古市利三郎

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古市 利三郎ふるいち りさぶろう
人物情報
生誕 1866年
福井県福井市松ヶ枝下町
死没 1940年享年74歳)
市民権 福井県士族
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京高等師範学校
配偶者 古市 ふよ(妻)
両親 古市 勘兵衛(祖父)
古市 勘十郎(父)
子供 古市 誠(養子)
学問
研究分野 教育学
博物学
研究機関 福井師範学校
和歌山師範学校
沖縄師範学校
栃木女子師範学校
岩手師範学校
学位 文学士
称号 従三位
勲四等
勅任官高等官一等)
主要な作品 『和歌山県の小学校』
『東牟婁郡の教育』
『農村教育と地方改良』
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古市 利三郎(ふるいち りさぶろう、1866年慶應2年〉4月 - 1940年昭和15年〉)は、日本教育者師範学校校長、県立図書館館長。位階従三位勲等勲四等高等官一等、勅任官

略歴[編集]

福井県士族古市勘十郎の長男として1866年4月に生まれる[1]1888年4月東京高等師範学校の初等中学師範学科を卒業[2]した後、福井師範学校教授、和歌山師範学校校長、沖縄師範学校校長、栃木女子師範学校校長、岩手師範学校校長、岩手県立図書館館長[3]を歴任し、1930年に64歳で退官した[4]。その際に高等官一等(勅任官[5]まで昇叙、従三位[6]勲四等を叙された。講書始の儀進講者も務めたとされる[7]が、明確な出典は確認されていない。

生涯[編集]

師範学校長として[編集]

福井師範学校(後の福井大学)で教授兼舎監長[8]として14年勤務した後、和歌山師範学校(後の和歌山大学)校長として、帝国教育で「和歌山県の小学校」「東牟婁郡の教育」と題した教育に関する研究を発表した[9][10]栃木女子師範学校(後の宇都宮大学)校長として「農村教育と地方改良」と題した講演を行い、農村教育の一環として女子教育の重要性についても述べている[11]。実際に、沖縄師範学校校長として沖縄女子師範学校設立の発起人となっており、そのことを「女子師範独立の議」と題して記している[12]。また、沖縄にて孔子廟の修繕のため寄付金の募集を呼び掛けられたことがあり、その寄付には多彩にして著名、公職にある者たちが多く参加したとされるが、古市利三郎は15人の発起人の1人である[13]岩手師範学校(後の岩手大学)校長として「古市利三郎氏は人も知る大先輩。老巧勝山校長時代の岩手師範学校暗黒時代の後をうけて、とにかく今日の設備と整頓さをもった大師範学校を築きあげた」と評されている[14]。1926年~1927年には岩手県立図書館館長も兼任した[3]。1930年に岩手師範学校校長としての任を終えた際に退官[4]し、従三位[6]勲四等高等官一等(勅任官[5]に昇叙された。

人物について[編集]

幼年期に係る記録は残っていないものの、田舎で生まれ育った上で22歳で東京高等師範学校を卒業[2]しており、これは他の師範学校長と比してかなり若い年齢であるから、その優秀さが推察される。「高等師範学校専攻科卒業者の称号に関する件(昭和5年勅令第36号)」により特例的に文学士と称することが認められていいた[15]ので、文学士である。岩手師範学校では校長でありながら修身道徳)教えている。西洋倫理学として、ベイン倫理学を推奨している[16]地理学にも精通しており、和歌山師範学校教授が執筆した「和歌山県地誌」の序言を頼まれた[17]福井師範学校時代の担当科目は教育化学博物であり、説明(ときあかし)という語をしきりに常用したとされる[18]。担当教科の影響あってか、和歌山師範学校にて理科室や博物館に3万円(現在にして約1億円)[19]の資金を投じている[20]。蔬菜の栽培が趣味であり、自家用のものは自ら種子を撒き自ら肥料を施した[21]。「改定農業教科書」の編纂にも加わっている[22]

養子について[編集]

農学への関心の一致からか、1923年に札幌農学校(後の北海道大学)を卒業した古市誠(1894-1957)を養子としている。古市誠は後に鳥取高等農学校(後の鳥取大学)教授[23]台北帝国大学(後の台湾国立大学)教授[24]弘前大学初代農学部[25][26]弘前大学農学部の中庭には、学部創設時に古市誠学部長らが植樹したイトヒバと、その横に学部50周年記念に「初代学部長 古市誠 博士」と記された木標がある[27]。養子である古市誠は最終的に、ビタミン[28]ペクチン[29]、蔬菜の加工法[30]などを研究し、農学博士北海道大学[29]従四位[31]高等官五等[24]奏任官)。

後年について[編集]

1927年に、放蕩のため退学となった元生徒から逆恨みによる襲撃を受けた[32]ことが東京朝日新聞の記事となっている。その際に女中が重症を負ったようあるが、古市利三郎はその後も師範学校長として活動を続けていることから無事であったようである。また、厳密な死亡日は不明であるが、1939年には日本紳士録に紹介されておりそれ以降は記載がないことから、この辺りであると思われる[33]。船の事故による死亡であり、国の用事で台湾に向かう途中に起きたとされる[34]が、正確な所は不明である。台湾には1896年にも視察に行っており、当時の記録が残っている[35]ことからある程度の信憑性はあるが、既に退官済み[4]で役目を全うしており、さらに国の用事で台湾にというのも奇妙な話ではある。何れにせよ70歳前後まで生きていたので、1900年における日本平均寿命は44歳である[36]ことに鑑みれば、かなりの長寿であった。40年以上の年月をかけて教育の推進に従事し、師範学校長を約30年間務めたこととなる。

公職の期間[編集]

公職
先代
福井県師範学校教授
1888年4月-1912年12月
次代
先代
角谷源之助
和歌山県師範学校長
1902年12月-1912年10月
次代
有坂幾造
先代
森山辰之助
沖縄県師範学校長
1912年10月-1915年4月
次代
保田銓次郎
先代
東基吉
栃木県女子師範学校長
1915年4月-1921年9月
次代
勝山信司
先代
勝山信司
岩手県師範学校長
1921年9月-1930年3月
次代
瀬谷真吉郎

栄典[編集]

位階[編集]

1905年 従七位(官報1905年4月20日)

