田中秀夫

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田中 秀夫(たなか ひでお、1933年11月24日 - 2011年7月9日[1])は、映画テレビドラマ作品の元監督演出家愛知大学法経学部卒業。岐阜県出身。

来歴[編集]

1956年に愛知大学法経学部卒業後、東宝映画撮影所で山本嘉次郎監督に師事。数々の映画作品に助監督として携わった後、山本監督の紹介で東映テレビプロに移籍。テレビドラマの助監督として務め、1965年、31歳のときに『特別機動捜査隊』にて監督デビューを果たす。以降主に東映のテレビ作品で辣腕を振るい、刑事ドラマ、キャラクター作品問わず膨大な作品の演出をこなした。

自他共に認める監督生活の代表作として『スケバン刑事』シリーズが挙げられる。このシリーズでは一貫してメイン監督を務め上げ、2本の長編映画も成功に導いている。ただし、一連のシリーズ最終作『花のあすか組!』が不振のまま終了して以降はそれまでのメインの活動拠点であった東映での仕事が減り監督活動の幅が狭くなった。およそ1年間のブランクを経て1989年以降、東映以外での他社の仕事を多く手掛けるようになり、オリジナルの社員教育ビデオを監督したこともあった(古巣・東映での仕事は1991年が最後)。還暦を過ぎた頃の1995年放映の高木美保主演の2時間ドラマ『北斗星一号DXロイヤルの殺意』を最後に事実上引退し、後進に道を譲った。

晩年は雑誌のインタビューに答える機会が多くあり、貴重な裏話を披露していた。

2011年7月9日、胃癌のため埼玉県狭山市の病院で死去。78歳没[1]。死去報道後に増田康好、白倉伸一郎越智一裕大嶋拓荒木芳久といった役者やクリエーターがブログやツイッターにて追悼のコメントを出し、2011年秋の「宇宙船」での追悼特集では内田有作阿部征司、久保田悦夫といった面々がコメントを寄せた。

人物・評価[編集]

多くの作品を成功させたその手腕に対してはファンのみならず同業者からの評価も高く、脚本家の上原正三は田中を「職人」と評し安心して脚本を任せることが出来たと語っている。また監督兼プロデューサーの堀長文も「偉大な才能」と近年雑誌のインタビューで田中を評している。東映取締役の白倉伸一郎は田中の全盛期が終わった後に東映に入社した人物だが筋金入りの田中ファンだったそうで、『東映ヒーローネット』インタビューにて「非常に的確だと思うんですよね、彼のカット割りにしても色彩にしてもカメラワークにしても。田中演出の『宇宙刑事ギャバン』『スケバン刑事』、それに『特捜最前線』の再放送を観なかったら東映に入らなかったですね。田中監督の演出を観てそれで“東映”という会社を認識した訳ですよ」と語っている。

カット割りの多い演出手法の一方で早撮りを得意とし、『スケバン刑事』『レッドビッキーズ』に出演した増田康好からは「テンポも速いが撮影も早い」と後に評されている。

その一方で良くも悪くも非常に頑固な性格であったことで知られ、後述の様な様々なエピソードを残すなど、作品制作で関わったスタッフとの相性の善し悪しは少なからずあり、気を使うという意味で周囲が苦労させられる人物であった。撮影技師のいのくままさおによると、「私が仕事をした中で田中は頑固さでは3本の指に入る監督」であったとのこと。いのくまが撮影手法でいろいろ提案しても、田中はそれらを殆ど拒否したという。一方、田中と共に『特捜最前線』などで仕事をした脚本家の長坂秀佳塙五郎によると、脚本について分からない部分があると「ここはどういう意味?」と電話で聞かれることが多くあったという。

エピソード[編集]

