古市利三郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1866年 福井県福井市松ヶ枝下町 |
死没 | 1940年(享年74歳) |
市民権 | 福井県士族 |
国籍 |
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出身校 | 東京高等師範学校 |
配偶者 | 古市 ふよ(妻) |
両親 |
古市 勘兵衛(祖父) 古市 勘十郎(父) |
子供 | 古市 誠(養子) |
学問 | |
研究分野 |
教育学 博物学 |
研究機関 |
福井師範学校 和歌山師範学校 沖縄師範学校 栃木女子師範学校 岩手師範学校 |
学位 | 文学士 |
称号 |
従三位 ![]() 勲四等 ![]() 勅任官(高等官一等) |
主要な作品 |
『和歌山県の小学校』 『東牟婁郡の教育』 『農村教育と地方改良』 |
古市 利三郎(ふるいち りさぶろう、1866年〈慶應2年〉4月 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の教育者。師範学校校長、県立図書館館長。位階は従三位。勲等は勲四等。高等官一等、勅任官。
略歴
[編集]福井県士族古市勘十郎の長男として1866年4月に生まれる[1]。1888年4月に東京高等師範学校の初等中学師範学科を卒業[2]した後、福井師範学校教授、和歌山師範学校校長、沖縄師範学校校長、栃木女子師範学校校長、岩手師範学校校長、岩手県立図書館館長[3]を歴任し、1930年に64歳で退官した[4]。その際に高等官一等(勅任官)[5]まで昇叙、従三位[6]勲四等を叙された。講書始の儀の進講者も務めたとされる[7]が、明確な出典は確認されていない。
生涯
[編集]師範学校長として
[編集]福井師範学校(後の福井大学)で教授兼舎監長[8]として14年勤務した後、和歌山師範学校(後の和歌山大学)校長として、帝国教育で「和歌山県の小学校」「東牟婁郡の教育」と題した教育に関する研究を発表した[9][10]。栃木女子師範学校(後の宇都宮大学)校長として「農村教育と地方改良」と題した講演を行い、農村教育の一環として女子教育の重要性についても述べている[11]。実際に、沖縄師範学校校長として沖縄女子師範学校設立の発起人となっており、そのことを「女子師範独立の議」と題して記している[12]。また、沖縄にて孔子廟の修繕のため寄付金の募集を呼び掛けられたことがあり、その寄付には「多彩にして著名、公職にある者たちが多く参加した」とされるが、古市利三郎は15人の発起人の1人である[13]。岩手師範学校(後の岩手大学)校長として「古市利三郎氏は人も知る大先輩。老巧勝山校長時代の岩手師範学校暗黒時代の後をうけて、とにかく今日の設備と整頓さをもった大師範学校を築きあげた」と評されている[14]。1926年~1927年には岩手県立図書館館長も兼任した[3]。1930年に岩手師範学校校長としての任を終えた際に退官[4]し、従三位[6]、勲四等、高等官一等(勅任官)[5]に昇叙された。
人物について
[編集]幼年期に係る記録は残っていないものの、田舎で生まれ育った上で22歳で東京高等師範学校を卒業[2]しており、これは他の師範学校長と比してかなり若い年齢であるから、その優秀さが推察される。「高等師範学校専攻科卒業者の称号に関する件(昭和5年勅令第36号)」により特例的に文学士と称することが認められていいた[15]ので、文学士である。岩手師範学校では校長でありながら修身(道徳)教えている。西洋倫理学として、ベインの倫理学を推奨している[16]。地理学にも精通しており、和歌山師範学校教授が執筆した「和歌山県地誌」の序言を頼まれた[17]。福井師範学校時代の担当科目は教育、化学、博物であり、説明(ときあかし)という語をしきりに常用したとされる[18]。担当教科の影響あってか、和歌山師範学校にて理科室や博物館に3万円(現在にして約1億円)[19]の資金を投じている[20]。蔬菜の栽培が趣味であり、自家用のものは自ら種子を撒き自ら肥料を施した[21]。「改定農業教科書」の編纂にも加わっている[22]。
養子について
[編集]農学への関心の一致からか、1923年に札幌農学校(後の北海道大学)を卒業した古市誠(1894-1957)を養子としている。古市誠は後に鳥取高等農学校(後の鳥取大学)教授[23]、台北帝国大学(後の台湾国立大学)教授[24]、弘前大学初代農学部長[25][26]。弘前大学農学部の中庭には、学部創設時に古市誠学部長らが植樹したイトヒバと、その横に学部50周年記念に「初代学部長 古市誠 博士」と記された木標がある[27]。養子である古市誠は最終的に、ビタミン[28]、ペクチン[29]、蔬菜の加工法[30]などを研究し、農学博士(北海道大学)[29]、従四位[31]、高等官五等[24](奏任官)。
後年について
[編集]1927年に、放蕩のため退学となった元生徒から逆恨みによる襲撃を受けた[32]ことが東京朝日新聞の記事となっている。その際に女中が重症を負ったようあるが、古市利三郎はその後も師範学校長として活動を続けていることから無事であったようである。また、厳密な死亡日は不明であるが、1939年には日本紳士録に紹介されておりそれ以降は記載がないことから、この辺りであると思われる[33]。船の事故による死亡であり、国の用事で台湾に向かう途中に起きたとされる[34]が、正確な所は不明である。台湾には1896年にも視察に行っており、当時の記録が残っている[35]ことからある程度の信憑性はあるが、既に退官済み[4]で役目を全うしており、さらに国の用事で台湾にというのも奇妙な話ではある。何れにせよ70歳前後まで生きていたので、1900年における日本の平均寿命は44歳である[36]ことに鑑みれば、かなりの長寿であった。40年以上の年月をかけて教育の推進に従事し、師範学校長を約30年間務めたこととなる。
公職の期間
[編集]公職 | ||
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先代 ─ |
福井県師範学校教授 1888年4月-1912年12月 |
次代 ─ |
先代 角谷源之助 |
和歌山県師範学校長 1902年12月-1912年10月 |
次代 有坂幾造 |
先代 森山辰之助 |
沖縄県師範学校長 1912年10月-1915年4月 |
次代 保田銓次郎 |
先代 東基吉 |
栃木県女子師範学校長 1915年4月-1921年9月 |
次代 勝山信司 |
先代 勝山信司 |
岩手県師範学校長 1921年9月-1930年3月 |
次代 瀬谷真吉郎 |
栄典
[編集]位階
[編集]1905年 従七位(官報1905年4月20日)
1908年 正七位(官報1908年2月15日)
1908年 従六位(官報1908年6月1日)
1914年 正六位(官報1914年3月31日)
1920年 従五位(官報1920年12月7日)
1929年 正四位(官報1929年12月17日)
1930年 従三位(官報1930年5月5日)
勲等
[編集]1914年 勲六等(官報1914年3月31日)
1922年 勲五等(官報1922年10月30日)
1929年 勲四等(官報1929年12月17日)
高等官
[編集]1905年 高等官六等(官報1905年4月20日)
1908年 高等官五等(官報1908年2月15日)
1920年 高等官三等(官報1920年12月7日)
1930年 高等官一等(官報1930年3月28日)
著作一覧
[編集]- 『農村教育と地方改良』(「栃木県地方改良講習会」、栃木県庁、1916年、pp224-235)[11]
- 『和歌山県の小学校』(「帝国教育 第325」、帝国教育会、1909年8月、内報pp45-58)[9]
- 『東牟婁郡の教育』(「帝国教育 第331」、帝国教育会、1910年2月、内報pp66-72)[10]
- 『女子師範独立の議』(「白百合のかおり」、白百合会、1915年、pp122-124)[12]
- 『序言』(「和歌山県地誌」、春日賢一、1911年、序言)[17]
- 『師範教育に於いて一部を主とすべきか、二部を重しとすべきか?』(「日本教育」、南郊社、1927年7月、)[37]
- 『退学になった師範生、賊となって校長の宅へ』(東朝夕刊、1927年11月5日)
地方改良に関する主張
[編集]この章は、古市利三郎の「農村教育と地方改良」[11]を元に作成されています。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c4/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88_2024-01-21_133048.png/220px-%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88_2024-01-21_133048.png)
- 究極目的は地方を改良することである〔第一目的:地方改良〕。
- 地方を改良するときに行うべき事柄は多くあるが、それを実行するのは人である。
- よって、まずは地方人の頭を改良することが必要である〔第二目的:地方人の教育〕。
- また、人々は異なる思想や感情を持つものだが、多数の集合団体である町村民衆が協同一致して町村に尽くすことも必要であり、町村民衆をまとめる啓蒙もまた必要である〔第二目的:地方人の啓蒙〕。
- そして、その啓発指導の任にあるべき中心人物が必要であり、実際に模範町村には優良村長がいることが常である。しかし、そのような村長がいることは稀である。
(1)主張:従って、多くの町村において最も再現性が高いのは小学校長であると考える〔行動主体:小学校長〕。
- なぜならば、小学校長は少なくともその職責上常に知徳の修養を積み〔要件:能力〕、かつ町村において将来公民になる児童青年を教養し指導する役目にある者であり〔要件:教育職責〕、そこに進んで町村改良に力を尽くそうとする熱心と誠意が加われば〔要件:熱意と誠意〕、卓越したものになると考えるからだ。