1908年 正七位(官報1908年2月15日)

1908年 従六位(官報1908年6月1日)

1914年 正六位(官報1914年3月31日)

1920年 従五位(官報1920年12月7日)

1929年 正四位(官報1929年12月17日)

1930年 従三位(官報1930年5月5日)

勲等[編集]

1914年 勲六等(官報1914年3月31日)

1922年 勲五等(官報1922年10月30日)

1929年 勲四等(官報1929年12月17日)

高等官[編集]

1905年 高等官六等(官報1905年4月20日)

1908年 高等官五等(官報1908年2月15日)

1920年 高等官三等(官報1920年12月7日)

1930年 高等官一等(官報1930年3月28日)

著作一覧[編集]

  • 『農村教育と地方改良』(「栃木県地方改良講習会」、栃木県庁、1916年、pp224-235)[11]
  • 『和歌山県の小学校』(「帝国教育 第325」、帝国教育会、1909年8月、内報pp45-58)[9]
  • 『東牟婁郡の教育』(「帝国教育 第331」、帝国教育会、1910年2月、内報pp66-72)[10]
  • 『女子師範独立の議』(「白百合のかおり」、白百合会、1915年、pp122-124)[12]
  • 『序言』(「和歌山県地誌」、春日賢一、1911年、序言)[17]
  • 『師範教育に於いて一部を主とすべきか、二部を重しとすべきか?』(「日本教育」、南郊社、1927年7月、)[37]
  • 『退学になった師範生、賊となって校長の宅へ』(東朝夕刊、1927年11月5日)

地方改良に関する主張[編集]

⚠︎この章は、古市利三郎の「農村教育と地方改良」[11]を元に作成されています。彼の論理的思考力の高さを簡潔に理解可能なものにしようと試みて要約したものです。とはいえ、疑わしい部分や詳述が足りない部分もあると思われますので、その際は、原文へは注釈[11]を、その翻訳は1つ下の見出しを参考にされたい。

  • 究極目的は地方を改良することである〔究極目的:地方改良〕。
  • 地方を改良するときに行うべき事柄は多くあるが、それを実行するのは人である。
  • よって、まずは地方人の頭を改良することが必要である〔目標:地方人の教育〕。
  • また、人々は異なる思想や感情を持つものだから、多数の集合団体である町村民衆が協同一致して町村に尽くすことも必要である。
  • よって、町村民衆をまとめる、その啓発指導の任〔要件:教育職責〕にあるべき中心人物が必要である〔要件:中心人物〕。
  • 実際に、模範町村には優良村長がいることが常であるが、しかし、そのような村長がいることは稀である。

(1)主張:従って、多くの町村において最も再現性が高いのは小学校長であると考える。

  • なぜならば、小学校長は少なくともその職責上常に知徳の修養を積み、かつ町村において将来公民になる児童青年を教養し指導する役目にある者であり〔要件:教育職責〕、そこに進んで町村改良に力を尽くそうとする熱心と誠意が加われば〔要件:中心人物〕、卓越したものになると考えるからだ。
  • 実際に、そのような例は珍しくない。たとえば、東京府の戸倉村における小学校長の例がある。難村であったが彼が第一に青年の頭を造ることが急務という考えで、非常にこの事に尽力した。その結果、村の青年三十ばかりが率先的に団結して、小学校長を中心に各事業の改良発展を成功させた。

(2)主張:また、農村に適した教育内容と施設設計が必要である。

  • なぜならば、地方教育者は都会での研究結果を参考に施設設計や教授を行う傾向にあるが、その教育は必ずしも農村教育に適さないからだ。農村においても、施設設計や教育内容が比較的都会本位である。
  • その意味で、府や県の師範学校付属小学校において、第二附属小学校や代用附属小学校という名義のもとに農村小学校を附属校にして農村的教育研究をなす所が段々増加する傾向があり、これは望ましいことである。
  • 実際に、広島、熊本、鹿児島、福井、宮城などで農村小学校を代用してその教育研究に従事し、その成績極めて良好である。私の前任地である沖縄の師範学校においても、学校長として代用附属小学校設置を県の賛同を得て行い、いくつか得るところがあったので、4つの点を説明したい。
  • 1つ目は、農村小学校において、その施設設計は勿論、教育内容においても出来るだけ農村的に研究することが必要である〔施設設計、教育内容〕。
  • 施設設計としては、例えば校舎の余地を利用し植栽をし、周囲の木を用いた塀を止めて果樹を植え山葡萄を作る、或いは楠その他有用な樹種の生垣を作るということ等がある。
  • 教育内容ついては、例えば各学科の教材にしてもよく郷土の資料を研究し、また村の人口、産業、財政、施設などの現状を把握して、悪いものがあればその改善方法を定めるといったことをして、十分に教材を地方化或いは郷土化する必要があるということである。
  • 2つ目は、農村改良上、農村小学校には是非実業補習学校を敷設して、これを奨励することが必要であるということだ〔施設設計〕。
  • 3つ目は、農村改良上、青年会を指導奨励することが最も必要で理にかなった径路であることは今更言うまでもないことである〔施設設計〕。
  • 4つ目は、女子教育の必要性である。なぜならば、女性は国民の半数であって、女子の教育指導が地方改良に大いに関係があるからだ。〔施設設計〕。

(3)結論としては、農村を改良するにおいて最も重要なのは改良を実施する地方人の教育であり、そのためには教育に係る職責と能力があり、進んで町村改良に力を尽くそうとする中心人物が必要であるが、それは小学校長であることが要件に照らして合理的であり、その小学校長が中心となって動くにおいて、農村に適した教育内容を提供すること、及び農村に適した施設設計(実業補習学校、青年会、女子教育など)を構築することが重要であるということである。地方教育家諸君の奮起を希望する次第である。

[翻訳] 農村教育と地方改良[編集]

⚠︎古市利三郎の「農村教育と地方改良」[11]の現代語訳です。 ⚠︎多少難しい語彙や参考にして欲しいものがある箇所には、リンク或いは注釈をつけてあります。翻訳における脚注は注釈であり、出典ではないことに注意。

