Young-Sam signature.svg
金泳三
各種表記
ハングル 김영삼
漢字 金泳三
発音: キム・ヨンサム
(キミョンサム)
日本語読み: きん えいさん
ローマ字 Kim Young-sam
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金 泳三(キム・ヨンサム、韓国語:김영삼、1927年12月20日 - 2015年11月22日)は、大韓民国政治家。元大統領(在任1993年 - 1998年)。本貫金寧金氏韓国語版は「巨山」(コサン、거산)。略称はYS。実家は網元。日本統治時代における創氏改名時の日本名(1945年まで)は金村康右(かねむら こうすけ)。早稲田大学特命教授称号名誉法学博士(早稲田大学)

大統領になるまで[編集]

慶尚南道巨済島(現在の巨済市)出身。ソウル大学哲学科卒業。1952年張沢相国務総理(当時)の秘書官に就いたのを経て、1954年第3代国会議員選挙自由党候補として巨済にて立候補して、当時の最年少国会議員として当選、政界入りする。後に、自分のもとを訪れた日本大学生達に「反日の話を相当しないと、当選できないような時代だった」と述懐した事がある[要出典]

議員となって以後、長らくは野党の立場で活動し、朴正煕政権~全斗煥政権期の軍事政権時代には、1969年に暴漢に硝酸を浴びせられたり(金泳三硝酸テロ事件韓国語版中央情報部による犯行と推定されている)、『ニューヨーク・タイムズ』紙記者とのインタビュー記事等をめぐり国会議員除名(金泳三総裁議員職除名波動)となったり(1979年)、自宅軟禁を受けたりといった弾圧を受けたりもした。1970年代から1980年代にかけて金大中とともに代表的な野党政治家・民主化運動家の一人であった。1985年3月6日全斗煥大統領により政治活動を解禁される[1]1987年全斗煥の退任に伴って行われた第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同韓国語版に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり、1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。

大統領時代[編集]

内政[編集]

朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。金泳三は軍部政権の残滓を徹底して排除するため、軍内の派閥「ハナフェ(ハナ会)」を潰し、会員を退席させるなど、軍の改革を進めた。また、野党政治家や政治運動家などを積極的に登用し、国家安全企部長、外務大臣、統一院長官などに大学の教授を迎えた。さらには、高級官僚の不正の追及にも乗り出し、大法院院長や検事総長、警察庁長官などが辞任することになった。

政治と経済の癒着を嫌悪し、「任期中はいかなる献金も受け取らない」と宣言、質素さをアピールするため、「青瓦台での昼食はカルグクスにする」と明言した[2] 。また、歴代大統領が議員に配っていた「モチ代」の制度も無くすなど、政治の無駄の部分を排除していった。 経済面でも、不正の温床となっている仮名口座での金融取引をなくすため、「金融実名制」を実施した。しかし当時20代だった次男の金賢哲(キム・ヒョンチョル)が小統領と呼ばれるほど権威を振り回し[3]、1997年に斡旋収賄などの容疑で拘束されている[4]

外交[編集]

金泳三政権は「歴史の立て直し」を主張し、行動した。まず、対北朝鮮の懸案となっていた非転向長期囚李仁模1993年3月19日に北朝鮮に送還した。次いで、1993年8月には旧朝鮮総督府の解体を決定。1995年8月15日には解体が行われた。


1993年3月13日、これ以上日本に金銭的補償を要求せず、韓国政府が被害者に支援をすると宣言して、500万ウォンの一時金と生活補助金、医療支援、永久賃貸住宅などの支援を実施した。

「政府が自ら乗り出して正面から向き合い、民族のプライド(自尊心)を傷つけずに人道的な配慮も並行して支援しようとする最初の試みという点で、少なからぬ意味を持つ。この処置は、日本政府に相当な心理的圧迫を与える外交的効果を狙っている」と評価した(ハンギョレ新聞1993年3月30日)。

と当時は韓国内でも受け入れられた。韓国の独自支援措置の流れから、同年8月に日本から河野談話が出された[5]


同年3月19日に北朝鮮が核拡散防止条約から脱退し、朝鮮半島全土に核危機が訪れ、ビル・クリントン政権が北朝鮮の核施設への爆撃を計画した際にはこれを引き止めて後の回想で後悔している[6][7]1994年7月8日金日成が死去すると、金泳三政権は哀悼の意も表明せずに全軍に厳戒態勢を指示し、弔問のため訪朝しようとした勢力を弾圧。朝鮮半島情勢が一時期悪化した。1996年9月18日に発覚した江陵浸透事件に際しては、翌月の1996年10月1日の「建軍四八周年祝賀演説」にて、金泳三は対北朝鮮政策の軍事的見直しを発表している[8]

