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| 職業 = 映画監督、制作、脚本、作家、音楽監督、カリグラファー、詩人。
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| 配偶者 = Bijoya Ray
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'''サタジット・レイ'''([[ベンガル語]]:সত্যজিৎ রায়, [[ヒンディー語]]:सत्यजीत राय, 英語:'''Satyajit Ray''', [[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は[[インド]]東部大都市[[コルカタ]]出身のインドを代表する[[映画監督]]、また、[[小説家]]であるられており、代表作に『[[大地た]]など。'''サタジット・ライ'''表記る。
'''サタジット・レイ'''([[ベンガル語]]:সত্যজিৎ রায়, [[ヒンディー語]]:सत्यजीत राय, 英語:Satyajit Ray, [[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は[[インド]]の[[映]][[家]]。彼は映画界における巨匠の一人に挙げられる。映画制以外も、築き上げた彼独特文体で執筆され[[小説]]や、[[カリグラフィー]]など広告媒体制作で知られる。


サタジットは[[コルカタ]]市の、世界的に有名な[[ベンガル人]][[芸術]]・[[文学]]一家に生まれた。彼の経歴は広告媒体の制作から始まり、[[ロンドン]]滞在時に[[フランス人]]映像作家の[[ジャン・ルノワール]]と出逢い、また[[イタリア人]][[ネオリアリズム]]の[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]の『[[自転車泥棒]]』を見たことから、[[自主映画]]の製作に身を投じた。
日本では当項目名のように英語表記を片仮名読みした表記が一般的だが、まれにベンガル語での読み方に従った'''ショトジット・ライ'''(より正確には「ショットジト・ラエ」)が用いられることもある。また、このように表記されることはほとんど無いが、ヒンディー語読みした場合は「サッティヤジート・ラーイ」となる。


サタジットが制作した映画は[[ドキュメンタリー]]や[[短編映画]]も含めて37本ある。彼はまた[[フィクション]]の作家、[[出版]]者、[[イラストレーター]]、グラフィックデザイナー、そして映画評論も行った。1955年に公開されたレイ初の映画『{{仮リンク|大地のうた|en|Pather Panchali}}』は、国際的な賞を11個授かり、その中には[[カンヌ映画祭]]のBest Human Documentaryもある。この作品と、1956年の『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』、1959年の『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』の3作は「{{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}}」と呼ばれる。
== 略歴 ==
父親はベンガル文学の著名な作家という裕福な家庭に生まれ、画家を目指していた。


サタジットは[[脚本]]、[[キャスティング]]、[[映画音楽]]、編集から、制作した映画のクレジット・タイトルや広告のデザインまでも手がけた。彼は生涯において、インドの第32回[[ナショナル・フィルム・アワード]]や国際的な映画祭や式典でのものを含む数々の賞を受け、1992年には[[アカデミー名誉賞]]を授かった。同年、インド政府はレイに{{仮リンク|バーナトラトナ賞|en|Bharat Ratna}}を贈呈した。
[[コルカタ大学]]を卒業後に広告会社に勤務し、レイアウトや挿絵などを描いていたが、映画製作に興味を持つようになった。彼の初めての作品である『[[大地のうた]]』は世界各国の映画祭で高い評価を得たが、会社に勤めながら休日に撮影をしたため、完成まで3年かかったという。なお、サタジット・レイの作品は一般的な[[インドの映画]]とは異なり西洋的な映画手法に基づいて作られており、インド国内よりもむしろインド国外で評価されている監督である。


== 生涯 ==
1992年には[[第64回アカデミー賞|第64回米国アカデミー賞]]で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した(プレゼンターは[[オードリー・ヘプバーン]])。
=== 生誕と家族 ===
サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=36}}</ref>。祖父([[:en:Upendrakishore Ray|Upendrakishore Ray]])は[[作家]]、イラストレーターであり出版も行い、また哲学者そしてアマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動[[ブラフモ・サマージ]]の指導者でもあった。新聞[[:en:U. Ray and Sons|U. Ray and Sons]]の創刊も行い、これがサタジットに批判的精神の根底部分を形づくる要因となった。父{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}は[[ベンガル語]]で書かれた{{仮リンク|ノンセンスバース|en|nonsense verse}}や児童文学の嚆矢であり、またイラスト制作や批判活動も行っていた。サタジットは、シュクマルと母スプラバの間に生まれた。


