「春日虎綱」の版間の差分

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=== 勝頼期の活動から晩年 ===
[[元亀]]4年([[1573年]])4月の[[武田信玄]]死後の[[武田勝頼]]期にも[[海津城]]代として[[上杉氏]]に対する抑えを任されている。[[天正]]3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]には、上杉郡の抑えとして参戦せずに[[海津城]]を守備していたが、嫡男の[[高坂昌澄|昌澄]]が戦死している。『軍鑑』に拠れば[[武田勝頼]]期には一門の[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]や[[穴山信君]]、譜代家臣の[[跡部勝資]]・[[長坂光堅]]らが台頭していたといわれ、[[春日虎綱]]らの老臣は疎まれていたという。
 
[[長篠の戦い]][[武田氏]][[織田氏]]に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり[[甲陽軍鑑]]においても[[武田氏]]の衰退を決定づけた合戦とされる。[[武田勝頼]]は長篠敗戦後に[[信濃]]へ逃れ、6月2日に[[甲府]]へ帰陣している。[[甲陽軍鑑]]には、[[春日虎綱]]は敗報を聞くと信濃[[駒場]]において[[武田勝頼]]を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある<ref>平山(2011)、p.156</ref>。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に[[相模国]]の[[後北条氏]]との同盟を強化することと、戦死した[[内藤昌秀]]・[[山県昌景]]・[[馬場信春]]らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の[[穴山信君]][[武田信豊]]の[[切腹]]を申し立てたとしている<ref>平山(2011)、pp.156 - 158</ref>。
 
[[武田勝頼]]期には尾張の[[織田氏]]との対決が行われているが、虎綱は[[天正]]6年([[1578年]])の上杉謙信死後に発生した上杉家における[[御館の乱]]において、[[武田信豊]]とともに[[上杉景勝]]との取次を努め、[[甲越同盟]]の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている[[天正]]6年6月8日付の[[北条高広]]・[[北条景広]]宛[[上杉景勝]]書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の[[高坂昌元|信達]]が登場することが確認される<ref>平山(1994・②)、p.64</ref>。同年6月14日に[[海津城]]において死去したとされる。享年52。
 
虎綱の[[命日]]は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『[[甲斐国志]]』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない<ref>平山(1994・②)、pp. 64 - 65</ref>。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される<ref>平山(1994・②)、p.65</ref>。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の[[春日惣次郎|惣次郎]]による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。

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