 栃木県女子師範学校長 古市利三郎

 ここ本県[注 1]において地方改良講習会が当校[注 2]で開催されるということで、愚見を披露する機会が与えられたことは、私の最も光栄とする所である。しかしながら私は着任日が浅く[注 3]未だ本県の事情に暗いので、適切な講話を行うことが出来ないことが誠に遺憾であるが、「農村教育と地方改良」という題目のもとにいささかの所感を述べることで一応の責任を果たすこととした。地方を改良するにおいて施設経営すべき事柄は色々あるが、これを実行して行く者は帰するところ人である。よって、地方を改良するには、まず地方人の頭を改良することが第一に必要である。また、人の顔つきがみなそれぞれ違っているのと同様、人の心もそれぞれ違っていると古くから言われている[注 4]ように、人々は多少異なった思想や感情を持つものである。よって、多数の集合団体である町村民衆を統一して、よく協同一致してその町村のためにそれぞれ尽くすことが極めて必要である。そのためには、町村長、小学校長、若い篤志家[注 5]などの町村民衆を糾合する、その啓発指導の任にあるべき中心人物が必要であることは言うまでもない。それ故に、あの静岡県の稲取村[注 6]、愛知県の杉山村、千葉県の源村、東京府の戸倉村、広島県の広村、三重県の玉滝村、岡山県の八浜町[注 7]、その他いくつかのような摸範町村には、必ず中心人物として人格高くかつ献身的な優良町村長がいることが常である。しかしながら、全ての町村にこのような良町村長が居るという状態に至ることは、思うに、容易ではない。考えるに、各町村の小学校長はたとえ完全に崇高な人格者では無いとしても、その職責上常に知徳の修養を積みかつ町村において将来公民になる児童青年を教養し指導する役目にある者であって、進んで町村改良に力を尽くそうとする熱心と誠意さえあれば、その結果、思うに、卓越したものとなるであろう。故に今日の場合、農村開発の先鋒[注 8]となり農民啓発の重要な役割を務めることに最も適当な人物は小学校長教員であると信じるのである。実際に全国優良町村の功績を調べると、小学校長の立場でその地方改良に努力して成功する例は決して珍しくないようである。今、下に数例を挙げよう。

 東京府西多摩郡戸倉村は今日でこそ全国中の優良村に数えられているが、今から十数年前には非常に難村で、例えば財政は全く乱れて小学校の教員給も長い間支払いが出来なかった。当時の小学校長は疋田浩四郎[注 9]という人であったが、この人も三年間も全く給料を受け取れず、やむなく自らの家の生活費は僅かな家財を売り払って一日を送っていた位であった。だから、村の同情する者たちは校長に向って、このような村にいつまで居ても給料が出ないばかりでなく到底行く末の見込みがないからと頻りに転任を勧めたそうである。思うに、校長は容易にこれに耳を傾けず、「なるほど将来いつまで在職したとしても解決の見込みがないかもしれないが、毎日嬉々として登校するあどけない子供の顔を見たり、又は無邪気な青年の姿を見ては到底この村を去るという心は起こらない、寧ろ微力を奮って村治の改良を測り村のために尽くそう」と覚悟を決め、この難村を復興するにはまず第一に青年の頭を造ることが急務という考えで、非常にこの事に尽力した。遂に校長のひたむきな真心がその効果を顕して、村の青年三十ばかりが率先的に団結して是非とも村治を改良させたいということで、この学校長を中心としてようやく各事業の改良発展を見て、今日の名声を博するに至ったそうである。明治二十九年に疋田校長が亡くなった時には、村民は村財政が整わず待遇が悪いことに悩むことはなく、財政を整えることに励んだことを懐かしみ、そして、この村の今日があるのは全く同先生のおかげであるとして墓碑を村共同墓地に建立して、香花は今に至っても絶えることがないということである。

 広島県賀茂郡川上村は日本のデンマークと言われて非常に養鶏の盛んな所である。しかし、元来この村は一時養蚕が非常に盛んであったので大層村が栄えていた。そして、ある年相場の下落のために悲境に陥った結果が小学校へ現れて児童の欠席者が大層多くなった。それを受けて、その校長が役場へ行って、「どうも近頃は欠席児童が多くて困る。学校では全力を挙げて督促するけれども、どうも親たちが出さない。どうか役場の方からも一つ督促を願いたい。」と伝えた。ところが、その時の村長が言うには、誠に先生にはすまないが実はこの村は今日では食うや食わずの村になって来たとのことだ。親として子供を学校に出したいのは山々だけれども、今日のこの村では一人でも飯を食う人を減らさなければならない状況であるから、背に腹は代えられぬということで、学校に出る子供を引かせて広島辺りへ丁稚奉公に出している。これは出す親も泣きの涙で出しているし、出る子供も学校をやめるのは如何にも残念だと涙を振るって出て行っている。実に困ったものですと嘆いていた。この学校長は佐々木正夫という人であったが、「それは誠に気の毒なことだ、陰ながらそういうことを聴かない訳でもなかったが、そういう甚しい難儀な有様とは思わなかった」と言って何か思う所があって自宅へ帰ってよく考えて、やはりどうしてもこの村をどうにかしなければならないという結論に達した。生活に困らないようにしなければこの学校も立ち行かないということで、同氏はそれぞれの家に養鶏を奨めて一村の副業とすることを期待した。まず一般村民に勧める前に自ら養鶏の術を研究しようということで本務の余暇に熱心に鶏を飼養し三年、一日もやめることなく時には雛鳥と生活を共にしてその発育の順序を明らかにし、遂にはその身振りを見て直ちに健康かどうかを判別出来るようになったという。このようにして、鶏の飼育方がわかってから初めてこれを村民に勧誘奨励し、或いは鶏小作法を出し、或いは鶏講という頼母子講を始めて養鶏事業を全村に普及させてみせた。また、産卵の共同販売法を始めてこれを呉市、又は広島地方に輸出し数年にして年産額一万数千円[注 10]に達したという。こうして自ら農家の財政も快復して児童の就学も復旧したということである。