- 実際に、そのような例は珍しくない。たとえば、東京府の戸倉村における小学校長の例がある。難村であったが彼が第一に青年の頭を造ることが急務という考えで、非常にこの事に尽力した。その結果、村の青年三十ばかりが率先的に団結して、小学校長を中心に各事業の改良発展を成功させた。
(2)主張:また、農村に適した教育内容と施設設計が必要である〔要件:教育内容、施設設計〕。
- なぜならば、地方教育者は都会での研究結果を参考に施設設計や教授を行う傾向にあるが、その教育は必ずしも農村教育に適さないからだ。農村においても、施設設計や教育内容が比較的都会本位である。
- その意味で、府や県の師範学校付属小学校において、第二附属小学校や代用附属小学校という名義のもとに農村小学校を附属校にして農村的教育研究をなす所が段々増加する傾向があり、これは望ましいことである。
- 実際に、広島、熊本、鹿児島、福井、宮城などで農村小学校を代用してその教育研究に従事し、その成績極めて良好である。私の前任地である沖縄の師範学校においても、学校長として代用附属小学校設置を県の賛同を得て行い、いくつか得るところがあったので、4つの点を説明したい。
- 1つ目は、農村小学校において、その施設設計は勿論、教育内容においても出来るだけ農村的に研究することが必要である。
- 施設設計としては、例えば校舎の余地を利用し植栽をし、周囲の木を用いた塀を止めて果樹を植え山葡萄を作る、或いは楠その他有用な樹種の生垣を作るということ等がある。
- 教育内容ついては、例えば各学科の教材にしてもよく郷土の資料を研究し、また村の人口、産業、財政、施設などの現状を把握して、悪いものがあればその改善方法を定めるといったことをして、十分に教材を地方化或いは郷土化する必要があるということである。
- 2つ目は、農村改良上、農村小学校には是非実業補習学校を敷設して、これを奨励することが必要であるということだ〔要件:実業補習学校〕。
- 3つ目は、農村改良上、青年会を指導奨励することが最も必要で理にかなった径路であることは今更言うまでもないことである〔要件:青年会〕。
- 4つ目は、女子教育の必要性である。なぜならば、女性は国民の半数であって、女子の教育指導が地方改良に大いに関係があるからだ。〔要件:女子教育〕。
(3)結論としては、農村を改良するにおいて最も重要なのは改良を実施する地方人の教育であり、そのためには教育に係る職責と能力があり、進んで町村改良に力を尽くそうとする中心人物が必要であるが、それは小学校長であることが要件に照らして合理的であり、その小学校長が中心となって動くにおいて、農村に適した教育内容を提供すること、及び農村に適した施設設計(実業補習学校、青年会、女子教育など)を構築することが重要であるということである。地方教育家諸君の奮起を希望する次第である。
[現代語訳] 農村教育と地方改良
[編集]栃木県女子師範学校長 古市利三郎
ここ本県[注 1]において地方改良講習会が当校[注 2]で開催されるということで、愚見を披露する機会が与えられたことは、私の最も光栄とする所である。しかしながら私は着任日が浅く[注 3]未だ本県の事情に暗いので、適切な講話を行うことが出来ないことが誠に遺憾であるが、「農村教育と地方改良」という題目のもとにいささかの所感を述べることで一応の責任を果たすこととした。地方を改良するにおいて施設経営すべき事柄は色々あるが、これを実行して行く者は帰するところ人である。よって、地方を改良するには、まず地方人の頭を改良することが第一に必要である。また、人の顔つきがみなそれぞれ違っているのと同様、人の心もそれぞれ違っていると古くから言われている[注 4]ように、人々は多少異なった思想や感情を持つものである。よって、多数の集合団体である町村民衆を統一して、よく協同一致してその町村のためにそれぞれ尽くすことが極めて必要である。そのためには、町村長、小学校長、若い篤志家[注 5]などの町村民衆を糾合する、その啓発指導の任にあるべき中心人物が必要であることは言うまでもない。それ故に、あの静岡県の稲取村[注 6]、愛知県の杉山村、千葉県の源村、東京府の戸倉村、広島県の広村、三重県の玉滝村、岡山県の八浜町[注 7]、その他いくつかのような摸範町村には、必ず中心人物として人格高くかつ献身的な優良町村長がいることが常である。しかしながら、全ての町村にこのような良町村長が居るという状態に至ることは、思うに、容易ではない。考えるに、各町村の小学校長はたとえ完全に崇高な人格者では無いとしても、その職責上常に知徳の修養を積みかつ町村において将来公民になる児童青年を教養し指導する役目にある者であって、進んで町村改良に力を尽くそうとする熱心と誠意さえあれば、その結果、思うに、卓越したものとなるであろう。故に今日の場合、農村開発の先鋒[注 8]となり農民啓発の重要な役割を務めることに最も適当な人物は小学校長教員であると信じるのである。実際に全国優良町村の功績を調べると、小学校長の立場でその地方改良に努力して成功する例は決して珍しくないようである。今、下に数例を挙げよう。
東京府西多摩郡戸倉村は今日でこそ全国中の優良村に数えられているが、今から十数年前には非常に難村で、例えば財政は全く乱れて小学校の教員給も長い間支払いが出来なかった。当時の小学校長は疋田浩四郎[注 9]という人であったが、この人も三年間も全く給料を受け取れず、やむなく自らの家の生活費は僅かな家財を売り払って一日を送っていた位であった。だから、村の同情する者たちは校長に向って、このような村にいつまで居ても給料が出ないばかりでなく到底行く末の見込みがないからと頻りに転任を勧めたそうである。しかし、校長は容易にこれに耳を傾けず、「なるほど将来いつまで在職したとしても解決の見込みがないかもしれないが、毎日嬉々として登校するあどけない子供の顔を見たり、又は無邪気な青年の姿を見ては到底この村を去るという心は起こらない、寧ろ微力を奮って村治の改良を測り村のために尽くそう」と覚悟を決め、この難村を復興するにはまず第一に青年の頭を造ることが急務という考えで、非常にこの事に尽力した。遂に校長のひたむきな真心がその効果を顕して、村の青年三十ばかりが率先的に団結して是非とも村治を改良させたいということで、この学校長を中心としてようやく各事業の改良発展を見て、今日の名声を博するに至ったそうである。明治二十九年に疋田校長が亡くなった時には、村民は村財政が整わず待遇が悪いことに悩むことはなく、財政を整えることに励んだことを懐かしみ、そして、この村の今日があるのは全く同先生のおかげであるとして墓碑を村共同墓地に建立して、香花は今に至っても絶えることがないということである。
広島県賀茂郡川上村は日本のデンマークと言われて非常に養鶏の盛んな所である。しかし、元来この村は一時養蚕が非常に盛んであったので大層村が栄えていた。そして、ある年繭相場の下落のために悲境に陥った結果が小学校へ現れて児童の欠席者が大層多くなった。それを受けて、その校長が役場へ行って、「どうも近頃は欠席児童が多くて困る。学校では全力を挙げて督促するけれども、どうも親たちが出さない。どうか役場の方からも一つ督促を願いたい。」と伝えた。ところが、その時の村長が言うには、誠に先生にはすまないが実はこの村は今日では食うや食わずの村になって来たとのことだ。親として子供を学校に出したいのは山々だけれども、今日のこの村では一人でも飯を食う人を減らさなければならない状況であるから、背に腹は代えられぬということで、学校に出る子供を引かせて広島辺りへ丁稚奉公に出している。これは出す親も泣きの涙で出しているし、出る子供も学校をやめるのは如何にも残念だと涙を振るって出て行っている。実に困ったものですと嘆いていた。この学校長は佐々木正夫という人であったが、「それは誠に気の毒なことだ、陰ながらそういうことを聴かない訳でもなかったが、そういう甚しい難儀な有様とは思わなかった」と言って何か思う所があって自宅へ帰ってよく考えて、やはりどうしてもこの村をどうにかしなければならないという結論に達した。生活に困らないようにしなければこの学校も立ち行かないということで、同氏はそれぞれの家に養鶏を奨めて一村の副業とすることを期待した。まず一般村民に勧める前に自ら養鶏の術を研究しようということで本務の余暇に熱心に鶏を飼養し三年、一日もやめることなく時には雛鳥と生活を共にしてその発育の順序を明らかにし、遂にはその身振りを見て直ちに健康かどうかを判別出来るようになったという。このようにして、鶏の飼育方がわかってから初めてこれを村民に勧誘奨励し、或いは鶏小作法を出し、或いは鶏講という頼母子講を始めて養鶏事業を全村に普及させてみせた。また、産卵の共同販売法を始めてこれを呉市、又は広島地方に輸出し数年にして年産額一万数千円[注 10]に達したという。こうして自ら農家の財政も快復して児童の就学も復旧したということである。
岐阜県山県郡に保戸島村といって戸数僅かに百五十戸ばかりの村がある。この村の尋常小学校長の篠田次郎氏という人も学校によって一村の農業改良の中心としてよく成功した一人である。同氏は、この学校は尋常小学校に農業科が設けられている訳では無いが、農村の小学校は当然農村的であるべきという考えを持ち、また地方改良の指導者になることを期待し一生懸命に農業の方法を児童に教えると同時に父兄にもまたこれを教えた。学校には一坪の実習地もないが、同氏は村全体の水田を自分の学校の実習地と考え、害虫が発生する頃になると放課後または日曜休暇に子供を引率してその駆除をし、虫に関する子供の頭を養うと共に農民による害虫駆除の必要を感じさせた。その他、短冊苗代[注 11]や正条植[注 12]などの農事改良の方法は、学校教師の努力によりこの村では早くから普及したということである。