  • 自身の演出したシナリオは全て自宅に所蔵しているという。
  • 没後のファンのブログによると、ファンレターにもまめに返事を書いたり、『スケバン刑事』のポスターにサインを書いて送るなどの一面を持っていたという。
  • 佐渡稔は東映作品で印象深い監督という質問に坂本太郎と共に田中の名を挙げていた。
  • 2002年に発売された『快傑ズバット大全』にて長年コンビを組んだ撮影監督のいのくままさおと対談。その際田中は「ホントにね、厄介な仕事(監督業)を選んだもんですよ。みんなの言う通りにね、ハイハイ言ってりゃラクなんだろうけど、そういうわけにも行かないしね。皆に憎まれる仕事を選んじゃったなあってね、いつも思うんですよ」と語っていた。
  • 自身の愛着のある作品としては『どっこい大作』、『スケバン刑事』シリーズが双璧であるという。
  • 大野剣友会岡田勝によると、会の稽古に田中と前嶋守男(田中に師事した元テレビドラマ演出家)が無償で演技指導で度々参加していたという。
  • 『どっこい大作』で助監督として田中に従事した久保田悦夫は田中について「長身で颯爽と撮影所にいつも現れて、脇に黒い手帳を抱えていた。とても合理的に撮影を進めておられて、今までにないタイプの監督さんだというイメージでしたね」と語った。また同作品撮影中に生田スタジオ撮影所長の内田有作は田中に当時同時期に制作されていた仮面ライダーシリーズへの参加を度々促したが、田中は了承しなかったという。しかしその後同シリーズには『仮面ライダー (スカイライダー)』『仮面ライダースーパー1』にて演出を務めた。
  • 監督の友松直之は業界に入る前、東映東京撮影所を撮影見学で訪れた時田中に演出論を吹っ掛けたことがあるという。
  • 年代は不明だが、脚本家の荒木芳久によると、シナノ企画が製作するビデオ作品“日本昔話”シリーズの総監督を田中が任された際、脚本を荒木に依頼してきたという。しかしなぜか明確な理由も明かされないまま、この企画自体が流れてしまったという。
特捜最前線
  • 『特捜』では担当した本数は少ないが、メインライターの長坂秀佳の作品を多く演出したり、重要回を担当した。同番組の長坂脚本では「東京、殺人ゲーム地図!」が最も印象に残っているそうで、「ちゃんとCMが入る場所が指定されてあったから楽(笑)。しかも読んでいて本当に面白いホンでした」と後に述懐している。
  • 夏夕介演じた叶刑事主役回を多く担当したため、夏の印象にも残っていたらしく、「田中秀夫監督は好きな監督の一人ですね。でも田中監督の作品ではいつも苦労ばかりしていた気がします」とかつてインタビューにて語っていた。
宇宙刑事ギャバン
  • 朝日ソノラマから発売されていたファンタスティックコレクション『宇宙刑事ギャバン』のインタビューでは、最終回にてドン・ホラーの首が光の尾を引きながら飛びまわる合成シーンに何度もNGを出して、合成屋さん(チャンネル16)との徹夜作業を経てオンエア状態の出来に仕上げたと証言していた。
スケバン刑事
  • 役者の指導については大変厳しい監督であったことが伝えられている。『スケバン刑事』シリーズの歴代主演女優は全員例外なく現場で泣かされたという。
  • 長門裕之は『スケバン刑事』では当初顔は出ず声のみの出演の予定だった。そんな長門に田中は「顔も出しましょうよ」と声を掛けて、長門は「ヤだよ、声の分しかギャラを貰ってないもん」と最初は断ったが、田中の熱意に押されて顔出し出演をすることになったという。
  • ザ・ベストテン』で南野陽子が『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』のロケ先から出演したとき、ちょうど現場にいた田中もテレビに生出演している。
  • 『スケバン刑事』劇場版のクランクアップの日に、南野陽子より田中の名前入りのディレクターズチェアをプレゼントされている。
  • 武上純希がまだ駆け出しの頃、『スケバン刑事』シリーズでシナリオを書いてもそれを田中に床に叩き付けられ、「これのどこが面白いの? 教えてよ」と厳しくダメだしされたことを述懐している。最初は上手く仕事が出来なかったが、長い間その関係が続いた後にお互いの妥協点が見つかってその後はシナリオがスムーズに仕上がるようになったという。また田中は厳しいがそのぶん本が成功した場合とても喜ぶ監督であったという。武上はこのエピソードについては余程印象深いのか複数のインタビュー(『宇宙船』など)で語っており、「あの頃があるから今の自分がある。だから東映さんには本当に御恩が有るので、自分が出来る限りのご奉公はしていきたい」とも述べていた。
  • 一方、上記のようなエピソードについては同じく『スケバン刑事』シリーズのライターだった橋本以蔵も語っている。シナリオを田中やプロデューサーにつまらないとダメを押され、原稿をゴミ箱に入れられるなどの屈辱も経験している。その場にいた同席スタッフに「大丈夫? よく堪えられたね」とあとでこっそり気遣われるほどであったと後のインタビューにて語っており、橋本は武上と違い現在でも後ろ向きな「屈辱的な記憶」として自分の中に留めているという(出典:『シナリオ』インタビュー)。
  • 脚本制作には熱意を持っており、劇場版『スケバン刑事』の際は担当の土屋斗紀雄や橋本と旅館に泊まり込み、共にシナリオを練り上げた。台本は第8稿まで書き直されたという。

主な監督作品[編集]

テレビ[編集]

※ 本数不明 ★ パイロット監督

映画[編集]

オリジナルビデオ[編集]

  • ブラックプリンセス 地獄の天使(1990年4月、東映)
  • お嬢様刑事 ギャル・ザ・コップ(1990年12月、日本ビデオ映画)
  • ブラックプリンセス2 炎の標的(1991年3月、東映)

脚注[編集]

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  1. ^ a b 時事ドットコム:映画監督の田中秀夫氏死去