アジア通貨危機[編集]

任期終盤の1997年東アジア東南アジア各国を襲った経済危機アジア通貨危機)にて、金一家と親しくしていた韓宝グループ傘下の韓宝鉄鋼が最初に不渡りを出して破綻し韓国のIMF危機のきっかけになった[9][10]。さらに起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化し、国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となったことは韓国国民からは恥辱的とも受け取られ、そのまま任期で大統領を退任した。

IMFの指導を受け入れる前、日本から単独金融支援を獲得して事態を彌縫しようとつとめたが、これは拒絶された。

このような経済政策の失敗から、1999年6月3日午前には日本に向けて出発しようと金浦空港に着いて沿道の人々と握手をしていた時、71歳の男がペンキ入りの卵を金泳三の顔に炸裂させるという事件が起きた。彼の顔とスーツが真っ赤に染まった姿は世界中に配信され、男は「金融危機を招き、国を危機に陥れた罪を償い、深く反省しなければならない」と叫びながら、「IMF事態にまで国を滅ぼした金泳三は、国民に対して謝罪しなければならない」という内容のビラをばら撒いていた。この事件には、一部の国民の間には拍手を送るような雰囲気すら感じられた[要出典]

退任後[編集]

直情径行の面があり、退任後の行動などでも韓国国民の不評を買う場面もあり、現在の韓国内の評価は高くないとも言われる。

2002年より早稲田大学の特命教授に就任。公共経営研究科への特別講義や大学全体への公開講演会の開催など年に約2回の訪日時には、本人は「もう大分忘れてしまった」と謙遜気味に語ってはいるが、流暢な日本語での講義を受け持っており、テレビ出演もしている。

2015年11月22日午前0時21分、ソウル大病院で敗血症急性心不全で死去[11]。87歳没。

反日大衆迎合主義者[編集]

日本に対しては、常にその歴史認識を問題にし、1995年11月14日には、当時の中華人民共和国江沢民国家主席との会談の中で、「日本の腐った根性(朝鮮語:ポルジャンモリ、日本語で「バカたれ」などに相当する、上の立場の者が下の者を叱る朝鮮語の俗語)を叩き直してやる!」などと発言したこともあり[12][13][14]、常に反日的な姿勢を顕著にしていた。この発言に対しては、日本の対韓感情が悪化した。

また、現在まで続く両国の領土問題である竹島問題についても、任期中の1995年に大韓民国政府として、船の接岸施設など初めて施設を建設するなどの強硬態度を打って出た。この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられた。

就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応では、非協力的で日本側に不興の声も上がった。また、いわゆる韓国の独立記念「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、上述の旧朝鮮総督府解体のほか、風水に基づく全国規模での測量用鉄杭除去など人気取りのための反日事業を推進した[15]

長年産経新聞ソウル特派員をしてきた黒田勝弘金泳三を『韓国社会の“独島愛国主義”を拡大・「歴史の正しい立て直し」として博物館としていた旧朝鮮総督府ビルを独立50周年記念で爆破解体・慰安婦問題では河野談話アジア女性基金による解決策を軽視で問題の長期化させるなど反日愛国大衆迎合主義の大統領だったと日本には苦い思いが残る人』と称している[16]

エピソード[編集]

