コンテンツにスキップ

試製九八式中戦車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。61.245.99.52 (会話) による 2012年11月20日 (火) 13:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

試製九八式中戦車
想像図
性能諸元
全長 m
車体長 m
全幅 m
全高 m
重量 t
懸架方式 独立懸架および
シーソー式連動懸架
速度 km/h
行動距離 km
主砲 試製47mm戦車砲
副武装 九七式7.7mm車載重機関銃×2
装甲 mm
エンジン 8気筒空冷ディーゼル(予定)
160馬力
乗員
テンプレートを表示

試製九八式中戦車 チホ(しせいきゅうはちしきちゅうせんしゃ ちほ)とは、帝国陸軍参謀本部の命で開発され、1939年(昭和14年)7月に完成した試作中戦車。「チホ」は中戦車(ュウセンシャ)として5番目(イ、ロ、ハ、ニ、)に設計されたことを示している。

概要

八九式中戦車の後継車をめぐり、参謀本部は「軽量安価で、大量に配備できる戦車」として試製中戦車 チニを推し、運用側が対抗してより高性能のチハ(後の九七式中戦車)を推したことは有名である。この対立は日中戦争勃発とともに軍の予算が大幅に増額されたことで多少高価でも(チニと比較して)高性能のチハが採用されることとなった。

但し参謀本部はその持論を捨てきれなかったようで、軽量安価な車両として開発されたのが本車である。車体の完成は昭和14年(皇紀2699年)であり、当時の兵器の呼称様式(皇紀の下2桁で呼称)に従えば「九九式」となりそうなものであるが、「九八式」という非公式の名称はおそらく計画段階で関係者がその様に呼び始めたのであろう。

外見上の特徴として、

  • 砲塔形状は九七式中戦車改一式中戦車のものに似ている。
  • 識別点として砲塔後部機銃及びキューポラ(展望塔)が無く、上面は平ら。砲塔前方左側に車載機関銃装備。
  • 47mm戦車砲を装備。
  • 転輪は片側5つ。サスペンションは他の日本戦車と同じくシーソー式
  • 車体後部にソリ(尾体)装備。
  • マフラー(消音器)は車体後部左側に装備。

本車に於いて特筆すべきは搭載砲に貫徹力を重視し、長砲身・高初速の47mm戦車砲を採用したことである。チニ・チハはどちらも歩兵支援戦車としての色合いが濃く、搭載砲は貫徹力の低い短砲身57mm戦車砲であった。

長らく九八式中戦車といわれてきた車両の写真。写真には写っていないが、九七式中戦車の車体を利用した戦車回収車装甲工作車“セリ”)がこの車両を壕から救出している場面である。確かに砲塔前方に機関銃がついているが、車体に眼をやると転輪が6つであり、九七式中戦車の車体である事が分かる。また、47mm砲が未装備で、キューポラが付いている事から九七式中戦車改用の新砲塔のプロトタイプの1つであるという説が有力である。

この転換については本車が完成する少し前、次期中戦車の開発を睨み昭和14年3月に開かれた戦車研究委員会において「(次期中戦車の)搭載砲はまず57mmとするも、火砲威力についてはなお研究する。対戦車威力のつとめて増大した戦車砲、または機関砲を装備することも予期すること。口径はやむなくば47mmまで低下することもある。将来戦に於いては対戦車戦闘のやむなき機会多きを顧慮す。」という設計条件を付けたことからも伺える。特に最後の一文については同年6月に勃発したノモンハン事件、及び同年9月に始まったポーランド侵攻に於いて証明されることとなる。


本車の試製四十七粍戦車砲は、試製九七式四十七粍砲及び試製四十七粍砲の研究成果から設計された。試製四十七粍戦車砲の完成砲は1940年6月より各種試験を開始、同年9月に試製四十七粍戦車砲を装備した本車の砲塔が、九七式中戦車チハの車体に搭載され抗堪弾道性試験が行われた。[1]

砲塔前方左側に機関銃を搭載した意図ははっきりしないが、想像するに同軸機銃に類するものを想定したのではなかろうか。同軸機銃とは主砲の横に同軸で装備される機関銃のことで、主砲発射に際し機銃の弾道を見て着弾点を予測するスポッティングライフルや主砲弾装填の間敵を制しておく用途に使われるが、陸軍の戦車では九八式軽戦車二式軽戦車にしか採用されていない。因みに太平洋戦線で日本戦車がバズーカに簡単にやられてしまったのは砲弾装填の間敵を制しておくことができず、敵にゆっくり狙う時間を与えてしまったからだと言われる。

但し搭載する機関銃がベルト式ではなく、20発箱型弾倉を用いて給弾する九七式車載重機関銃である限り、持続射撃が困難であるという問題に何ら代わりは無い。

試作車に搭載されたエンジンは空冷6気筒ディーゼルで、恐らく八九式中戦車か九五式軽戦車からの流用であろう。因みに本車のエンジンは三菱重工から空冷8気筒ディーゼル(160hp)が提案されていた。また、国産戦車として初めて操向装置に油圧機構を用いた。結果は満足すべきものだったと言われる。

ここまではチハ等に比べ前進が見られる箇所であるが、過渡期の車体であるためかまだまだ遅れた箇所も見られる。車体後部に装備されたソリである。これは第一次世界大戦~戦間期の戦車によく見られるもので、車体を長くすることで塹壕を乗り越える際有利に働くと言われるが、その効果には疑問がある。一説では近代戦車の始祖となったルノーFT-17軽戦車がソリを装備していたため、日本を含めこれを参考にした国々では「戦車にソリ」が当たり前になったとも言われる。が、FT-17がソリを装備したのはテールヘビー(重心が後ろにある)で超壕時に不安があったためであり、そうでもない戦車がソリを装備してもあまり効果はなかったらしい。むしろ装備することで逆にテールヘビー気味になり車体後方のサスペンションに負荷がかかって寿命が短くなる、また幾分か車重が増えることで機動性能が落ちるなどの欠点がある。実際、ソリを装備した八九式中戦車でもその利点は荷物置き場として使えること位しかなかったらしい。

また、車体重量に制限を付ける限り装甲防御力の低さも改善されるものとは思えない。キューポラが無いことで、外部視察能力がチハ等に比べ劣ることも否めない。

結局、この辺りのことがあってか本車が制式に採用されることは無かった。もっとも、2年前に採用したチハの生産が進んでいる以上新たに新型戦車を採用してチハの生産を阻害するようなことをしたくなかったというのも大きな理由であろう。

脚注

  1. ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」p347、p348

参考文献

  • 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」ISBN 978-4-7698-2697-2 光人社NF文庫、2011年