 岐阜県山県郡に保戸島村といって戸数僅かに百五十戸ばかりの村がある。この村の尋常小学校長の篠田次郎氏という人も学校によって一村の農業改良の中心としてよく成功した一人である。同氏は、この学校は尋常小学校に農業科が設けられている訳では無いが、農村の小学校は当然農村的であるべきという考えを持ち、また地方改良の指導者になることを期待し一生懸命に農業の方法を児童に教えると同時に父兄にもまたこれを教えた。学校には一坪の実習地もないが、同氏は村全体の水田を自分の学校の実習地と考え、害虫が発生する頃になると放課後または日曜休暇に子供を引率してその駆除をし、虫に関する子供の頭を養うと共に農民による害虫駆除の必要を感じさせた。その他、短冊苗代[注 11]や正条植[注 12]などの農事改良の方法は、学校教師の努力によりこの村では早くから普及したということである。

 このように一旦小学校が中心となって地方を改良しようとして奮励努力したならば随分と偉大な効果を奏することが出来るものであるが、翻って考えるに、従来の教育は校門内に閉塞されて功徳を郊外に及ぼすことが少なかったのみならず、教授にしても訓練にしても比較的都会本位で農村的な所が少なかったことは疑いなき事実である。故に、学校教育が農村の振興のために比較的効果が少ないとなれば、都会生活を促す傾向が無きにしも非ずであった。これは独り我が国ばかりでないと見えて、かつて英国にて委員を選び農村衰退の原因を調査した報告書の中には「近年、農村の人が労働を嫌って来たというのが農村衰退の一大原因であるが、特に青年者の間にこの悪傾向が盛んになってきた。そして、この間において、現在の小学校の教育がこの弊風を作る一原因をなして居る」という意見が多くあったということである。我が国においては、仮にこのような極端な弊害はないにしても、農村小学校においてその内容上、十分に農村的に計画されなかったことは疑いようのない事実である。

 元来、我が国における教育研究の中心は都会にあって、その研究の結果が新刊書や雑誌に発表されれば、地方教育者は直ちにこれを探して施設経営する傾向があったが、全く都会地においては到底農村に適切な教育上の研究が出来るものではない。また、地方教育の中心である師範学校附属小学校も多くは市街地にあって、やはり都会的であろうとして、これは従来農村に適切な教育法が行われなかった一大原因ではなかろうか。思うに、近年になって農村教育は農村経営の主点と認められ、農村教育者もまた従来のように校舎内に制限されずに農村を学校の勢力範囲とし、農村改良の中心でありたいと思い、時に教育者でありながら他の模範村や優良町村を観察考察して農村に適切な教育を実現しようとする者が多くなったのは、誠に喜ばしい現象である。

 府や県の師範学校付属小学校において、前に述べた通り、従来の付属校ではその管轄内に最も多くの農村小学校の模範である教育研究が出来難いという見地から、第二附属小学校や代用附属小学校[注 13]という名義のもとに農村小学校を附属校にして農村的教育研究をなす所が段々増加する傾向がある。あの大阪天王寺師範学校においては、有名な西成郡生野村小学校を代用附属小学校としており、その施設研究の一端として、同師範学校長の村田宇一郎氏は自治民育要義という一書を著してこの世に発表した。その他、私の知る所でも、広島、熊本、鹿児島、福井、宮城などにも同様に農村小学校を代用してその教育研究に従事し、その成績極めて良好であった。私の前任地である沖縄の師範学校においても、私は同様の理由のもとに代用附属小学校設置の必要を主唱し、幸いにも県当局の熱心と県会の賛同を得て、大正二年度より校地をへだたる半里程にある嶺吉尋常小学校を代用として在職二年半、この指導に従事していささか得る所があった。それならば、進んで如何なる点に努力し、如何なる順序に着手したならば農村教育を適切なものとし、農村改良に貢献することが出来るかということを次に論じる。

 第一には、農村小学校において、その施設方法は勿論、教授訓練の内容方面においても出来るだけ農村的に研究することが必要である。例えば、各学科の教材にしてもよく郷土の資料を研究し、また村の人口、産業、財政、施設などの現状を把握して、悪いものがあればその改善方法を定めるといったことをして、土地実際の状況に適当なこと、即ち十分に教材を地方化或いは郷土化する必要があるということである。学校園、つまり児童や生徒を自然に親しませ自然科学の学習に活用させるため学校内に作った農園や花園、も一時は随分その筋の奨励により旺盛を極めたが、その地方に適切でなかったからか、或いは教師の利用が十分になされていなかったからか、兎に角今日では荒廃して哀れな状態が多いようであるが、これも都会地小学校における学校園を農村的な学校園とは全くその趣きを異にしなければならないと考えられる。私が考えるに、農村小学校において理科その他の教材を供給し観察する、或いは校舎に美観を併置し児童に勤労の習慣を養うために普通の学校園を設置する必要はなく、それよりは農村小学校を高等科併置校にすることは勿論、尋常小学校においても多少の農業実習地を設けて高学年の児童を課外に勤労作業として農業実習をさせたならば、児童は絶大な興味をもってこれに従事し、その期間自らの農業の趣味を喚起し、勤勉を尊ぶ習慣を養い、将来農村民として活動する素養を与える上で非常に効果がある。その他には、校舎の余地を利用し植栽をし、周囲の木を用いた塀を止めて果樹を植え山葡萄を作る、或いは楠その他有用な樹種の生垣を作るということも農村学校に適当であるし、或いは家庭作業として一坪農業[注 14]とか一蛾養蚕[38]を行うことや、その他農家に必要な作業を少なからず行い、訓練上にても特に山林樹木愛護の念を養ったり、農業の趣味を涵養したり、労働の習慣を養い質実で倹素な気質を熟成させるといったことが必要であり、また農村自治の発達のためには一層公共、協同自治の精神を養成することに努力するなど、都会地と比べて著しく方針を異にすべき点は少なくないと信じている。