  • 回顧録にて1997年に次男の金賢哲が斡旋収賄で拘束された直前には「正常な国政運営が不可能で在任中、最もつらく孤独な時間で仕事が手につかなかった。ありとあらゆる煩悶、悔恨で夜も眠れなかった」と語っている。次男を「無理矢理でも海外に送っておけばと無念が起こった」とし、この時期の大統領府(青瓦台)を「監獄」と例え、一日も早く任期を終えたいと「なぜ大統領になろうとしたのか一体分からない」と話したこともあった[17]
  • 後に大統領になる盧武鉉釜山の人権弁護士から、李明博を現代建設会長から政界にスカウトした。さらにセヌリ党の元代表である金武星、大統領選挙に三度出馬した李会昌自由韓国党重鎮李仁済も金泳三が抜擢して重用して出世のきっかけをつくった[18]
  • 金大中に対するライバル意識は驚くほど強く、金大中に話が及ぶと熱くなった[19]
  • 金大中とは1987年大統領選で候補者一本化に失敗して共倒れして以来、良好とはいえない関係が続いていたが、金大中の死去(2009年8月18日)の直前の2009年8月10日、入院中の金大中を見舞い、「私たちは世界で類例がない特殊な関係」「私たちは第6代国会の時代から同志的な関係にあり、長い間同志の関係にあったが、競争関係でもあったんですよ。だから、愛憎が交差する関係です」と述べた[20]。記者団の「お二人が和解したものと受けとめてもいいか」との質問に「そう考えてもいいです。そろそろそのような時期が来たようです」と答えた[21]。金大中が死去した際には、「国の巨木が倒れた」と語った[22]
  • 私邸がソウル市銅雀区上道洞にあったことから、金泳三系の政治家は「上道洞系」と呼ばれる。
  • 韓国マスコミでは金大中が「智将」とされるのに対して、金泳三は「徳将」と呼ばれる。ほとんど読書をしないので有名。そのため発言には稚拙な部分が多いといわれている。ただし読書はしないが多数の著書を出しており、「金泳三の出した本の数と金大中の読んだ本の数は同じ」といわれる。
  • 外遊先でも毎朝のジョギングを欠かさないことでも有名だった。
  • 祖父が当時としては珍しいクリスチャンで教会に通っており、母[23]も教会で仕事をしていたこともあり、敬虔なプロテスタント教徒として知られる。就任当初ネオン街追放に乗り出したのはその熱心な信仰が原因と言われている。
  • 好きな飲み物はバナナ牛乳
  • 日本統治下1943年から1945年まで統営市にあった統営中学校に通った[24][25]。統営は戦前、小いわし漁で栄え、広島県が多く移住していたが、統営中学の教頭が広島高等師範学校出身の渡辺巽で、渡辺は韓国人と日本人学生を絶対に区別せず、金は敬慕の念は抱いた[24][25]。まだ日韓間に国交はなく、反日感情も厳しかった1954年、金が国会議員に初当選した後、渡辺夫妻を韓国に招いている。大統領就任後も渡辺の遺族を官邸に招待した。金は「私の一生を通じても強く印象に残る」「両国にとっても先生のような方がいてくれてよかった」と述べている[24][25]
  • 対日穏健派とみられていた後任の金大中が公式な場は勿論、私的にもあまり日本語で話さないことにしていたのに対して(但し、非公式な場での日本人記者からの取材には日本語で応じていた)、上記の早稲田大学での講義や日本人ジャーナリストとのインタビュー等では、基本的に日本語で対応する。
  • 小泉純一郎元総理の靖国神社参拝には反対姿勢を表明し、戦犯をリストから除名するのは「問題ない」とコメントしている。
  • 盧武鉉を見出したのも彼であるが、後年のJNN報道特集記者団とのインタビューでは「彼を政治家にしたのは大きな間違いだった」と発言している。
  • 当初は北朝鮮に対して宥和姿勢で臨み北朝鮮も久々の文民出身大統領であることから非難を差し控えていた。しかし、党内強硬派の圧力が強まるに従い対北朝鮮強硬姿勢に転じたため、平壌放送で「人間のくずの金泳三」と放送されたことがある。同時に(就任後時間が経ってから)お決まりの「反動」規定を受けた。
  • 金大中大統領が南北首脳会談の実績によってノーベル平和賞を受賞した際に「ノーベル賞の権威は地に落ちた」と批判したことがある。これは1994年に行われるはずだった南北首脳会談が金日成の急死によって開催できなかったことと仮に開催できていれば金泳三自身がノーベル平和賞を受賞していた可能性があることも背景として挙げられる。
  • 2000年10月13日高麗大学校政経学部政治学科の教授の招待によって、大統領学という講義で特別講演をする予定だった。しかし、キャンパスに到着した午前11時頃、総学生会の主催で集まったメンバー約150人余りが「IMFを招いたYS(泳三)、我々はあなたを招待した覚えはない」などの立て看板が掲げて正門に立ちはだかり、12時間以上もの間、金泳三が乗った車を学校に入れないようにした。こうして、車の中で籠城した挙句、講義ができないまま帰宅させられてしまった。
  • 応接間には故郷の巨済島の港町を描いた洋画が飾られており、日本人記者団に「私は死んだら、ここに埋めてもらうつもりです」と語ったことがある。
  • 孫命順夫人とは、大学生時代に知り合い、恋愛結婚だった[26]
  • 日韓国会議員サッカー大会の前日に山本順二を自宅に招き日本語で会話するなど、日本とは非常に親しい関係である。

脚注[編集]