このように一旦小学校が中心となって地方を改良しようとして奮励努力したならば随分と偉大な効果を奏することが出来るものであるが、翻って考えるに、従来の教育は校門内に閉塞されて功徳を郊外に及ぼすことが少なかったのみならず、教授にしても訓練にしても比較的都会本位で農村的な所が少なかったことは疑いなき事実である。故に、学校教育が農村の振興のために比較的効果が少ないとなれば、都会生活を促す傾向が無きにしも非ずであった。これは独り我が国ばかりでないと見えて、かつて英国にて委員を選び農村衰退の原因を調査した報告書の中には「近年、農村の人が労働を嫌って来たというのが農村衰退の一大原因であるが、特に青年者の間にこの悪傾向が盛んになってきた。そして、この間において、現在の小学校の教育がこの弊風を作る一原因をなして居る」という意見が多くあったということである。我が国においては、仮にこのような極端な弊害はないにしても、農村小学校においてその内容上、十分に農村的に計画されなかったことは疑いようのない事実である。
元来、我が国における教育研究の中心は都会にあって、その研究の結果が新刊書や雑誌に発表されれば、地方教育者は直ちにこれを探して施設経営する傾向があったが、全く都会地においては到底農村に適切な教育上の研究が出来るものではない。また、地方教育の中心である師範学校附属小学校も多くは市街地にあって、やはり都会的であろうとして、これは従来農村に適切な教育法が行われなかった一大原因ではなかろうか。思うに、近年になって農村教育は農村経営の主点と認められ、農村教育者もまた従来のように校舎内に制限されずに農村を学校の勢力範囲とし、農村改良の中心でありたいと思い、時に教育者でありながら他の模範村や優良町村を観察考察して農村に適切な教育を実現しようとする者が多くなったのは、誠に喜ばしい現象である。
府や県の師範学校付属小学校において、前に述べた通り、従来の付属校ではその管轄内に最も多くの農村小学校の模範である教育研究が出来難いという見地から、第二附属小学校や代用附属小学校[注 13]という名義のもとに農村小学校を附属校にして農村的教育研究をなす所が段々増加する傾向がある。あの大阪天王寺師範学校においては、有名な西成郡生野村小学校を代用附属小学校としており、その施設研究の一端として、同師範学校長の村田宇一郎氏は自治民育要義という一書を著してこの世に発表した。その他、私の知る所でも、広島、熊本、鹿児島、福井、宮城などにも同様に農村小学校を代用してその教育研究に従事し、その成績極めて良好であった。私の前任地である沖縄の師範学校においても、私は同様の理由のもとに代用附属小学校設置の必要を主唱し、幸いにも県当局の熱心と県会の賛同を得て、大正二年度より校地をへだたる半里程にある嶺吉尋常小学校を代用として在職二年半、この指導に従事していささか得る所があった。それならば、進んで如何なる点に努力し、如何なる順序に着手したならば農村教育を適切なものとし、農村改良に貢献することが出来るかということを次に論じる。
第一には、農村小学校において、その施設方法は勿論、教授訓練の内容方面においても出来るだけ農村的に研究することが必要である。例えば、各学科の教材にしてもよく郷土の資料を研究し、また村の人口、産業、財政、施設などの現状を把握して、悪いものがあればその改善方法を定めるといったことをして、土地実際の状況に適当なこと、即ち十分に教材を地方化或いは郷土化する必要があるということである。学校園、つまり児童や生徒を自然に親しませ自然科学の学習に活用させるため学校内に作った農園や花園、も一時は随分その筋の奨励により旺盛を極めたが、その地方に適切でなかったからか、或いは教師の利用が十分になされていなかったからか、兎に角今日では荒廃して哀れな状態が多いようであるが、これも都会地小学校における学校園を農村的な学校園とは全くその趣きを異にしなければならないと考えられる。私が考えるに、農村小学校において理科その他の教材を供給し観察する、或いは校舎に美観を併置し児童に勤労の習慣を養うために普通の学校園を設置する必要はなく、それよりは農村小学校を高等科併置校にすることは勿論、尋常小学校においても多少の農業実習地を設けて高学年の児童を課外に勤労作業として農業実習をさせたならば、児童は絶大な興味をもってこれに従事し、その期間自らの農業の趣味を喚起し、勤勉を尊ぶ習慣を養い、将来農村民として活動する素養を与える上で非常に効果がある。その他には、校舎の余地を利用し植栽をし、周囲の木を用いた塀を止めて果樹を植え山葡萄を作る、或いは楠その他有用な樹種の生垣を作るということも農村学校に適当であるし、或いは家庭作業として一坪農業[注 14]を行うことや、その他農家に必要な作業を少なからず行い、訓練上にても特に山林樹木愛護の念を養ったり、農業の趣味を涵養したり、労働の習慣を養い質実で倹素な気質を熟成させるといったことが必要であり、また農村自治の発達のためには一層公共、協同自治の精神を養成することに努力するなど、都会地と比べて著しく方針を異にすべき点は少なくないと信じている。
第二には、農村改良上農村小学校には是非実業補習学校を敷設してこれを奨励することが必要である。あの欧州列国の自治体においては、力を教育に捧げることは勿論であるが、特に国民教育には一層重きを置き、その義務教育の期間も頗る長く[注 15]、ドイツは八年、フランスとベルギーは七年である。これに加えドイツでは、一旦小学校で得た知識を失わないように、また十二、三歳から小学校を卒業して徴兵適正年齢までの間はその心が動揺しやすく、種々な誘惑にも陥り品性を悪くする危険な時期であるから是非補習教育を行う必要があるという訳で、この種の教育が非常に盛んであり、連邦によっては追々この補習教育まで強制義務教育とする所が増えている。我が国でも、長年この教育については奨励勧誘は十分で、世間の人々もようやくその必要を感じて大いにその校数を増加し、最近の統計では一府県平均二百あまりに達するも、本県においては僅かに七十あまりに過ぎないことは教育上誠に遺憾である。しかし翻って考えるに、我が国においてこの実業補習学校の割合が進歩発達しなかったことは、様々な欠陥があると言えども、その一大原因はたしかに適当なる教員が不足しているためにその教授が適切ではなかったことによると考えるのである。故に私は常に各府県師範学校内に特別な二部の学級を設け第一農学校卒業生その他農業に実地における学理[注 16]に堪能なる者を収容して普通科の学力を補習し教育の学理を授けて本科兼専科正教員を養成することが頗る急務ではないかと思うのである。
第三には、農村改良上青年会を指導奨励することが最も必要で理にかなった径路であることは今更言うまでもないことである。そして、青年会は何れも一旦小学校の門を出た者であればその指導には是非小学校教員が当然これに従事すべきものと思う青年会の指導と上手く組み合わさって、会員がよく協力一致し事に当る気込みが生じたなら、風紀の矯正、産業の発展、民風の振興などの地方改良には実に偉大な効果を挙げ得ることは次の数例を見てもこれを察することが出来る。即ちその一例は私がかつて在任した和歌山県那賀郡長田村青年会の事跡[24]である。同村の大字志野庄および藤井猪の垣の間に過去に山論と水論[注 17]があって、そのため大きな軋轢を生じ、お互いに譲らず遂に相互に誓約を立てて、良い関係を築くことが出来ないまま実に二百五十数年に及び、その悪習を持続し一村事毎に対立したので協同一致を欠き公共事業の発達を妨げることが少なくなかった。故に従来県当局を始め監督者または有力者など百方はその弊風を指摘して教え愉し勧め励まし思いを巡らせ力を尽くしたが、なんと言っても長年の因習であり容易に融和を見るには至らなかった。思うに同村の青年会長中谷彦次郎氏は深くこれを憂い、今この弊風を正さなければ到底一村の進善など望めないと考え、その後、しばしば各自青年の役員を一堂に会合して丁寧に進善は今のままでは不可能であることを説明し、それを可能にする手段として昔に締結した契約の解除の必要を叫び、遂にその役員の賛同を得たので、直々に各家にその契約解除に関する意見書に押印を求めて、そして後日の争いを防止しようと各家に説明した。日も足りていない状況であったが、数百年間の因習であったとしても一種の迷信となり、初めは神罰を受けるとか祖先に対する義務が果たせないとかいう訳で各家は頑としてその所説に応じなかったが、遂には青年の熱心と正理に勝つことが出来ず各自共に青年会の主張に賛同し、盛大な契約解除式を挙行し、ここに一郷協同の基礎がようやく強固になった。このように地方風習改良において顕著な効果を収め得て、後には一優良村として表彰の栄を担うに至ったのは、全く青年会の活動がその原動力となったのである。もう一つの例は、私の前任地の沖縄県において実際に見たものである。あの「田園都市」という書の中に、静岡県浜名郡村櫛村においては、万延の時代に津波の為[注 18]にその直後の村が疲弊困難に瀕している時、全村の申し合わせで酒会所というものを設けて消防組に引き受けて貰い酒の専売を行い、時刻と分量とを制限してよく節酒を励行することが出来たという事例が示されているが、これと似た例である。昔から、酒は寒い時に飲んでも暑い時に飲んでも良しという訳で、信州辺りには一升下戸[注 19]という諺があるように寒地においては防寒の意味で随分飲酒の習慣が盛んであるが、沖縄のような亜熱帯地においてもまた暑さを忘れるつもりか泡盛という峻烈な強い焼酎を盛んに使用する傾向があって、衛生風紀的にも経済的にも弊害は少なくないようである。思うに同県国頭郡金茂村においては、朝に飲酒することの害を認め、青年会の決議にて元老の賛同を得て今後は酒の販売は青年会館にてこれを専売し、かつ一家の壮年以上の男一人につき一ヶ月一升以上はこれを売らず、また時刻は早朝から午後八時に限るとして、大正二年度よりこれを実行すると、一村千戸ばかりの所で一年の飲酒総額において約三万円ばかりの節約を達成し、これにより村内地租を支払ってなお余裕ある状況となり、これに加えその間接の利益としてその後の風俗の改良が著しく、従来多くいた酔い倒れる者や、喧嘩や争論で家が崩壊する等の事件も殆ど無くなったという話である。これを今年の春に同村視察をした時に親しい村当局から聞いたのである。要するに、よく地方青年団体の指導が上手くなされたならば、風俗の矯正に産業の発展、あるいは自治の改良に随分偉大な効果を奏することが出来るものであると信じるのである。