 第二には、農村改良上農村小学校には是非実業補習学校を敷設してこれを奨励することが必要である。あの欧州列国の自治体においては、力を教育に捧げることは勿論であるが、特に国民教育には一層重きを置き、その義務教育の期間も頗る長く[注 15]、ドイツは八年、フランスとベルギーは七年である。これに加えドイツでは、一旦小学校で得た知識を失わないように、また十二、三歳から小学校を卒業して徴兵適正年齢までの間はその心が動揺しやすく、種々な誘惑にも陥り品性を悪くする危険な時期であるから是非補習教育を行う必要があるという訳で、この種の教育が非常に盛んであり、連邦によっては追々この補習教育まで強制義務教育とする所が増えている。我が国でも、長年この教育については奨励勧誘は十分で、世間の人々もようやくその必要を感じて大いにその校数を増加し、最近の統計では一府県平均二百あまりに達するも、本県においては僅かに七十あまりに過ぎないことは教育上誠に遺憾である。しかし翻って考えるに、我が国においてこの実業補習学校の割合が進歩発達しなかったことは、様々な欠陥があると言えども、その一大原因はたしかに適当なる教員が不足しているためにその教授が適切ではなかったことによると考えるのである。故に私は常に各府県師範学校内に特別な二部の学級を設け第一農学校卒業生その他農業に実地における学理[注 16]に堪能なる者を収容して普通科の学力を補習し教育の学理を授けて本科兼専科正教員を養成することが頗る急務ではないかと思うのである。

 第三には、農村改良上青年会を指導奨励することが最も必要で理にかなった径路であることは今更言うまでもないことである。そして、青年会は何れも一旦小学校の門を出た者であればその指導には是非小学校教員が当然これに従事すべきものと思う青年会の指導と上手く組み合わさって、会員がよく協力一致し事に当る気込みが生じたなら、風紀の矯正、産業の発展、民風の振興などの地方改良には実に偉大な効果を挙げ得ることは次の数例を見てもこれを察することが出来る。即ちその一例は私がかつて在任した和歌山県那賀郡長田村青年会の事跡[24]である。同村の大字志野庄および藤井猪の垣の間に過去に山論と水論[注 17]があって、そのため大きな軋轢を生じ、お互いに譲らず遂に相互に誓約を立てて、良い関係を築くことが出来ないまま実に二百五十数年に及び、その悪習を持続し一村事毎に対立したので協同一致を欠き公共事業の発達を妨げることが少なくなかった。故に従来県当局を始め監督者または有力者など百方はその弊風を指摘して教え愉し勧め励まし思いを巡らせ力を尽くしたが、なんと言っても長年の因習であり容易に融和を見るには至らなかった。思うに同村の青年会長中谷彦次郎氏は深くこれを憂い、今この弊風を正さなければ到底一村の進善など望めないと考え、その後、しばしば各自青年の役員を一堂に会合して丁寧に進善は今のままでは不可能であることを説明し、それを可能にする手段として昔に締結した契約の解除の必要を叫び、遂にその役員の賛同を得たので、直々に各家にその契約解除に関する意見書に押印を求めて、そして後日の争いを防止しようと各家に説明した。日も足りていない状況であったが、数百年間の因習であったとしても一種の迷信となり、初めは神罰を受けるとか祖先に対する義務が果たせないとかいう訳で各家は頑としてその所説に応じなかったが、遂には青年の熱心と正理に勝つことが出来ず各自共に青年会の主張に賛同し、盛大な契約解除式を挙行し、ここに一郷協同の基礎がようやく強固になった。このように地方風習改良において顕著な効果を収め得て、後には一優良村として表彰の栄を担うに至ったのは、全く青年会の活動がその原動力となったのである。もう一つの例は、私の前任地の沖縄県において実際に見たものである。あの「田園都市」という書の中に、静岡県浜名郡村櫛村においては、万延の時代に津波の為[注 18]にその直後の村が疲弊困難に瀕している時、全村の申し合わせで酒会所というものを設けて消防組に引き受けて貰い酒の専売を行い、時刻と分量とを制限してよく節酒を励行することが出来たという事例が示されているが、これと似た例である。昔から、酒は寒い時に飲んでも暑い時に飲んでも良しという訳で、信州辺りには一升下戸[注 19]という諺があるように寒地においては防寒の意味で随分飲酒の習慣が盛んであるが、沖縄のような亜熱帯地においてもまた暑さを忘れるつもりか泡盛という峻烈な強い焼酎を盛んに使用する傾向があって、衛生風紀的にも経済的にも弊害は少なくないようである。思うに同県国頭郡金茂村においては、朝に飲酒することの害を認め、青年会の決議にて元老の賛同を得て今後は酒の販売は青年会館にてこれを専売し、かつ一家の壮年以上の男一人につき一ヶ月一升以上はこれを売らず、また時刻は早朝から午後八時に限るとして、大正二年度よりこれを実行すると、一村千戸ばかりの所で一年の飲酒総額において約三万円ばかりの節約を達成し、これにより村内地租を支払ってなお余裕ある状況となり、これに加えその間接の利益としてその後の風俗の改良が著しく、従来多くいた酔い倒れる者や、喧嘩や争論で家が崩壊する等の事件も殆ど無くなったという話である。これを今年の春に同村視察をした時に親しい村当局から聞いたのである。要するに、よく地方青年団体の指導が上手くなされたならば、風俗の矯正に産業の発展、あるいは自治の改良に随分偉大な効果を奏することが出来るものであると信じるのである。

 第四には、我が国の今日の現状では女性は概して教育の程度も低く、かつ交際は狭く世間の事情に暗く、一般的に家に居ることが多く、しかも家庭内においては一大勢力を持つものであるが、それ故にこの国民の半数である女子の教育指導が地方改良に大いに関係があるという事実を忘れてはならない。私は前任地の沖縄において、切実にこの思いを強くしたのである。同県において、発藩後[注 20]数十年が経過し今日では男子は概して服装も言語もその他の風俗も国内同様に近づきつつあるものの、女子は殆ど依然として旧態のままである。よって、私は同県在籍中常に、今日のやり方では永久に同県の改良は出来ないから、同県を良くするために広義の女子教育に大いに努力しなければならぬと主張したのであった。この事は独り同県のみではなく、一般に地方改良に貢献しようとする者はこの隠然と家庭や社会に大きな力を思っている女性の教育指導を忘れてはならないと信じるのである。これを実行する為には、一層女子教育の普及が進むように力を入れるべきであり、勿論男子の青年会に対する少女会、処女会、或いは婦人会などを設けてこれを指導するであったり、或いは農業をする必要がない時に短期女子講習会などを開催してその指導に従事することが極めて必要であろう。そして、この方面には特に女性教員が活躍し尽瘁することを切望するのである。この他、多数の優良町村において通常行われているように、農村教育家が村当局や村有力者と協議して戸主会とか公民会とか又は有志会などを設立して地方改良事業の発動的中心機関として斡旋指導をしたならば、地方を改良する上で著しく効果をあげることが出来るだろう。要するに、地方特に農村の改良には是非中心人物の犠牲的努力が極めて必要であるが、今や教育家が決起して地方改良の重要な役目を果たし、当局者及び有志者の協賛を待って献身的に奮励努力をしたならば、どんな村も良村にすることが出来ると確信するのである。積極的に、地方教育家諸君の奮起を希望する次第である。

