アパッチプロレス軍
アパッチプロレス軍(アパッチプロレスぐん)は、かつて存在した日本のプロレス団体。アパッチの前身である冬木軍プロモーション(ふゆきぐんプロモーション)、WEW(ダブリュー・イー・ダブリュー、ワールド・エンターテイメント・レスリング)についても記述している。
歴史
[編集]冬木軍プロモーション
[編集]1996年10月、WARを退団した冬木弘道、邪道、外道がプロレスプロモーションとして設立。
1997年3月29日、HARUMIドーム21でプレ旗揚げ戦を開催。4月19日、大垣城ホールで旗揚げ戦を開催。
WEW
[編集]6月、FMWのコミッショナーである冬木が王座認定組織として発足。
2002年2月15日、FMWが崩壊。3月、冬木、金村キンタロー、黒田哲広、BADBOY非道、新宿鮫、チョコボール向井がプロレス団体として設立。冬木は「荒井(荒井昌一)の構想のなかにあったWEWの名での新団体設立を形にした」とコメント。3月10日から4月9日、旗揚げ戦前に冬木軍プロモーションとして興行を開催。4月14日、ディファ有明でプロレスリング・ノア主催「冬木弘道引退記念興行」を開催。5月5日、川崎球場で旗揚げ戦を開催。
2003年3月19日、冬木が死去。3月、冬木の没後、WEWは冬木軍プロモーションを名乗って冬木の妻が社長を務めていた。5月5日、川崎球場大会を最後にWEWは解散。7月7日、後楽園ホールで冬木軍プロモーションの特別興行を開催。
アパッチプロレス軍
[編集]第1次
[編集]2004年7月、金村、黒田、非道、新宿鮫がWEWの後継団体として設立。8月30日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。
2007年12月、所属選手と上層部の意見が対立して後楽園ホール大会の発表とチケット発売が大幅に遅れてしまい後楽園ホールから撤退せざるを得なくなる。
2008年2月18日、金村が参戦していた大日本プロレスの女性スタッフに猥褻行為を行っていた事件が公に発覚(詳しくは「金村キンタローによる女性スタッフ強制猥褻事件」を参照)。話し合いの結果、2月22日の新木場1stRING大会をもって金村の無期限出場禁止(後に懲戒解雇処分)並びにアパッチの無期限活動自粛を発表。活動休止の間、4月17日に黒田、5月16日に佐々木貴が自主興行を開催したが金村を擁護した折原昌夫が参戦していたため批判を浴びた。12月、CF企画が運営から撤退したため、年内の活動停止が発表されたが佐々木を中心とした新体制の下で活動を継続していくことを発表。
2009年1月16日、新体制の下で新木場1stRING大会を開催。5月22日、新木場1stRING大会の全試合終了後に金村がリングへ乱入して混乱状態となり、アングルではなかったため、金村は不審者扱いされて、つまみ出された。また、同興行に金村と共に佐藤耕平、橋本友彦が観戦しており、後に佐藤は所属しているプロレスリングZERO1から厳重注意を受けて謝罪コメントを出して、橋本は週刊プロレスモバイルで金村、佐藤とは偶然居合わせたとコメントして謝罪。6月26日、「アパッチ」という名前を使うことが困難なため、8月の興行を最後に解散することを発表。8月8日、一関市総合体育館サブアリーナ大会を最後に解散。
第2次
[編集]2010年10月26日、金村は自身が設立したXWFを母体としてアパッチを復活させることを発表。12月17日、新木場1stRINGで再旗揚げ戦を開催。
2012年12月22日、TAKESHIBAコロシアム大会の全試合終了後、西村賢吾がゼネラルマネージャーの長谷川一孝が所持するカバンから選手契約書を盗む行為を起こした。12月24日、西村に無期限出場停止処分が下された(ストーリー上)。
2013年3月30日、西調布格闘技アリーナ大会を最後に長らく興行は開催されておらず3月限りでモバイル版公式サイトが終了。4月29日、パソコン版公式サイトが更新停止。7月14日、約3ヶ月ぶりの興行を若獅子会館で開催。
2016年9月29日、年内で解散することを発表。12月25日、新木場1stRING大会を最後に解散[1]。
タイトル
[編集]最終所属選手
[編集]スタッフ
[編集]レフェリー
[編集]リングアナウンサー
[編集]ゼネラルマネージャー
[編集]歴代タイトル
[編集]- WEW
歴代所属選手
[編集]- 冬木軍プロモーション
- WEW
- 第1次アパッチプロレス軍
- 第2次アパッチプロレス軍
故人
[編集]- 第2次アパッチプロレス軍
脚注
[編集]- ^ “アパッチプロレス軍が解散。金村と黒田を除く選手たちにより新団体Aチームが旗揚げへ!”. バトル・ニュース. (2016年12月25日) 2016年12月28日閲覧。
- ^ 2011年6月23日、新木場1stRING大会の試合前による合同練習中、意識不明になって病院に搬送されて急性硬膜下血腫と診断。7月13日、病院で肺動脈血栓塞症により死去。享年38歳。