第四には、我が国の今日の現状では女性は概して教育の程度も低く、かつ交際は狭く世間の事情に暗く、一般的に家に居ることが多く、しかも家庭内においては一大勢力を持つものであるが、それ故にこの国民の半数である女子の教育指導が地方改良に大いに関係があるという事実を忘れてはならない。私は前任地の沖縄において、切実にこの思いを強くしたのである。同県において、発藩後[注 20]数十年が経過し今日では男子は概して服装も言語もその他の風俗も国内同様に近づきつつあるものの、女子は殆ど依然として旧態のままである。よって、私は同県在籍中常に、今日のやり方では永久に同県の改良は出来ないから、同県を良くするために広義の女子教育に大いに努力しなければならぬと主張したのであった。この事は独り同県のみではなく、一般に地方改良に貢献しようとする者はこの隠然と家庭や社会に大きな力を思っている女性の教育指導を忘れてはならないと信じるのである。これを実行する為には、一層女子教育の普及が進むように力を入れるべきであり、勿論男子の青年会に対する少女会、処女会、或いは婦人会などを設けてこれを指導するであったり、或いは農業をする必要がない時に短期女子講習会などを開催してその指導に従事することが極めて必要であろう。そして、この方面には特に女性教員が活躍し尽瘁することを切望するのである。この他、多数の優良町村において通常行われているように、農村教育家が村当局や村有力者と協議して戸主会とか公民会とか又は有志会などを設立して地方改良事業の発動的中心機関として斡旋指導をしたならば、地方を改良する上で著しく効果をあげることが出来るだろう。要するに、地方特に農村の改良には是非中心人物の犠牲的努力が極めて必要であるが、今や教育家が決起して地方改良の重要な役目を果たし、当局者及び有志者の協賛を待って献身的に奮励努力をしたならば、どんな村も良村にすることが出来ると確信するのである。積極的に、地方教育家諸君の奮起を希望する次第である。
[現代語訳] 和歌山県の小学校
[編集]和歌山県師範学校長 古市利三郎
〇訓練の方面
[編集]一 訓練の主義方針については各校いずれもその大綱を定めている。
今回視察した学校は、尋常小学校を四校、高等小学校を一校、尋常高等小学校八校の十三校であるが、いずれの校もそれぞれ訓練の主義方針を定めていた。すなわち、校訓を設け、訓練細目を作り、成案として大層見るべきものが多い。以前に「その校における訓練の主義方針」という諮問案を出した結果、大いに盛んであったことと同様である。
二 されども、如何にしてそれ等の趣旨を貫徹するべきかの方案については、確固たる定見を欠いている。
すなわち、校訓とか級訓とか、種々の方針を定めても、如何にしてその趣旨を貫徹し、これを徹底するべきかについては、見るべきものはあるが、その実行督励の方案に至っては、なお講究の余地があると言わなければならない。
三 従って、校訓の精神が、各校で相応に学校内に浸透する形跡を認めることはできない。
校訓又は級訓のような訓育の主義方針は、その校内にある虚形としてあってはならない。そうでなければ、校訓はいたずらに死んだ扁額と何ら変わらないし、しかるに今回通覧する所においては、校訓は形式として存在し、その精神が十分に実現されていないようである。
四 一度制定した校訓は甚だしい支障がなければみだりに変更すべきではないが、立案者または首脳者の精神は一般職員に貫徹せず、従って教訓の統一を欠いている。
一学校の訓練方針は、人によって変化すべき性質のものではなく、一旦定めたものは、非常な欠陥が発見されない限りは、歴代継承し、職員一同協力一致してその精神が存在する所を発揮して、善良なる校風を振起することに務めることが望ましい。しかし、実際においては、立案者が去ればその精神は継承されないか、或いはともすれば忘却されることが常である。また、多数の教員を有する学校、特に準教員や代用教員等を多くして、学校長の精神を貫徹しない学校であっては、訓育の方針が区々になり、統一を欠くことが多い。今回の視察においても特にこれを強く感じた。
〇教授の方面
[編集]今回の視察は、一校に留まる時間を努めて長くし、教授の実際について、詳細な視察をすることを心がけた。よって、一教室における時間は、少なくとも二、三十分以上を費やし、その教授事項の一区切りまでこれを見て、その学校教育の全体に渡って視察することを計り、もって比較的詳細に教授の実際を見ることができた。ただし、教授時間の都合上、ある科は多く、ある科は少なくこれを見ることをもって、時々僅少の観察に基いてその全貌を推量する所が無い訳では無い。さて、その結果の概要を報告する。
甲 教授全般について
一 教材の研究が一般に不十分である
教授上、教材研究が必要であることはもちろんであるが、実際、各学校共にその必要を深く感じている訳では無い。熱心にこれを研究する跡を認めることは叶わなかった。もちろん、何れの学校においても、大体は教授細目を制定し、中には詳細なものを編成するも、ただ形式的に町中で発行されている教授参考書または細目書に基づき編成するのみで、従って平素から教授上にこれを活用することが少ないようである。ゆえに実際教授の結果として細目の不都合を発見する場合にも、これを補い訂正することなく、そのせいで長年の経験も教授の進歩を図る導火となることは少なく、また予定細目と実施案との間に隔たりが生じ、折角の細目も死物になることが少なくない。
二 教授案に対して一般に考究が幼稚である-略案の研究を要する
教授に教授案が必要であることは、軍人に武器が必要であることと同様である。であればこそ最も注力すべき所であるが、一般に小学校教員は他に仕事が多く、多忙を理由に重要なこの仕事が閉却され、如何なる場合にも既得の熟練と才能とに依拠して教授を進行しようとする。従って、教材の研究教授の方法等に意を注ぐこと少なく、世の中に流布されている教授書の類によって教授を進行する者が多い。将来、一層周到な準備と下調べをすることを要する。もちろん、小学校全教科にわたって、一日に四、五時間の教案を立てることがなければ詳細になることは到底望むことができないので、今少しばかり研究して、簡略な教案を工夫し、必ずこれを利用するに至ることを望む。
三 一学校内にあって教授方針が不統一であることがある-校長の教授視察を多くする必要がある
同一学校にあって、甲学級の教授方針と乙学校の教授方針とその間に著しく差異があることが多い。中には全く教科の目的すら会得せず、児童の心力を解くことができないこともある。元より現在、教員の欠員が多く有資格者を得ることが困難であるので、事情的に止むを得ないといえども、同一学校にあって、こうも受持教員により教授に不同があることは、児童に不幸を与える所が少なくない。よって、これを救済するために、学校長は、なるべく多く各教員の授業を見て、詳細な指導批評をして、未熟な教員を教授法に熟達させ、もって人の子を賊にさせないことを図るべきである。
四 教授は概して提示に重きを置き、復習応用に注力せず、また学期末や学年末における総括的復習に教員が準備研究を欠いている
教授において、復習が必要であることは一般の世論であるが、概して教授において今日準備が不十分である結果として、最も容易な提示に重きを置き、特に工夫講究を要する復習応用を軽んじる傾向があることは、一般の通弊である。また、学期末や学年末において行うべき総括的復習においては、児童の旧知識の記憶を確かめると同時に、その知識を整理し、系統を与え、かつ概括してみせる必要があるので、大いにその方法を研究し、かつその準備をする必要があるにもかかわらず、頗る無雑作に取扱い、ただ教授する順序に反復するのみに留まるのは、頗る遺憾とする所である。
乙 各教科の実際
①修身科について
一 教育勅語の取り扱い方について頗る無秩序である者が多い
教育勅語の取り扱いについては、一般に、力をふるって上級児童はよくこれを読むことが出来るといえども、その取扱方案につては、未だ依然秩序がないことは、頗る遺憾とする所である。であるから、一方では尋常四年くらいの児童に向かって、字義の解釈をし、一々これを注入しようとすることもある。しかし、一方では、尋常六学年くらいの児童に対して、なお勅語の大意に通ずることができないこともある。なお、学年の終りにおいてはその取り扱い方に注意するが、学年の途中においては注意が浅いことがある。
二 戊申詔書の取り扱い方について
小学校における戊申詔書の取り扱いについては、特に深く注意して調査したが、その訓練的方面においては、例えば児童に学校または家庭において草履の作成や縄綯をさせ、或いは勤労作業を課すという風であり、中にはなんら計画の無い所もある。教授方面においては、毎週数回、始業前に、児童と共に奉読することもある(拍木小学校隅田高等小学校)といえども、大抵は修身科と連絡して教授する者が多い。思うに、詔書の意義は深遠で、文句は荘重であり、本文について解釈することは到底困難であるが、教育上、是非児童の脳裏には、聖旨のある所を深く感銘させる必要があって、特に修身科の徳目に連絡してこれを教授するべきであることは勿論、如何に両者〔教育勅語と戊申詔書〕を連結すべきかの具体的方案について研究する者が居なければ、頗る欠陥が大きいと言える。
三 教授が明確な道徳思想を養うに不適当である
修身科の教授は、ともすれば論述することが多岐にわたり、他の科学的なものに比して、教授事項が明確を欠くことがある。ゆえに、他学科よりも、一層その説述の順序方法等を講究することが必要であるにもかかわらず、概してその準備は不十分であり、そのために往々にして幼稚な児童の思想を錯乱し、彼等を岐路に迷わせることがある。これは元より教授者の道徳思想が不明瞭であることが原因であるが、注意すべき所である。
