峯本達雄
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 日本・和歌山県東牟婁郡古座町 |
生年月日 | 1953年6月12日(71歳) |
身長 体重 |
177 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト4位 |
初出場 | 1978年6月29日 |
最終出場 | 1980年8月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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峯本 達雄(みねもと たつお、1953年6月12日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。右投右打。
来歴・人物
[編集]プロ入り前
[編集]新宮高では、左翼手として1971年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、市和歌山商に敗退。高校時代のチームメイトに庄司智久がいた。
高校卒業後は、社会人野球の新日本製鐵堺に入団。1976年の都市対抗野球では、試合前の本塁打競争に優勝。河合楽器との1回戦でも本塁打を放ち注目される。社会人時代のチームメートに中出謙二や尾西和夫などがいた。
1976年のドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受けて入団した。
プロ入り後
[編集]1977年には、ウエスタン・リーグ公式戦42試合に出場。打率.269、4本塁打、27打点という成績を残した。しかし、足の骨折で出遅れたため、一軍公式戦への出場機会がなかった。
1978年には、一軍公式戦17試合に出場。主に代打として起用された。7月5日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)では、代打で一軍初本塁打を放っている。
1979年には、ウエスタン・リーグ公式戦62試合に出場。55打点で打点王のタイトルを獲得したほか、打率.309、10本塁打という好成績を挙げた。しかし、一軍公式戦への出場機会はなかった。
1980年には、登録を内野手に変更。一軍公式戦へ2年振りに出場したが、1試合にとどまった。68試合に出場したウエスタン・リーグ公式戦では、打率.272、46打点を記録。さらに、8月24日の対広島東洋カープ戦で3打席連続本塁打を放つなど、自己最多の16本塁打(いずれも球団のファーム公式戦シーズン最多記録)を達成した。
1981年には、一軍・二軍とも、公式戦への出場機会がなかった。結局、一軍公式戦で守備に就くことがないまま、この年限りで現役を引退した。
現役引退後
[編集]1982年から2015年まで、阪神球団に職員として在籍。用具係・スコアラー・管理部査定担当・編成部査定調査担当・管理部次長・管理部長を経て、球団本部長を最後に退職した[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1978 | 阪神 | 17 | 18 | 18 | 2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | .111 | .111 | .333 | .444 |
1980 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:2年 | 18 | 19 | 19 | 2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | .105 | .105 | .316 | .421 |
表彰
[編集]- ウエスタン・リーグ打点王:1回(1979年)
記録
[編集]- 初出場:1978年6月29日、対ヤクルトスワローズ11回戦(明治神宮野球場)、8回表に安仁屋宗八の代打で出場
- 初安打・初本塁打・初打点:1978年7月5日、対中日ドラゴンズ15回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に伊藤弘利の代打で出場、フレッド・クハウルアからソロ
背番号
[編集]- 35(1977年 - 1981年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)