[翻訳] 和歌山県の小学校[編集]

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 和歌山県師範学校長 古市利三郎

〇訓練の方面

⇒未翻訳

〇教授の方面

⇒未翻訳

〇管理の方面

⇒未翻訳

○総評及び意見

要するに、今回観察した所をもって、数年前の状況に対すれば、 設備教授訓練等において、著しく進歩したことを認めるけれども、その間において、特に感じる点を概括すると次のようになる。

一 一般に教授法及び各教科の研究がなお足りていない。柏木尋常小学校を除けば、注意を引くべき授業は余り見当たらない。思うに同郡においては、他郡市と同じく、郡内を四部の組合に分けて、時々教員が集合して、教授の研究を行い、また一学校内においても時々批評の教授を行うも、常に充分なる指導者を欠き、そのため効果が少ない。また教材に対する研究も、学力不足のため、充分な調査研究をすることが出来ないように見受けられる。これの救済法としては、師範学校規則に依り、第一種講習科を開設して、高等小學校本科正教員も時々招集して、附属小学校研究の結果を発表し、または必要な学科の講習をして、また同郡のように本校に近接する群において研究会を開催する場合には、なるべく本校附属の教員を派出して指導の任に当たらせることが必要であると感じる。

二 図書、体操(特に遊戯)、唱歌のような技能的学科においては、その教授法が甚だしく幼稚であり、確かに数歩時勢に遅れている感覚がある。正しい教授法の新知識を欠くと共に、技能拙劣な結果であるから、機会をみて講習会を開いて指導することは最も急務であると信じる。

三 今回の視察中特に感じたのは、教員の不足が甚だしく、そのために代用教員を用いることは仕方がないということだ。師範学校本科及び講習科の卒業生は、その教授の成績の多くは良好であることは勿論であるけれども、老朽のもの及び代用教員においては、児童の能力の程度を考えずに、無秩序に教授進行する者も多く、その結果著しく児童に不成績を与え、或いは尋常第一学年児童の算術の計算力は、学年末にもかかわらず、他の普通学校における第一学期末の学力にも及ばない者もいる。思うに、これに関しては、一日も早く教員補充の道を講じることが急務であることを深く感じる。今や本県目下の計画にては、十数年を期して、これの補充を図るも、現在の事情においては、一時的な方法として、師範学校第二講習科を再興して、尋常小学校正教員を養成するか、或いは県教育会の事業として同様の講習会を開催して、正教員の速成策を講じることは、極めて必要な施設事項であると信じる。

[翻訳] 東牟婁郡の教育[編集]

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 和歌山師範学校長 古市利三郎

 第一章 教育勅及び戊申詔書

 教育勅語(教育ニ関スル勅語)の取扱については、主として修身科その他学科に連絡してこれを教授し、その教授の中に細かく勅語における徳目(徳の分類)を適時に編入し、尋常第四学年以下の児童には大意を理解させて、 以上の児童には漸次詳解して義務教育の終末までにその要領を会得しそしてこれの暗唱が可能とさせ、進んで高等科児童には字句を違わずよく全文を暗写が可能とさせることを期待する。教育勅語の御下賜(ごかし)記念日には一般に記念奉賛式(ほうさん)を行うものが多く、中には当日出校前の児童が各自宅に国旗を掲揚してもって一般人民にとって記念日であることを知らせる(太地)、 或いは特にこの日を選んで式後善行児童の表彰式を行う(天満)、あるいは朝会又は修身を教える際の始めにおいて毎週数回奉賛することもよい、或いは高等科児童の清書したもの又は印刷したものをその家庭に扁額(へんがく)として奉揚して、日夜父兄と共に反省の資料とするのもよい、その他同窓会青年会談話等においてこれを奉賛訓諭してその普及を図り、また学校所在神武祭典に児童と共に参拝して祇頭に奉識するのもよい(天満)、土地の僧侶と申合せ説教中に加味するのもよい、その他学校における諸般の施設は一に勅語の御趣旨を徹底することに帰着する。

戊申詔書に関しては、ほぼ教育勅語の取扱に準拠して、各校共に熱心に教授訓育上諸般の計画を実行して、児童をしてよく聖旨を奉体して質実勤勉の民たらんことを期待する。下に同郡小学校において実施する方法を挙げれば、


一、勤倹力行(きんけんりょっこう)の実を挙げるため学校識員の貯金厲行時間の確守、教授用具の製作、校地校具の利用消耗品の節約用品の検閲等を申合せること。

二、祝祭日その他学校における儀式には、教育勅語と共に捧賛して聖旨のある所を訓戒し、また朝会の場合にもこれに訓諭すること。

三、校外講演、即ちその町村各大字に出張して、父兄会、青年会等において御趣旨の在る所を演述しその普及徹底に努めること。

四、

⇒以降未翻訳

[翻訳] 女子師範独立の議[編集]