四 総括を粗雑に取り扱う傾向がある
視察の当時は、学年末になったことで修身科においては総括の場面も多かったが、一般に言えば、この総括が簡略である傾向が見られる。まず教員の脳裏に秩序がなく、従って、雑然とした既修の教授事項を系列なく僅少な時間で簡単に再演するに留まるといった風である。なお、この欠点は、修身書の編纂方針を理解していないがために、それぞれの教科書と「よき日本人」及び、これらと教育勅語との関係を、正確に理解していないことによる。
五 修身科の効果を認める方法を講ずることが少ない-修身科と訓練との関係を軽視している
修身科で教えたことは、必ずこれを実践させなければならないという意気込みを要すると共に、その結果を認めて行くことも、確かに本科教授の任務である。思うに、修身科で教えることは、とにかくその時間限りとなり、その結果如何に彼等の行為に影響したかについての留意が甚だしく乏しいことが通弊である。これは、益々修身教授が、児童の境遇と離れ、訓練と相距るに至る所以である。ゆえに、今一層、修身科の目的である実践指導に力を用いることを要する。
六 修身科を知識として取り扱い、感情的なもの、意志的なものとして取り扱わない傾向があることは、一般通弊である。
これは必ずしも詳説する必要はないだろう。
②国語科について
イ 読み方
一 形式方面を粗略に取扱う傾向がある
読書科において、形式方面に力をふるうべきとは、世の中一般に唱え導かれる所であるが、それにもかかわらず内容の教授にのみ力をふるって、児童の心力を無視した種々の事実を教授するものが少なくない。従って、読み方の練習力が一般に欠乏し、語句の解釈、文章法の説明等には殆ど力をふるうことが出来ていないようである。これが今日の綴方教授の不成績をもたらす大きな原因である。
二 文章の種類によってその取扱に変化を与えることが少ない
文章の種類によって、その取扱に変化を与えることが殆どなく、何れの教材も同様に取扱い、編纂者が折角苦心して用意した各種文体の区別を没却してしまう者が多い。
三 語句の解釈について工夫が足りない
語句の解釈については、言換法に頼るものが多く、その他種々の方法を用いる際に工夫が足りず、かつ言換法においても準備を欠くことにより、その選び方が不当な者もいる
四 方言矯正に力をふるう者が少ない
児童には方言を使用するものが頗る多い。そして教授者は、その矯正について余り注意していない感じがする。そればかりでなく、中には教師自身も方言を使用する者もまた少なくない。
五 教師に応答する場合に正しい国語を使用しない児童が多い
書物を読むときはかなり正しい言葉を使用するけれども、教師との応答の場合には、往々にして不正な言葉をそのままに許す場合が多く、特に敬語の使用について、注意不足であることがある
六 書物を大切に取扱うこと児童が少ない
児童は、一般に書物を粗末に扱う傾向があって、挿絵に色をつけて、或いはこれを破って、表紙に種々のことを書き立てる等がある。これは訓練にも関係が深く、教授する上で注意をする必要がある。
ロ 綴り方
一 思想を教えて発表法を教えない傾向にある
本科の教授は、児童の思考を発表することにあって、この時間において新たに思想を授けるべきでなく、既得の思想を巧みに発表させることを計るべきである。しかし、今回視察する所によれば、一般にこの発表法を教えることに力を注がず、ともすれば思想を新たに教えようとする者が多く、これは本科第一の欠陥となっている。
ニ 思想整頓に注力しすぎて、各自の工夫に時間を与えていない傾向にある
文題の選択が適当でない結果、思想の整頓に多大な時間を費やし、そのせいで各自工夫をしこれを綴って自ら訂正する等の点において、甚だしく時間が不足していると感じる。従って、綴り方の成績が、一般に児童の自由な思想を写していない感じがする。
三 文題の選択において、読み方との連絡を失っている者が多い
読本文章は、綴り方の模範文章となっていない。ある者は全く読本を離れた、ある者は読本そのままの文題を与えて、読本と綴り方との間に適当な関係性を与えていない。また、その文題は、児童の境遇と必要として相応じていないものを出すことは、大きな欠陥である。
四 自己訂正をさせることが少ない
綴り方において、常に免れることができないことは、誤字脱字など訂正を要する箇所が常に変化なく、幾回教授しても、その間に何らの変化がないことである。これは本科教授において、自己訂正を重んじていないことによる。今回視察した所においても、一般に自己訂正を閉却しているようであった。
ハ 書き方
一 姿勢執筆等に全く注意していない者が多い
筆の持ち方、及び姿勢等に関することは、頗る古くより論じられてきたにもかかわらず、一般にその注意が粗い者が多い。よってその成績も甚だしく不結果に陥ることにっている。
二 示範を軽んじて、これに対する準備を欠いている者が多い
一般に書方教授を軽視する結果、従来行われてきたような示範の方法に工夫を加えることが少なく、よし範書するとしても、黒板上に白墨をもって一通り説明をすることに留まる。これについては、従来行われてきたように、古新聞紙等を利用し、毛筆をもって筆法を示すような方法を復活したいものである。
三 各個に指導訂正することが少ない
技能的教科は、個人訂正を多くせざるを得ない。しかし一般にこれを軽んじて、訂正の用意すら出来ていない者も多い。これは、本科教授の結果、不進歩に終わる一因である。
四 手本を利用することが少ない
教授上で第一に利用させるべき書き方の手本が、余り利用されておらず、児童の中には手本を見ずして練習するものも多く、そのせいで手本の文字と異なる文字を書く者もいる。
五 文字の大きさ
文字の大きさは、多くは手本の大きさと等しく、半紙に横書きする者が多い。されども児童には、是非手本よりも大きく練習させる必要があると認める。
③算術科について
一 問題に非実際的なものが多い
国定教科書は、実際問題を挙げることが少ないことで、これをもって教授を行う際は、特に実際問題についてその選択を工夫せざるを得ない。思うに、今回視察した所によれば、その点に注意する者が甚だ少なく、かつその挙げる問題の多くは実際と乖離しているものが多い。
二 劣等生の指導が足りない
本科においては、特に劣等生指導の必要があるにもかかわらず、机間巡視の時間がありながら、これをおろそかにして、そのせいで劣等児童を指導することが少なく、全級児童の半数位が正当すれば直ぐに教授を進めていくような傾向がある。
三 数字および運算帳の記載方が頗る乱雑な者がいる
算術の運算において、数字を的確に記載することは、その誤謬を少なくする際に必要であるにもかかわらず、中には教員がこれを軽んじて、乱雑な数字を記すものもある。また運算帳は、児童日常の成績物であり、その記載方を正確に整頓することは、同時に計算を綿密で正確にする一助となるものである。思うに、今回視察した所、何れもその注意が乏しい感じがあり、そのせいで本科の成績を一層不進歩に陥らせているように感じられる。
四 暗算の練習乏しく、その利用が少ない
適当な場合に暗算を課して、かつ運算その他の場合において、暗算を利用させることは、本科の目的に照らして是非行わせるべきことである。しかし、この点に留意するものが比較的少なく、従って暗算の力が乏しい感じがある。
五 問題の提出法に変化が乏しい
ある者は口唱法にのみ依り、ある者は板書法にのみ依って、一般に提出法に変化が乏しいようである。
④日本歴史科について
一 年代表の準備なし
本科の教授において、最も必要であるのは年代表なのに、今回の見た所によれば、一般に年代表を利用することが少なく、ある学校においては、全くその準備さえないものがあった。
二 復習の方法について研究が足りない
復習も、教授の時と同様に取扱う者が多く、復習法としての研究が殆ど行われていないことは、遺憾である。本科は特に教授事項を整頓して、一つの系統として記憶させる必要があるものであり、特にこれを表解しておくような別の方法を要する。
⑤地理科について
一 日本地理の教授に郷土を出発点とすることが少ない
日本地理の、各地方および各府県を教授する場合には、常に郷土と比較して教授を進めざるべきである。思うに、一般に郷土地理の教授を粗略にして、また郷土と比較対照して教授を行うことも少ない。
二 他教科との連絡を省みる者が少ない
どの教科も他教科との連絡を図るべきであるが、特に本科は他教科と密接な関係を有するものであり、これが教授にあたっては、よくその連絡を省みることなく、その辺のことについて考える者が殆どないことは、遺憾である。
三 外国地理教授においてその出発点を我が国に置くことを忘れる者がいる
外国地理教授の目的は、日本の世界における立場を知らしめることにあることを忘れ、ただ外国地理として単独に教授する傾向がある。
四 教材の異動変化を訂正して行く準備を欠いている
本科の教材は、終始変化異動があって、不断の注意と準備がなければ、これを補って行っていくことはできないのに、学校においては一般に参考書等は乏しく、これを訂正しに行くことが甚だしく困難である感じがある。
⑥理科について
一 教授者の如何により甚だしく不統一である
一定の標準とすべき教科書がなく、教授者の学力も著しく不同であることにより、本科の教授は、甚だしく不統一になっている。かつ、概して教師の理科の知識は不足していて、かつ不確実になっている感じがする。
二 教授用具の準備およびその利用が甚だ不十分である
教授用具は、一般にその教授を行うにおいて不十分であるのみならず、折角有している教具も、これを利用することが甚だ不十分である。
三 標品の保存および整理整頓に注意を欠いている
各学校共に、理科用標品を採集し製造したことは、喜ぶべき現象である。されども、折角苦心して収集した標品も、その保存および整理に注意がされていないため、破損腐敗して、ついにこれを水泡に帰することが多いことは、極めて遺憾である。
⑦図画科について
一 教師の図書に対する知識技能が一般に欠乏している
