笠原和夫 (野球)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
生年月日 | 1920年6月3日 |
没年月日 | 1998年4月10日(77歳没) |
身長 体重 |
172 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1948年 |
初出場 | 1948年 |
最終出場 | 1956年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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笠原 和夫(かさはら かずお、1920年6月3日 - 1998年[1]4月10日)は、大阪府大阪市[2]出身のプロ野球選手(外野手)・監督、解説者・評論家。
来歴・人物
[編集]市岡中学校(旧制)時代は1936年、1937年と2年連続で選抜野球大会に出場[2]。早稲田大学野球部では主将を務め、1943年10月16日に東京・戸塚球場にて開催された出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる最後の早慶戦)に早稲田の4番打者として出場した[2]。
第二次世界大戦後に復員後、大野大喜クラブ(福井)、北新化学(後に親会社北新合板に吸収され現在のホクシンとなる)、全大阪を経て1948年、南海ホークスに入団[2]。入団1年目に全試合に出場し、当時の新人選手最多となる160安打を記録した。その後は年々出番が減り、1953年には代打での出場がメインとなる。
1954年、高橋ユニオンズ設立に伴い移籍[2]。1955年シーズン終盤にはノイローゼとなった浜崎真二監督(シーズン終了後正式に退任)に代わり選手兼任監督に就任[2](当初は若林忠志ヘッドコーチに任されるはずだったが、若林が嫌がったため笠原が担うことになった)。翌1956年も務めたが、球団が大映スターズと合併(実質解散)するのに伴い退任、同時に現役引退。1957年、何人かの選手とともに笠原も大映に入り、助監督を務める。同年退団。
引退後は朝日放送・ラジオ関西・近畿放送解説者、日刊スポーツ評論家を務めた。1998年4月10日死去。77歳没。
エピソード
[編集]妻はプロ野球初の女性場内アナウンサーと言われる青木福子。青木は1947年4月3日、後楽園球場で行われた「第10回日本野球読売旗争奪戦」で初放送し、約1年半ウグイス嬢を務めた後、笠原と結婚した[3]。
メディア
[編集]1979年の映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』に実名人物が登場するほか、2008年に同様に出陣学徒壮行早慶戦を映画化した『ラストゲーム 最後の早慶戦』では、彼をモデルとした笠原忠之なる人物(この人物は岡本忠之もモデルにした)が登場し永井浩介が演じた。また同年にD-BOYSが劇作化した『ラストゲーム〜最後の早慶戦〜 (劇作品)』では、同じく彼がモデルの笠井和也(主将)が登場し鈴木裕樹が(2010年の再演版でも)演じた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1948 | 南海 | 140 | 607 | 540 | 100 | 160 | 40 | 7 | 7 | 235 | 72 | 28 | 15 | 0 | -- | 67 | -- | 0 | 55 | -- | .296 | .374 | .435 | .809 |
1949 | 135 | 574 | 508 | 72 | 137 | 27 | 3 | 7 | 191 | 57 | 12 | 3 | 1 | -- | 63 | -- | 2 | 57 | -- | .270 | .353 | .376 | .729 | |
1950 | 108 | 410 | 361 | 54 | 99 | 17 | 2 | 6 | 138 | 56 | 8 | 1 | 1 | -- | 45 | -- | 3 | 25 | 11 | .274 | .359 | .382 | .742 | |
1951 | 75 | 233 | 213 | 17 | 78 | 14 | 5 | 2 | 108 | 28 | 4 | 2 | 1 | -- | 18 | -- | 1 | 8 | 3 | .366 | .418 | .507 | .925 | |
1952 | 98 | 254 | 232 | 16 | 64 | 8 | 2 | 2 | 82 | 26 | 2 | 1 | 2 | -- | 19 | -- | 1 | 16 | 3 | .276 | .333 | .353 | .687 | |
1953 | 55 | 70 | 61 | 4 | 11 | 1 | 1 | 0 | 14 | 6 | 0 | 0 | 1 | -- | 8 | -- | 0 | 9 | 1 | .180 | .275 | .230 | .505 | |
1954 | 高橋 トンボ 高橋 |
131 | 486 | 404 | 51 | 117 | 20 | 4 | 1 | 148 | 36 | 9 | 4 | 17 | 3 | 61 | -- | 1 | 18 | 7 | .290 | .384 | .366 | .750 |
1955 | 114 | 297 | 263 | 25 | 72 | 13 | 3 | 1 | 94 | 31 | 5 | 2 | 0 | 1 | 32 | 1 | 1 | 23 | 3 | .274 | .355 | .357 | .712 | |
1956 | 36 | 36 | 30 | 1 | 8 | 1 | 0 | 1 | 12 | 13 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 1 | .267 | .353 | .400 | .753 | |
通算:9年 | 892 | 2967 | 2612 | 340 | 746 | 141 | 27 | 27 | 1022 | 325 | 68 | 28 | 23 | 6 | 317 | 2 | 9 | 214 | 29 | .286 | .365 | .391 | .756 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 高橋(高橋ユニオンズ)は、1955年にトンボ(トンボユニオンズ)に、1956年に高橋(高橋ユニオンズ)に球団名を変更
年度別監督成績
[編集]年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955年 | 8位 | 16 | 7 | 9 | 0 | .438 | - | 3 | .255 | ? | 35歳 | トンボ 高橋 |
1956年 | 8位 | 154 | 52 | 98 | 4 | .347 | 45.5 | 50 | .214 | 3.26 | 36歳 |
- 1955年の成績は浜崎真二から引き継いだ9月24日からのもの。ゲーム差は、9月24日の時点で首位南海から53、シーズン終了時点で同じく57。
記録
[編集]- シーズン40二塁打 ※新人プロ野球記録(前年の藤村富美男を超える1リーグ最多記録。日本記録としては1950年に大沢清が更新。球団としては2024年に栗原陵矢が並ぶまで単独最多記録。)
- シーズン100得点 ※新人プロ野球記録(当時は安井亀和を超える日本プロ野球記録、翌年に別当薫が更新)
背番号
[編集]- 22 (1948年 - 1953年)
- 4 (1954年 - 1956年)
- 30 (1957年)
関連情報
[編集]出演番組
[編集]- ABCフレッシュアップベースボール - ABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- 侍プロ野球 - 1974年までABCテレビ(1975年以降はNETテレビ→テレビ朝日系列)のプロ野球中継キー局だったTBSテレビと系列局の現行共通タイトル。
- KBS京都エキサイトナイター
著書
[編集]- 笠原和夫、松尾俊治著 『学徒出陣最後の早慶戦 : 還らざる英霊に捧げる』(恒文社,1980年)
- 笠原和夫、松尾俊治著 『最後の早慶戦 : 学徒出陣還らざる球友に捧げる』(ベースボール・マガジン社,2008年)ISBN 978-4-583-10106-4「学徒出陣最後の早慶戦」の増訂
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 笠原和夫 - NPB.jp 日本野球機構