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 沖縄師範学校長 古市利三郎

 回顧すれば、私の沖縄県師範学校長として貴県へ赴任して、大正元年十月に当時県下初等教育の状況をみるに、各郡視学は勿論、小学校長の多数は皆、他の県や府の輸入に頼り、しかも正教員の総教員に対する割合はその半分に達せず、特に女教員は極めて僅少であった。なお、義務教育の就学割合は7パーセントにもみたない有様であった。そうであれば、本県教育の刷新を図るには、まずは就学の奨励と同時に師範学校を拡張して、正教員の自給自足と充実を図ることが急務であると感じたのである。思うに、当時の師範学校は、男女併置して、しかも他校は極めて狭隘(きょうあい)であるのみならず、前は龍潭*2(りゅうたん)の城池(じょうち)*3であり、他の三方は道路と民屋に遮られ全く拡張の余地なく、女子寄宿舎は、狭隘なる民屋を借りて僅かに雨露(うろ、雨とつゆ)を凌ぐ状態であった。そうであっても、全部他に移築するには膨大な経費を要するので、到底県費で補えるものではなかった。窮余(きゅうよ)の一策として、女子部を独立し、校地に余裕のある高等女学校に併置(へいち)し、もって男女師範学校を拡張する計画を立てた。大正三年新春に大味知事*4が来任すると、私は早速に知事の官邸を訪れ、本県特有の実状(じつじょう)を詳述した後、本県においては表面的には男尊女卑の様に見えるけれども、元来本県の婦人は労働をいとわない大層な活動生に富んでおり、しかも家庭にあっては、隠然(いんぜん)たる勢力を有していることをもって、本県産業の開発や風俗の改善を図るなら、まずは女子教育を振興する必要があると伝えた。このためには、第一に教員の養成を拡充しなければならない。しかも現師範学校は、前述の状態であり拡張の余地がなく、これを独立して高等女学校に併置することが急務である所以(ゆえん)を説述した。知事には、その後種々の御攻究(こうきゅう)の結果、幸いにも不肖の愚見を採用して庁議を決定された。大正三年九月、高等女学校長が辞任されると、いずれ女子師範学校併置は自然と学校長兼任になるとして、新たに女学校後任校長の任命を見合わせ、一時的に私に高等女学校長事務の取り扱いを命じられた。同年秋、県会が開会されると、女子師範学校独立案と共に寄宿舎新築案を提出された。県会にて、種々の議論を重ね、最後に師範学校長の意見に徹して決する事となり、態々多数の県議を行い首里に来られて校長室で種々の質疑応答を重ねられ、後に議事を開き、多数をもって即決された。その後、早速に寄宿舎新築の工事に着手し、翌大正四年四月一日をもっていよいよ沖縄県女子師範学校を創立、高等女学校が併置され、初代学校長として蟹江虎五郎氏の就任を見て、校務一切を引き継いだ。(古市利三郎)

[翻訳] 和歌山県地誌序言[編集]

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 和歌山師範学校長 古市利三郎

 春日君の著、和歌山県地誌について、私にその序文を頼まれた。私は平素公務が多く、それに性来、文筆家の仕事や生活をしていない。されば、ただ所感の一端を披歴して、もって序文に換えようと思う。全て学問は智識智力の目的とするものであるが、また同時に、大いに感情の養成に資するものである。そして地理学はよく、この両方面を具備している。すなわち記憶力を養成し、多方面に対する観察力を発達させ、また常に推理的考察力を錬成すると同時に、地理学は日常われわれの生活に密接に関係がある事項により成るものであって、実社会の実相を知り、生活に必須である所謂常識を養成する上で、効果的である。そして郷里および自国の現状を認識させることによって、自己の属する郷土および国土について、地理に関する事柄と人間生活に関する事柄の正当な位置を自覚し、これに公平にして、着実なる愛郷心、愛国心を要請することを得るものである。地理学研究の順序は、その階段として、まず郷土の観察、地方の研究をもってその出発点としない訳にはいかない。我が国において、地方地誌の類は古来よりその数が乏しくない。明治十七年に内務省地理局において収集したものは、既に二千数百部に達している。紀伊の地であれば、風光明媚、気候温和、地味肥へ て、産業が興り、加えれば古来より我が国歴史上に著しい関係を有する地方であれば、全般に紹介すべき事項があることが甚だ多い。そして、当国には、紀伊国名所図会、紀伊続風土記のような名著があると言えども、いずれも極めて量が多いので、容易にその要領を捕捉すべきではない。また、今日の科学的見地から編纂されたものではない。そして、遠い過去の記録に関するものであるから、これをもって今の事情を知ることはできない。近頃では、案内記に類するもの、又は新聞雑誌等の断片的なものが存在すると言えども、直ちに全ての県下の山河の形勢、気候風土、産業、宗教、教育、交通等の様々な地理的事項について、適当に総覧すべき好著が無いことは、我々が常々遺憾に思っている所である。春日君はそこに見るところがあって、公務の余暇をもって親しく県下各地を跋渉(ばっしょう)して、実地に見聞きし、つぶさに調査研究し、もってこの著を大成した。思うに、現在、社会の要求しているものと言うべきものである。この著は、元より完璧をもって評価するべきではないけれども、目下の時勢に応じて、社会を補う豊さ鮮やかさを持っている。

 明治四十四年三月 下浣(月末の十日間)、古市利三郎 識

 我が国における地理学の発達は、研鑽日なお浅いにも関わららず、これを欧米各国の地理学の進程と比べると、僅かにその研究の端緒(たんしょ、解決)に達したりと言うべきと思うだけでなく、日本地理の完成を期待するならば、まず各府県の地理より研究を重ねる他ない。思うに、我が国における各府県地理が充分に研究されているものは少ない。これは、我が国に完全なる日本地理の編述がなかれない理由である。従来と言えども各地方地誌に関する書の出版されているものの、所謂汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう、蔵書が非常に多いこと)にはならない状態にあり、往々にして名所や旧跡の案内、旅行記録のものに留まり、私の見聞が狭く、未だに地理学的に地方地理を研究した恰好のあるものを見聞きしない。これは私の浅学非才を自ら恐れず、あえて本書を編述した理由である。このいち小編著は元より完璧であると言うことは出来ないけれども、地体の構造、地形の変遷、地質の大枠から気象の概況に及び、さらに戸口(ここう、戸数と人口)の状態、交通の如何、産業の発達など最近の地理学会の風潮に準拠し、もって一面においては日本地理学編成の一資料を提供し、一面においては世の中がこの書によって本県地理の概況を了得し、さらに新研究の端緒になることを期待する。そして、記述に際して、従来地方地誌の一大欠陥となっている全国との関係、全国に対する地位等に関しては努めてこれを明らかにしようと試みた。本書編纂にあたって、先輩諸賢の著書説明等に負う所が大きいとは言え、公務の余暇をもって多忙の間に作るものとなると、編者の意を満たすに足る深討と推察を行ういとまが無く、事実の詳細な叙述の整斉等その他において、はなはだ遺憾とする所が多い。識者の一笑を博することを甘んじて受け入れる。されば、本書が完璧に達するには前途遼遠(ぜんとりょうえん)であるが、もし、鞭韃(べんたつ)自ら励まし先輩知友の誘掖補導を得るのであれば、それ或いはその目的を達すると信ずる。