図画のような技能的教科においては、特に教師の知識技能の如何によって、教授の効果の大部分が決定されるものである。児童の成績の如何もまたこれによって決定されるものである。しかし、今回視察した所によれば、一般に教師の図画的な知識技能は甚だしく欠乏している。これは、本科成績の不進歩をもたらす大きな原因である。
ニ 臨画多く、写生画が少ない
一般に臨画を課すことが多く、写生画を課すことが少なく、そのために一つの画を仕上げることにおいてはかなりの成績を見れるけれども、これによって他に応用しようとすれば、その技は頗る稚劣であることを免れない。これもまた教師の知識技能不足に大きく起因している。
三 一画を仕上げることに注力して、技能を得る方法を講じていない
教授や一般臨本よりも、一図画を仕上げることにのみ注力して、児童の腕に技能として会得させる方法を講じないことは、この教科教授の通弊である。
⑧唱歌科について
一 基礎練習を軽視する傾向がある
発音、発声、音階、音程、口形等の練習を軽んじ、歌曲のみに注力しようとする者が多い。
二 児童の耳は音楽的に発達して居ない
甚だしい強を出し、或いは調子はずれの声を出し、全く音学的な発声が出来ない者が多い。
三 音楽教室の整理に不注意である者がいる
音楽科のような審美的教科においては、特に教室の整頓清潔等に留意すべきにもかかわらず、かえって普通教室よりも乱雑なものが多いことは、頗る遺憾である。
⑨体操科について
一 該科の教授は、概して規律の厳正挙動の確実を欠如している
体操科の目的は、身体各部の運動に依ってその健康を増進すると共に、精神を快活剛毅にさせ、兼ねて規律協同の習慣を養うならば、運動の際は充分に力を込めて、規律の厳正挙動の確実を要するべきである。しかるに、教師はこのような教育に資すべき意気込みが大いに不足している。
二 体操場が一般に狭く十分な教授を行うことが出来ていないことがある
体操場は一般に狭く、正しく教授するには不適当であるものが多い。かつ、中には体操遊戯の教授が教室の課業を妨害するからとこれを廃するような場合も少なくないようである。
三 遊戯等は一般に教授者の工夫考案があるものが少ない
狭い土地においても、工夫次第で頗る運動量が多い遊戯を課すことが出来るにもかかわらず、一般にこれに着目して研究考案する等のことが無いようである。
〇管理の方面
[編集]一 教室の装飾等が無意義になっていることが多い
教室を装飾しようとすることはよいのだが、その精神のある所を理解していない結果、児童の正面に多くの絵画等を貼って注意を散乱させ、或いは頗る殺風景で不体裁に飾って満足しているものが多い。
ニ 校舎建築上注意を欠くものがある
近時の新築校舎について、採光窓の設置法を誤り、或いは黒板に接近する所に窓を設け、かつ採光窓は山岳に接近して、採光が不十分であることがある。このような教室は、地勢によっては必ずしも南から採光することを要しない。本県においては、従来二階建ての校舎が少ないことから、その研究が乏しく、近頃の新築校舎は二階の天井が低く、従って欄間の設置もなく、また階段は大人の視点からは勾配や高さ等に注意を欠くことがある。なお、校舎を新築改築するに際し、将来の予定設計を欠くことによって、後日に至って大いに都合が悪いことが多いようである。これらは深く注意すべき点であると信じる。
三 学校衛生の注意を欠くものがある
一般に、児童の姿勢のことについて注意を払っていない。また、採光や通風に無頓着で、曇天に窓掛を引き置き、或いは直射日光を顧みず、或いは教室に入り臭気を感じるも窓を閉じ置き、或いは甚だしく窓を開けて寒風が児童を襲うも顧みないこともある。「トラホーム」については、近来一般に深く注意し、校医の設けがある学校においても、学校教師が点眼を行い、その結果甚だしい者が多い。
四 児童管理法の欠点
近時一般に、教室における児童の管理が寛大に流れてしまい、教授に不注意な児童がいても顧みることが無い場合が多いことを認める。これは大いに訓育上悪しきことであるのみならず、成績劣等をもたらすので、これは不断の注意を要するものと考える。また、なお、一時的に活動主義の誤用により行われた、教授中の挙手応答の際に児童の発声が頗る喧噪であることは、児童の真正な活動ではないから、断然改めるように。
五 学校園について
学校園は、各校共にそれぞれ着手計画しているようである。就中橋本尋常高等学校、好寺小学校において、頗る完成したものを見た。されども、よくこれを教授上で利用できるか否かは疑わしい所もある。
〇総評及び意見
[編集]要するに、今回観察した所をもって、数年前の状況に対すれば、 設備教授訓練等において著しく進歩したことを認めるけれども、その間において、特に感じる点を概括すると次のようになる。
一 一般に教授法及び各教科の研究がなお足りていない。柏木尋常小学校を除けば、注意を引くべき授業は余り見当たらない。思うに同郡においては、他郡市と同じく、郡内を四部の組合に分けて、時々教員が集合して、教授の研究を行い、また一学校内においても時々批評の教授を行うも、常に充分なる指導者を欠き、そのため効果が少ない。また教材に対する研究も、学力不足のため充分な調査研究をすることが出来ないように見受けられる。これの救済法としては、師範学校規則に依り、第一種講習科を開設して、高等小學校本科正教員も時々招集して、附属小学校研究の結果を発表し、または必要な学科の講習をして、また同郡のように本校に近接する群において研究会を開催する場合には、なるべく本校附属の教員を派出して指導の任に当たらせることが必要であると感じる。
二 図書、体操(特に遊戯)、唱歌のような技能的学科においては、その教授法が甚だしく幼稚であり、確かに数歩時勢に遅れている感覚がある。正しい教授法の新知識を欠くと共に、技能拙劣な結果であるから、機会をみて講習会を開いて指導することは最も急務であると信じる。
三 今回の視察中特に感じたのは、教員の不足が甚だしく、そのために代用教員を用いることは仕方がないということだ。師範学校本科及び講習科の卒業生は、その教授の成績の多くは良好であることは勿論であるけれども、老朽の者及び代用教員においては、児童の能力の程度を考えずに無秩序に教授進行する者も多く、その結果著しく児童に不成績を与え、或いは尋常第一学年児童の算術の計算力は、学年末にもかかわらず、他の普通学校における第一学期末の学力にも及ばない者もいる。思うに、これに関しては、一日も早く教員補充の道を講じることが急務であることを深く感じる。今や本県目下の計画にては、十数年を期してこれの補充を図るも、現在の事情においては、一時的な方法として、師範学校第二講習科を再興して、尋常小学校正教員を養成するか、或いは県教育会の事業として同様の講習会を開催して、正教員の速成策を講じることは、極めて必要な施設事項であると信じる。
[現代語訳] 東牟婁郡の教育
[編集]和歌山師範学校長 古市利三郎
第一章 教育勅及び戊申詔書
教育勅語〔教育ニ関スル勅語〕の取扱については、主として修身科〔身を修めることを意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校における科目の一つ。 1890年の教育勅語発布から、1945年の敗戦まで存在した。 戦後日本の道徳教育に相当する〕その他学科に連絡してこれを教授し、その教授の中に細かく勅語における徳目〔徳の分類〕を適時に編入し、尋常第四学年以下の児童には大意を理解させて、 以上の児童には漸次〔ぜんじ、だんだん〕詳解して義務教育の終末までにその要領を会得し、そしてこれの暗唱を可能とさせ、進んで高等科児童には字句を違わずよく全文を暗写が可能とさせることを期待する。教育勅語の御下賜〔ごかし〕記念日には一般に記念奉賛〔ほうさん〕式を行うものが多く、中には当日出校前の児童が各自宅に国旗を掲揚〔けいよう〕して、もって一般人民にとって記念日であることを知らせる(太地町)、 或いは特にこの日を選んで式後善行児童の表彰式を行う(天満町)、或いは朝会又は修身を教える際の始めにおいて毎週数回奉賛すること、或いは高等科児童の清書したもの又は印刷したものをその家庭に扁額〔へんがく〕として奉揚して、日夜父兄と共に反省の資料とすること、その他、同窓会、青年会、談話等においてこれを奉賛訓諭してその普及を図り、また学校所在神武祭典に児童と共に参拝して社頭〔しゃとう、社殿の付近〕に奉読〔ほうどく〕すること(天満町)、土地の僧侶と申合せ説教中に加味すること、その他学校における諸般の施設は一に勅語の御趣旨を徹底することに帰着する。
戊申詔書(ぼしんしょうしょ)に関しては、ほぼ教育勅語の取扱に準拠して、各校共に熱心に教授訓育上諸般の計画を実行して、児童をしてよく聖旨を奉体〔ほうたい、うけたまわって、よく心にとめること。 また、それを実行すること〕して質実勤勉〔中身が充実して飾り気がなく、心身ともに強くたくましいさま〕の民たらんことを期待する。下に同郡小学校において実施する方法を挙げれば、
一、勤倹力行〔きんけんりょっこう、よく働きつつましい生活をし何事にも精一杯努力すること〕の実を挙げるため学校識員の貯金励行〔れいこう〕時間の確守をし、教授用具の製作、校地校具の利用消耗品の節約用品の検閲等を申合せること。
二、祝祭日その他学校における儀式には、教育勅語と共に奉賛〔ほうさん、社寺などの仕事につつしんで賛助すること〕して聖旨〔せいし、天皇のおぼしめし〕のある所を訓誨〔くんかい〕し、また朝会の場合にもこれに訓諭すること。
三、校外講演、即ちその町村各大字〔おおあざ、江戸時代の村を継承した範囲・地名〕に出張して、父兄会、青年会等において御趣旨の在る所を演述し、その普及徹底に努めること。
四、戊申詔書をしてこれを上級児童(多くは尋常五年以上)に配布し拳拳服膺〔けんけんふくよう、人の教えや言葉などを心にしっかりと留めて決して忘れないこと〕をし易くすること。
五、二宮尊徳〔にのみや たかのり、一般には二宮金次郎〕中江藤樹〔なかえ とうじゅ〕をもって模範人物とし、訓練の中心をなすこと。
六、高等科児童をして卒業に際し、詔書を清書させ、記念材料〔教材の意〕として学校に保存すること。