  1. ^ 今日の歴史(3月6日) 聯合ニュース、2009年3月6日
  2. ^ カルグクスは朴正煕の好物でもあり、これが朴の清廉さという評判の一因にもなっていた。ただ、金政権の側近には不評で、青瓦台付近の焼肉屋がこのおかげで繁盛したという。
  3. ^ クリーンな指導者」イメージ崩壊 朴槿恵さん、あなたもか…」,産経新聞
  4. ^ [1]「【萬物相】「私はこんなことをするため大統領になったわけでは…」」]朝鮮日報.
  5. ^ http://huffpost.com/jp/entry/4909640
  6. ^ Sandilands, Ben (2011年9月6日). “金泳三元大統領、米国の北朝鮮爆撃計画阻止を後悔…ウィキリークス”. 中央日報. http://japanese.joins.com/article/532/143532.html 2017年5月24日閲覧。 
  7. ^ Sandilands, Ben (2017年5月24日). “「北爆撃止めた」金泳三氏”. 東京新聞. http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2017052402000135.html 2017年5月24日閲覧。 
  8. ^ 平岩俊司『北朝鮮――変貌を続ける独裁国家』中央公論新社〈中公新書2216〉、東京、2013年5月25日発行、144頁。
  9. ^ [2]「韓宝鉄鋼倒産-金大統領一族に疑惑 」,民族時報,1997年2月1日.
  10. ^ [3]「<総合>IMF危機の引き金韓宝鉄鋼6年ぶり正常化へ」,東洋経済日報,2003年2月14日.
  11. ^ 韓国:金泳三元大統領死去、87歳「民主化運動の闘士」 毎日新聞 2015年11月22日
  12. ^ “「悪い癖を直す」発言より「散歩デモ」が日本に有効だった(1)”. 中央日報. (2014年7月2日). http://japanese.joins.com/article/207/187207.html 2016年5月29日閲覧。 
  13. ^ “【ニッポンの分岐点】日韓関係(3)歴史認識 政治決着も埋まらない溝 (1/3ページ)”. 夕刊フジ. (2014年1月27日). http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140127/frn1401270854000-n1.htm 2016年5月29日閲覧。 
  14. ^ 鈴置高史 (2015年10月15日). “ニューノーマルになった日本人の「韓国嫌い」<特別編>連載150回を振り返る(1)”. 日経ビジネス (日経BP). http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/101000017/?P=2&mds 2016年12月3日閲覧。 
  15. ^ [4]「 韓国元大統領、金泳三氏が逝去 87歳」,産経ニュース
  16. ^ [5]「反日愛国に精出す 竹島に埠頭“独島愛国主義”のスタート切る」,産経ニュース,2015年11月13日.
  17. ^ [6]「【萬物相】「私はこんなことをするため大統領になったわけでは…」」]朝鮮日報.
  18. ^ [7]「高度成長と民主化、世界化から一転IMF危機 評伝 金泳三大統領時代と激動期の韓国経済」,JBpress,2015年11月27日.
  19. ^ [8]「高度成長と民主化、世界化から一転IMF危機 評伝 金泳三大統領時代と激動期の韓国経済」,JBpress,2015年11月27日.
  20. ^ “공과가 교차하는 김영삼 전 대통령의 88년 삶”. 京郷新聞. (2015年11月22日). http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201511220143221 2017年6月23日閲覧。 
  21. ^ “金泳三氏、金大中氏をお見舞い”. 中央日報. (2009年8月11日). http://japanese.joins.com/article/037/119037.html 2017年6月23日閲覧。 
  22. ^ “【金大中元大統領逝去】金泳三元大統領「国の巨木が倒れた」 ”. 中央日報. (2009年8月18日). http://japanese.joins.com/article/358/119358.html 2017年6月23日閲覧。 
  23. ^ 1960年5月24日に、侵入してきた北朝鮮のスパイに殺害される。
  24. ^ a b c 伊東雅之 (2015年12月5日). “人間の尊厳に強い思い 金泳三元韓国大統領を悼む”. 中国新聞 (ヒロシマ平和メディアセンター). オリジナル2015年1月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20160103161518/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=54292 2016年1月4日閲覧。 
  25. ^ a b c “金泳三氏と日本人恩師”. 中国新聞 (中国新聞アルファ). (2015年11月24日). オリジナル2015年1月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20160103161909/http://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=202137&comment_sub_id=0&category_id=143 2016年1月4日閲覧。 
  26. ^ テレビ番組『平成日本のよふけ』出演時に発言。

関連文献[編集]

  • 著書
    • 『私とわが祖国の真実』 記録社、1985年
    • 『新韓国の創造』 姜尚求訳、東洋経済新報社、1994年
    • 『新韓国21世紀へのビジョン』玄于享訳、エムティ出版、1993年
  • 伝記
    • 木村幹 『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』 中公新書、2008年
    • 池東旭 『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』 中公新書、2002年
    • 尹昶重 『金泳三大統領と青瓦台の人々 韓国政治の構造』 平井久志訳、中央公論新社、1995年
    • 小林慶二 『金泳三 韓国現代史とともに歩む』 原書房、1992年
    • 東亜研究会編 『韓国の新しき旗手金泳三はかく叫ぶ』 成甲書房 1980年

外部リンク[編集]