 明治四十四年三月、著者 識

[翻訳] 1927年[編集]

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師範教育に於いて一部を主とすべきか、二部を重しとすべきか?(1927)

 岩手県師範学校長 古市利三郎

 師範教育に於いて一部を主とすべきか、二部を主とすべきかの問題に就いては、地方経済方面を別にして実質上より考究すれば、将来中学校卒業生の優良なる者多数入学志望する様相成れば兎も角、当該卒業生中以下の者二部へでもと志願する現実に於いては到底優等生を招致するを得ず、従つて今日に於いては一部を主とするの外無之と存じ候。特に本県の如き全県に於いて中学校卒業生の総数少なく、従って二部出願者の寡少なる所に於いては、二部を主とすること結局不可能の実状に有之候。

退学になった師範生、賊となって校長の宅へ」東朝夕刊(1927)

 三日午後九時頃本所区太平町一丁目の夜店金物屋でしきりに短刀を見ている二十五くらいの男を通行中の刑事が引致して取り調べると、岩手県岩手郡大澤村中澤の子森正二郎(二十三)といい、大正十四年九月に盛岡師範学校〔岩手師範学校〕二年在学中、放蕩〔酒や女におぼれること〕のため退学になって以来東京横浜方面を荒らし周り、本年九月には盛岡に帰り母校校長古市利三郎氏に復讐の目的で同家に入り、女中〔よその家に雇われて家事の手伝いなどをする女性〕江本栄子(十五)を棍棒をもって殴り人事不省〔大病や重傷で全く意識を失うこと〕に陥らせて、現金百円、時計その他価格二百五十円を強奪し十月再び上京していたもので、凶器を求めようとしていたことが判明した。なお、余罪取り調べ中。(東朝、1927年11月5日、夕刊、2ページ目)

系譜[編集]

簡易家系図[編集]

古市勘兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(襲名)古市勘十郎
(福井県士族)
 
 
 
 
古市初五郎古市利三郎
(福井県士族)
 
 
古市政次郎

家族[編集]

祖父:古市 勘兵衛。

父:古市 勘十郎[39]。福井県士族[注 21][40]

妻:古市 ふよ[39]。1873年10月生まれ。福井県士族。

養子:古市 誠[39]。1894年8月生まれ。弘前大学初代農学部長。

婦:古市 よし子[39]。1903年12月生まれ。東京府士族。

脚注[編集]

出典[編集]

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  8. ^ 舎監長は、校長の命を受け、舎監等を指揮監督し、寄宿舎の管理運営に関する事項をつかさどる役職。
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  13. ^ 最高裁判決は正しかったか - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」”. www.alter-magazine.jp. 2024年1月19日閲覧。
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  32. ^ 参考:『退学になった師範生、賊となって校長の宅へ』(東朝夕刊、1927年11月5日)。その箇所を抜粋した翻訳もこのページに載せている。
  33. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月19日閲覧。
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  35. ^ 沖繩籍教師與日治前期臺灣公學校教育(1898-1918)__臺灣博碩士論文知識加值系統”. ndltd.ncl.edu.tw. 2024年1月19日閲覧。
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  37. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月18日閲覧。
  38. ^ 参考:間瀬滋郎(1918)、一蛾別養蚕並製種法:実験 https://ld.cultural.jp/snorql/?describe=https://jpsearch.go.jp/data/dignl-957601
  39. ^ a b c d 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月18日閲覧。
  40. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年1月20日閲覧。

注釈[編集]

  1. ^ 栃木県のこと
  2. ^ 当校というのは、栃木県女子師範学校のことであり、古市利三郎はその学校長である。
  3. ^ 古市利三郎が学校長に着任日したのは1915年、講習会は1916年である。
  4. ^ 「人心の同じからざるは其の面の如し」は、孔子の「春秋」に出てくる。
  5. ^ 篤志家とは、社会奉仕・慈善事業などを熱心に実行・支援する人である
  6. ^ 稲取村は、1903年に「静岡新報」にて、内務省地方局調査により「村法の模範]と紹介されている。
  7. ^ この文章全体で紹介されているすべての模範町村は合併等により廃止となっている。
  8. ^ 先鋒とは、運動・主張などの先頭に立つもののこと。
  9. ^ 疋田浩四郎(1849-1896)は、戸倉村の後身である「あきる野市」によって、現在においてもゆかりの人々として紹介されている。疋田没後、戸倉村は、明治30年代から優良自治体として「模範村戸倉」の名が全国に知られるようになり、明治43年(1910)には、内務大臣より表彰された。
  10. ^ 1900年の1円は、2020年の約1500円に相当する。従って、当該数字は現代においては一千五百万円以上である。
  11. ^ 短冊苗代とは、田植え等において、水田または畑に短冊型のまき床を作る方式である。
  12. ^ 正条植とは、作物の苗の列を整え、株と株との間隔を一定に植えつけることである。
  13. ^ 参考:門脇正俊(2018)、農村「代用付属校」制度の導入と展開 https://www.hokkyodai.ac.jp/files/00006400/00006447/20191001143448.pdf
  14. ^ 参考:大河内 信夫(2014)、戦前小学校で実施された「一坪農業」についての一考察、pp87-88 file:///C:/Users/4zlov/Downloads/gk06-85-102.pdf
  15. ^ 当時の我が国において、義務教育期間は尋常小学校卒業までの6年であった。
  16. ^ 学理とは、学問上の原理である。
  17. ^ 山論は山林・原野など山に関する争論である。水論とは、灌漑用水の田への分配(分水)をめぐる紛争である。
  18. ^ 万延とは年号であり、1860年から1861年の期間を指す。万延二年に津波が発生している。
  19. ^ 下戸とは、お酒を飲めない人のことである。一升は1.8リットルである。
  20. ^ 沖縄は1872年に琉球藩となり、1879年に廃藩置県により沖縄県となった。
  21. ^ 平民が官吏となることでその一族が士族として扱われる法令が存在したが、古市利三郎が東京高等師範学校を卒業する時において既に士族であるから、古市勘十郎が従来より士族であったことを示す。