七、新聞雑誌に記される社会上の美談善行または児童の偶発事項において、材料〔教材の意〕を求め詔書と対照して、時々児童全体に、また学校別に、あるいは個人別に訓諭〔くんゆ〕すること。各学校において示例〔じれい〕の徳目が詔書の御趣旨に該当する場合は、務めてこれに帰結して訓誨〔くんかい〕すること。
八、時々児童の服装学用品を検閲し質素倹約〔しっそけんやく、飾り気がなく、慎ましく暮らすこと〕を奨励し、また浪費を戒〔いまし〕めること。
九、児童書方練習帳、白紙、図書用紙等の低廉〔ていれん、値段がやすいこと〕なものを商店と特約して買入れ、経費の節約を計り、かねてより無駄使いをさせぬため用紙に記名して教師に差出させ、認印を押して清記させるような方法を採るもの、あるいは学用品支出表を各児に携帯させ、時々これを検閲すること。
十、農家の児童には雨天に簔笠〔みのかさ、雨雪をしのぐために、蓑をまとい、笠をかぶること〕を奨励し、また麦飯の弁当を恥じないこと。
十一、各種作業、例えば、縄綯〔なわない、わらなどを材料としてよりあわせ、縄をつくること〕、水汲み、養蚕〔ようさん〕手伝い、麦の黒穂〔くろぼ、黒穂菌が寄生して生ずる植物の病害〕抜き、荷車の後押、行商板持ち、薪拾い、学林植込み、漁業手伝い、荒地開墾〔かいこん〕、杉苗〔すぎなえ〕の栽培、編み物、草履〔ぞうり〕作り、害虫駆除等をして、その収入金をもって自己の学用品を求め授業料を納め、また郵便貯金となすこと。
十二、児童の出欠席歩合〔割合〕を毎月学級別に調査掲示して怠慢を戒しめ、かつ協同一致〔互いに力をあわせて、一つ心になること〕が必要であることを知らしめること。
十三、教授上の便利と学用品を経済的に使用させるため、学用品の共同購買を開始すること。
十四、詔書の写しを扁額〔へんがく〕又は懸軸〔かけじく〕として教員室、若くは同窓會事務所等に掲げ、及びその学区内各戸〔かっこ、それぞれの家〕に掲げさせること。
十五、修身科その他の教授細目中、適当な所に詔書〔しょうしょ〕の文句を挿入して教授すること。
十六、唱歌〔しょうか〕教授において、詔書奉答〔ほうとう、謹んでお答えすること〕の歌、勤儉〔きんけん、仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること〕の歌、貯金奨励の歌等を加え、しらずしらず、詔書の御聖意を了解させようとすること。
十七、学科練習会、同窓会、父兄懇話会等を利用して、詔書を奉読〔ほうどく、つつしんで読むこと〕し、家庭と共にその効果を奏するにつとめること。
十八、家庭へ対しては、児童の能力に応じて、掃除、水汲み、小使〔こづかい〕等の労に服させ、学用品の整頓〔せいとん〕、衣服の脱着、上級児童にあっては洗濯繕ひ〔つくろい〕、結髪〔かみゆい〕等は自らさせることに注意し、学校にあっては時間外で結髪法を教え、教室、運動場、便所等の掃除、花園の手入、標本採集等、教師との共同作業によってこれを行って、自立自営〔他人にたよらず自分の力で事業を営むこと〕の労働を好む習慣を養成しようとつとめること。
十九、同窓会、青年会等において記念として規約貯金を実行すること、青年会中三十歳以下のものは飲酒、煙草を全廃するの計画をたてること。
二十、校舎、校庭、及び通路に散布する反古紙〔ほごがみ、いらなくなった紙〕もしくは馬糞を拾集し、共同貯金とし、または学校園の肥料に充てること。
二十一、児童および家庭に御主趣を知らせて、かつこれを実行させる一つの方法として、学年末賞品に戊申詔書述義〔伊藤千員三による本〕、または貯金切手台紙〔郵便貯金への少額預け入れを推奨するために発行された貯金用切手〕を授けること。
特に下里小学校においては、簔笠奨励の結果、数十名の児童がこれを使用し、男児は勿論、女児もまたこれを用いる者多く、また毎朝出校に薪を売る者、終業後煙草〔たばこ〕又は魚類等を行商する者もいて、学校はこれを模範児童として表彰した。
第二章 訓練の方法
第三章 学校と家庭との連絡
第四章 児童性行録
児童の性行〔人の性質とふだんのおこない〕を調査することは、一般児童の長所短所を確實に了知 するに必要なるのみならず、また実に個人訓育の基礎を興ふるものにして、教育上極めて必要なるに拘らず、各校共に能之を調査し且之を利用するものきは甚だ遺憾とする所なり。 惟ふに是れ近教室以外兒童に接近する機會乏しく、且運動場に於ける遊歩時間に教員の監護すること少く、爲めに兒童觀察の時機を得ること少なきと、特異性を發揮すること少な き全兒童に就て之を調査せんとする困難とに因するが如し 故に一方授時間外成るべく兒童に接近する機會を多くし、 又性行録には普通平均兒童は措き、専ら個人訓練上特別の注意を要する、即ち特に短所長所を有する者に就て之を調査し で、其訓育方針を定むるが如きは、事容易に行はれ易く且大
第五章 各教科教授法に関する件
各学校の教授法の大抵は同様であって、特に賞賛すべき新しい教授法はなく、また甚だしく避難すべきものも少ない。ただし、細密に視察すれば多少の欠陥が無いとも言えないが、これは一般に通有する所であるから、先に伊都郡小学校視察復命書に報告した所と同様である。今、各科に分けて特に指示すべき批評を列挙するとする。
修身科、修身科教授の際、教師の心情および言容〔げんよう、言葉遣いと顔つき〕で、よく児童の衷心〔ちゅうしん、まごころの奥底〕を感激させる教授を行う者は少ない。説話〔せつわ、話。物語。特に、語り伝えられた神話・伝説・民話など〕もしくは誦読〔しょうどく、声を出し節をつけて読むこと〕をもって、教科書の智識を付与するに過ぎない所があるし、また修身科においては道徳的な判断力を養い、実践を指導する点において遺憾である。作法〔さほう、人間生活における対人的な言語動作の法式〕の教授は概してこれを軽視する傾向は無く、今回視察中一回もこれが教授されないことを見ることはなかった。
国語科
算術科
理科
図画科
唱歌科
裁縫科
第六章 教員の研究及び準備
第七章 学校衛生に関する件
第八章 学級編制及び教育配置に関する件
第九章 児童就学及び出席状況
第十章 学校の設備
第十一章 学校園及び学校林
第十二章 学校経済に関する件
第13章 実業補習学校
[現代語訳] 女子師範独立の議
[編集]沖縄師範学校長 古市利三郎
回顧すれば、私の沖縄県師範学校長として貴県へ赴任して、大正元年十月に当時県下初等教育の状況をみるに、各郡視学は勿論、小学校長の多数は皆、他の県や府の輸入に頼り、しかも正教員の総教員に対する割合はその半分に達せず、特に女教員は極めて僅少であった。なお、義務教育の就学割合は7パーセントにもみたない有様であった。そうであれば、本県教育の刷新を図るには、まずは就学の奨励と同時に師範学校を拡張して、正教員の自給自足と充実を図ることが急務であると感じたのである。思うに、当時の師範学校は、男女併置して、しかも他校は極めて狭隘であるのみならず、前は龍潭の城池であり、他の三方は道路と民屋に遮られ全く拡張の余地なく、女子寄宿舎は、狭隘なる民屋を借りて僅かに雨露を凌ぐ状態であった。そうであっても、全部他に移築するには膨大な経費を要するので、到底県費で補えるものではなかった。窮余の一策として、女子部を独立し、校地に余裕のある高等女学校に併置し、もって男女師範学校を拡張する計画を立てた。大正三年新春に大味知事が来任すると、私は早速に知事の官邸を訪れ、本県特有の実状を詳述した後、本県においては表面的には男尊女卑の様に見えるけれども、元来本県の婦人は労働をいとわない大層な活動生に富んでおり、しかも家庭にあっては、隠然たる勢力を有していることをもって、本県産業の開発や風俗の改善を図るなら、まずは女子教育を振興する必要があると伝えた。このためには、第一に教員の養成を拡充しなければならない。しかも現師範学校は、前述の状態であり拡張の余地がなく、これを独立して高等女学校に併置することが急務である所以を説述した。知事には、その後種々の御攻究の結果、幸いにも不肖の愚見を採用して庁議を決定された。大正三年九月、高等女学校長が辞任されると、いずれ女子師範学校併置は自然と学校長兼任になるとして、新たに女学校後任校長の任命を見合わせ、一時的に私に高等女学校長事務の取り扱いを命じられた。同年秋、県会が開会されると、女子師範学校独立案と共に寄宿舎新築案を提出された。県会にて、種々の議論を重ね、最後に師範学校長の意見に徹して決する事となり、態々多数の県議を行い首里に来られて校長室で種々の質疑応答を重ねられ、後に議事を開き、多数をもって即決された。その後、早速に寄宿舎新築の工事に着手し、翌大正四年四月一日をもっていよいよ沖縄県女子師範学校を創立、高等女学校が併置され、初代学校長として蟹江虎五郎氏の就任を見て、校務一切を引き継いだ。(古市利三郎)
[現代語訳] 和歌山県地誌序言
[編集]和歌山師範学校長 古市利三郎
