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[[17世紀]]初頭から続いた[[三十年戦争]]を経て成立した[[ヴェストファーレン体制]]を端緒とし、さらに[[18世紀]]の[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらに[[フランス革命]]を受けた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]][[フランス第一帝政|帝国]]の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域([[ハプスブルク君主国]])をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は[[神聖ローマ|帝国郵便]]のタクシス家に[[ボヘミア]]の国家領[[:en:Chotěšov Abbey|ホティーシャウ]]を108万9200グルデンで売却した。 |
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この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「諸国民の[[春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていたが、[[1866年]]の[[普墺戦争]]により大ドイツ派のオーストリアは完敗し、最終的には統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])に大幅な譲歩を認め([[アウスグライヒ]])、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。 |
2015年12月2日 (水) 16:18時点における版
- オーストリア帝国
- Kaisertum Österreich
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←1804年 - 1918年 → (国旗) (国章) - 国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
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公用語 ドイツ語(話されていた言語としては他に、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語、スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語) 首都 ウィーン 通貨 マリア・テレジア・ターラー
オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語:Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。
前身の、神聖ローマ帝国及びその有力な構成国であったオーストリア大公国時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。
概要
17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制を端緒とし、さらに18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらにフランス革命を受けたナポレオン帝国の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域(ハプスブルク君主国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は帝国郵便のタクシス家にボヘミアの国家領ホティーシャウを108万9200グルデンで売却した。
この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていたが、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは完敗し、最終的には統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)に大幅な譲歩を認め(アウスグライヒ)、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。
領域
- 神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:オーストリア大公国、ボヘミア王冠領(チェコ)、ザルツブルク公国、ケルンテン公国、チロル地方など
- オスマン帝国からの征服地:ハンガリー王国の大部分、トランシルヴァニア、クロアチア、イストリア、ダルマチア
- ポーランド分割によって獲得:ガリツィア、ブコヴィナ(ガリツィア・ロドメリア王国)
- イタリア関係:ロンバルド=ヴェネト王国、1860年まで分家がトスカーナ大公国を支配。
- 1865年から1866年にかけてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国のうちのホルシュタイン
主要年表
オーストリア帝国のデータ | |
民族構成 | ドイツ人: 24% ハンガリー人: 20% チェコ人: 13% ポーランド人: 10% ルテニア人(ウクライナ人): 8% ルーマニア人: 6% クロアチア人: 5% スロバキア人: 4% セルビア人: 4% スロベニア人: 3% イタリア人: 3% |
- 1804年 神聖ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世として即位
- 1805年 フランス軍、ウィーン占領。アウステルリッツの戦い
- 1806年 フランツ2世、神聖ローマ皇帝位を放棄。神聖ローマ帝国の消滅。
- 1809年 フランス軍再びウィーン占領。メッテルニッヒ宰相に就任
- 1810年 オーストリア皇女マリー・ルイーズとナポレオン皇帝の結婚
- 1813年 ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)
- 1814年 フランス戦役。ウィーン会議(-1815年)
- 1815年 ワーテルローの戦い。ドイツ連邦成立。
- 1819年 カールスバード勅令
- 1831年 ポーランドの蜂起
- 1835年 フランツ1世没。フェルディナント1世即位
- 1847年 ガリツィアの蜂起
- 1848年
- 1849年
- 3月 ロシア帝国軍、ハンガリーに介入
- 8月 ハンガリー軍投降、コシュート・ラヨシュ亡命
- 1859年 イタリア統一戦争、ソルフェリーノの戦いに敗北。ロンバルディア割譲
- 1864年 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
- 1866年 普墺戦争、ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)。リッサ海戦。ヴェネツィア割譲。ドイツ連邦の終焉と北ドイツ連邦成立。
- 1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)。オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。
- 1869年 - 日墺修好通商航海条約締結、日本との国交が結ばれる。
- 1873年 - 6月、三帝同盟成立。
- 1878年
- 1879年 - ドイツ帝国と同盟。
- 1882年 - 2月、三国同盟成立。
- 1888年 - ドイツとロシア再保障条約。オーストリア、三帝同盟の更新を受けず。
- 1897年 - 最初の普通選挙による帝国議会選挙。バデーニ言語令によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱。
- 1900年 - 清国で義和団の乱が発生したため、列強国連合として派兵を行う。
- 1902年 - 清国天津市市域の一部を租界地として獲得。
- 1907年 - 男子普通選挙法成立。
- 1908年 - ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言。ドイツ帝国はこれを支持し、ロシアを牽制。
- 1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビア王国の力を抑制すべくアルバニアの建国を支援。
- 1914年
- 6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエヴォで暗殺される。
- 7月5日 - セルビアに対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する。
- 7月23日 - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付。
- 7月25日 - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
- 7月26日 - イギリス外相エドワード・グレイが危機解決のための会議を提案するも、ドイツ・オーストリアはこれを拒否。
- 7月28日 - セルビアに宣戦布告。
- 7月29日 - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
- 7月31日 - ドイツがロシアに兵力動員の最後通牒、ロシア回答せず。
- 8月1日 - ドイツがロシアに宣戦布告。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツのルクセンブルク侵攻に対して兵力動員。
- 8月3日 - ドイツがフランスに宣戦布告。
- 8月4日 - ドイツがベルギーに侵攻、イギリスがドイツに宣戦布告。
- 1915年
- 1916年
- 6月 - ブルシーロフ攻勢でロシア軍に惨敗を喫し、東部戦線が崩壊の危機に陥る。
- 8月 - ルーマニア王国がオーストリアに対して宣戦布告、トランシルヴァニアの戦いで撃退する。
- 11月21日 - フランツ・ヨーゼフ1世崩御、カール1世即位。
- 12月 - ルーマニアの大半を占領、ルーマニア王国を降伏させる。
- 1917年
- 1918年