春日君の著、和歌山県地誌について、私にその序文を頼まれた。私は平素公務が多く、それに性来から文筆家の仕事や生活をしていない。であるから、ただ所感の一端を披歴して、もって序文に換えようと思う。全て学問は知識や知力を目的とするものであるが、また同時に、大いに感情の養成に資するものである。そして地理学はよく、この両方面を具備している。すなわち記憶力を養成し、多方面に対する観察力を発達させ、また常に推理的な考察力を錬成すると同時に、地理学は日常われわれの生活に密接に関係がある事項により成るものであって、実社会の実相を知り、生活に必須であるいわゆる常識を養成する上でも効果的である。そして郷里および自国の現状を認識させることによって、自己の属する郷土および国土について、地理に関する事柄と人間生活に関する事柄の正当な位置を自覚し、これに公平にして着実なる愛郷心、愛国心を要請することが出来るものである。地理学研究の順序は、その階段として、まず郷土の観察、地方の研究をもってその出発点としない訳にはいかない。我が国において、地方地誌の類は古来よりその数が乏しくない。明治十七年に内務省地理局において収集したものは、既に二千数百部に達している。紀伊の地であれば、自然の眺めが清らかで美しく、気候は暖かく激しい変化がなく、土地も肥沃であり、産業がおこり、加えれば古来より我が国歴史上に著しい関係を有する地方であって、全般に紹介すべき事項があることが甚だ多い。そして、当国には、紀伊国名所図会、紀伊続風土記のような名著があるけれども、いずれも極めて量が多いので、容易にその要領を捕捉ることは出来ない。また、今日の科学的見地から編纂されたものではない。そして、遠い過去の記録に関するものであるから、これをもって今の事情を知ることはできない。近頃では、案内記に類するもの、又は新聞雑誌等の断片的なものが存在するけれども、直ちに全ての県下の山河の形勢、気候風土、産業、宗教、教育、交通等の様々な地理的事項について、適当に総覧すべき好著が無いことは、我々が常々遺憾に思っている所である。春日君はそこに見るところがあって、公務の余暇をもって親しく県下各地を跋渉して、実地に見聞きし、つぶさに調査研究し、そしてこの著を大成した。思うに、現在、社会が要求しているものと言うべきものである。この著は、元より完璧をもって評価するべきではないけれども、目下の時勢に応じて、社会を補う豊さ鮮やかさを持っている。
明治四十四年三月 下浣、古市利三郎 識
我が国における地理学の発達は、研鑽日なお浅いにも関わららず、これを欧米各国の地理学の進程と比べると、僅かにその研究の端緒に達したりと言うべきと思うだけでなく、日本地理の完成を期待するならば、まず各府県の地理より研究を重ねる他ない。思うに、我が国における各府県地理が充分に研究されているものは少ない。これは、我が国に完全なる日本地理の編述がなかれない理由である。従来と言えども各地方地誌に関する書の出版されているものの、所謂汗牛充棟にはならない状態にあり、往々にして名所や旧跡の案内、旅行記録のものに留まり、私の見聞が狭く、未だに地理学的に地方地理を研究した恰好のあるものを見聞きしない。これは私の浅学非才を自ら恐れず、あえて本書を編述した理由である。このいち小編著は元より完璧であると言うことは出来ないけれども、地体の構造、地形の変遷、地質の大枠から気象の概況に及び、さらに戸口の状態、交通の如何、産業の発達など最近の地理学会の風潮に準拠し、もって一面においては日本地理学編成の一資料を提供し、一面においては世の中がこの書によって本県地理の概況を了得し、さらに新研究の端緒になることを期待する。そして、記述に際して、従来地方地誌の一大欠陥となっている全国との関係、全国に対する地位等に関しては努めてこれを明らかにしようと試みた。本書編纂にあたって、先輩諸賢の著書説明等に負う所が大きいとは言え、公務の余暇をもって多忙の間に作るものとなると、編者の意を満たすに足る深討と推察を行ういとまが無く、事実の詳細な叙述の整斉等その他において、はなはだ遺憾とする所が多い。識者の一笑を博することを甘んじて受け入れる。されば、本書が完璧に達するには前途遼遠であるが、もし、鞭韃自ら励まし先輩知友の誘掖補導を得るのであれば、それ或いはその目的を達すると信ずる。
明治四十四年三月、著者 識
[現代語訳] 1927年
[編集]️〇師範教育において一部を主とすべきか、二部を主とすべきか?(1927)
岩手県師範学校長 古市利三郎
師範教育において一部を主とすべきか、二部を主とすべきかの問題については、地方経済方面を別にして実質上より考究すれば、中学校卒業生からの優良なる者が多数入学志望する様相があれば兎も角、当該卒業生中以下の者二部へでもと志願する現実においては到底優等生を招致することは出来ず、従って今日においては一部を主とする外無いと考える。特に本県のように全県の中でも中学校卒業生の総数が少なく、従って二部出願者の少ない所においては、二部を主とすることは結局は不可能な実状に有ると考える。
〇退学になった師範生、賊となって校長の宅へ(1927)
三日午後九時頃、本所区太平町一丁目の夜店金物屋でしきりに短刀を見ている二十五くらいの男を通行中の刑事が引致して取り調べると、岩手県岩手郡大澤村中澤の子森正二郎(二十三)といい、大正十四年九月に盛岡師範学校の二年在学中、酒や女におぼれ退学になって以来東京横浜方面を荒らし周り、本年九月には盛岡に帰り母校校長古市利三郎氏に復讐の目的で同家に入り、女中の江本栄子(十五)を棍棒をもって殴り人事不省に陥らせて、現金百円、時計その他価格二百五十円を強奪し十月再び上京していたもので、凶器を求めようとしていたことが判明した。なお、余罪取り調べ中。(東朝、1927年11月5日、夕刊、2ページ目)
系譜
[編集]簡易家系図
[編集]古市勘兵衛 | |||||||||||||
(襲名) | 古市勘十郎 (福井県士族) | ||||||||||||
古市初五郎 | 古市利三郎 (福井県士族) | ||||||||||||
古市政次郎 | |||||||||||||
家族
[編集]祖父:古市 勘兵衛。
妻:古市 ふよ[38]。1873年10月生まれ。福井県士族。
養子:古市 誠[38]。1894年8月生まれ。弘前大学初代農学部長。
婦:古市 よし子[38]。1903年12月生まれ。東京府士族。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月18日閲覧。
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- ^ 国立国会図書館. “福井師範学校に教授として勤務し、後に勅任官にも任ぜられた“古市利三郎”の生没年・略歴が知りたい。宮中...”. レファレンス協同データベース. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 舎監長は、校長の命を受け、舎監等を指揮監督し、寄宿舎の管理運営に関する事項をつかさどる役職。
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- ^ 古市, 誠 (1947-01-01). 果実蔬菜加工の実際 (改訂版 ed.). 養賢堂
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 参考:『退学になった師範生、賊となって校長の宅へ』(東朝夕刊、1927年11月5日)。その箇所を抜粋した翻訳もこのページに載せている。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 国立国会図書館. “福井師範学校に教授として勤務し、後に勅任官にも任ぜられた“古市利三郎”の生没年・略歴が知りたい。宮中...”. レファレンス協同データベース. 2024年1月19日閲覧。
- ^ “沖繩籍教師與日治前期臺灣公學校教育(1898-1918)__臺灣博碩士論文知識加值系統”. ndltd.ncl.edu.tw. 2024年1月19日閲覧。
- ^ “図録▽平均寿命の歴史的推移(日本と主要国)”. honkawa2.sakura.ne.jp. 2024年1月19日閲覧。
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注釈
[編集]- ^ 栃木県のこと
- ^ 当校というのは、栃木県女子師範学校のことであり、古市利三郎はその学校長である。
- ^ 古市利三郎が学校長に着任日したのは1915年、講習会は1916年である。
- ^ 「人心の同じからざるは其の面の如し」は、孔子の「春秋」に出てくる。
- ^ 篤志家とは、社会奉仕・慈善事業などを熱心に実行・支援する人である
- ^ 稲取村は、1903年に「静岡新報」にて、内務省地方局調査により「村法の模範]と紹介されている。
- ^ この文章全体で紹介されているすべての模範町村は合併等により廃止となっている。
- ^ 先鋒とは、運動・主張などの先頭に立つもののこと。
- ^ 疋田浩四郎(1849-1896)は、戸倉村の後身である「あきる野市」によって、現在においてもゆかりの人々として紹介されている。疋田没後、戸倉村は、明治30年代から優良自治体として「模範村戸倉」の名が全国に知られるようになり、明治43年(1910)には、内務大臣より表彰された。
- ^ 1900年の1円は、2020年の約1500円に相当する。従って、当該数字は現代においては一千五百万円以上である。
- ^ 短冊苗代とは、田植え等において、水田または畑に短冊型のまき床を作る方式である。
- ^ 正条植とは、作物の苗の列を整え、株と株との間隔を一定に植えつけることである。
- ^ 参考:門脇正俊(2018)、農村「代用付属校」制度の導入と展開 https://www.hokkyodai.ac.jp/files/00006400/00006447/20191001143448.pdf
- ^ 大河内信夫「戦前小学校で実施された「一坪農業」についての一考察 : 高等小学校農業科の実習との関連において」『技術教育学研究』第6巻、名古屋大学教育学部技術教育学研究室、1990年3月、85-102頁、CRID 1390009224493422208、doi:10.18999/restte.6.85、ISSN 0287-0711。
- ^ 当時の我が国において、義務教育期間は尋常小学校卒業までの6年であった。
- ^ 学理とは、学問上の原理である。
- ^ 山論は山林・原野など山に関する争論である。水論とは、灌漑用水の田への分配(分水)をめぐる紛争である。
- ^ 万延とは年号であり、1860年から1861年の期間を指す。万延二年に津波が発生している。
- ^ 下戸とは、お酒を飲めない人のことである。一升は1.8リットルである。
- ^ 沖縄は1872年に琉球藩となり、1879年に廃藩置県により沖縄県となった。
- ^ 平民が官吏となることでその一族が士族として扱われる法令が存在したが、古市利三郎が東京高等師範学校を卒業する時において既に士族であるから、古市勘十郎が従来より士族であったことを示す。