サタジットがわずか3歳の時に父シュクマルが亡くなり、一家はスプラバのわずかな収入で生きなければならなくなった。彼はコルカタの{{仮リンク|バーリグンジ政府高校|en|Ballygunge Government High School}}で学び、{{仮リンク|コルカタ大学|en|University of Calcutta}}の{{仮リンク|管区カレッジ|en|Presidency College, Calcutta}}で経済学の学士(オーナーズ)を修めた。しかし既に彼の興味はいつも[[ファインアート]]に向けられていた。1940年、母親は[[ラビンドラナート・タゴール]]が設立した{{仮リンク|シャンティニケトン|en|Santiniketan}}の{{仮リンク|タゴール国際大学|en|Visva-Bharati University}}へ進学するよう求めた。しかしコルカタに愛着を持つサタジットは、シャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気でなかった<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=46}}</ref>。しかし母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって、納得して進学した。シャンティニケトンでサタジットは[[東洋]]芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家である{{仮リンク|ノンドラル・ボーズ|en|Nandalal Bose}}<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=70}}</ref>や{{仮リンク|ビノード・ビハーリー・ムカルジー|en|Benode Behari Mukherjee}}からたくさんの事を学んだ。後に、サタジットはムカルジーのドキュメント映画『The Inner Eye』を制作した。また彼は[[アジャンター石窟群]]、[[エローラ石窟群]]、[[エレファンタ石窟群]]を訪れ、その{{仮リンク|インド芸術|en|Indian art}}から大きな刺激を受けた
また、The Complete Adventures of Feludaの前書きによれば、祖父のUpendrakishore Rayが発刊した子ども向けの雑誌『ションデシュ』(Sandesh)を1961年に復刊。[[シャーロック・ホームズ]]のベンガル語訳も連載されたことのあるその雑誌に、インドのシャーロック・ホームズと称されるフェルダー・シリーズを連載(ベンガル語)。1965年から没するまで毎年発表された作品は長編・短編合わせて35作に及び、主にインド国内向けに英訳もされた。フェルダー・シリーズの何作かは自身で映画化している。日本語訳には『黄金の城塞』と『消えた象神』がある。他に幻想小説も執筆し、日本語訳もされている。
<ref>{{Harvnb|Seton|1971|pp=71–72}}</ref>。


1943年、サタジットはイギリス人が経営する広告会社D.J. Keymer に就職し、下級映像制作者 (junior visualiser) として月80[[ルピー]]の給料を得た。彼は[[グラフィックデザイン]]を好み制作を上手くこなしていた。しかし、そこにはイギリスとインドの従業員間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらに「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=56–58}}</ref>。後に、サタジットはD. K. Guptaが新たに設立した印刷会社{{仮リンク|シグネット・プレス|en|Signet Press}}の仕事にも関わり始めた。ここで彼は出版される書籍のカバーデザインを、好きなように任せられた。ここで、[[:en:Jibanananda Das|Jibanananda Das]]の『[[:en:Banalata Sen (book)|Banalata Sen]]』と『[[:en:Rupasi Bangla|Rupasi Bangla]]』、{{仮リンク|ジム・コーベット (猟師)|label=ジム・コーベット|en|Jim Corbett (hunter)}}の『[[:en:Maneaters of Kumaon|Maneaters of Kumaon]]』、[[ジャワハルラール・ネルー]]の『{{仮リンク|インドの発見|en|Discovery of India}}』など多くの本のカバーを制作した。また、{{仮リンク|ビフティブシャーン・バナールジ|en|Bibhutibhushan Bandopadhyay}}が著したベンガル語の古典的小説『大地のうた (Pather Panchali) 』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』(The mango-seed whistle)の表紙や挿絵も手がけた。そしてこの仕事から、サタジットは大きな影響を受けた。彼は初の制作映画にこの作品を選び、その革新的な映像のいくつかの場面でこの挿絵を用いた<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|p=38}}</ref>。
[[1966年]](昭和41年)[[10月]]に'''来日'''している。


1947年サタジットは、{{仮リンク|チダナンダ・ダスグプタ|en|Chidananda Dasgupta}}らと共同でコルカタ映画組合[[:en:Calcutta Film Society|Calcutta Film Society]]を設立した。彼らは数多い外国映画を上映し、サタジットはこれらを視聴し真剣に学んだ。[[第二次世界大戦]]中には友人となった駐コルカタ[[アメリカ陸軍]]の軍人から上映される最新のアメリカ映画情報を仕入れた。また、知り合いになった[[イギリス空軍]]のノーマン・クレールからは、映画だけでなく[[チェス]]や西洋[[クラシック音楽]]をともに楽しむようになった<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=40–43}}</ref>。
== 主な監督作品 ==
*[[大地のうた]](''Pather Panchali'', 1955年)
*[[大河のうた]](''Aparajito'', 1956年)
*[[大樹のうた]](''Apur Sansar'', 1958年)
*[[詩聖タゴール]](''Rabindranath Tagore'', 1961年)
*[[大都会 (映画)|大都会]](''Mahanagar'', 1963年)
*[[チャルラータ]](''Charulata'', 1964年)
*[[株式会社/ザ・カンパニー]](''Seemabaddha'', 1972年)
*[[遠い雷鳴]](''Ashani Sanket'', 1973年)
*[[ミドルマン]](''Jana Aranya'', 1975年)
*[[チェスをする人]](''Shatranj Ke Khiladi'', 1977年)
*[[ピクー]](''Pikoor Diary'', 1981年)
*[[遠い道]](''Sadgati'', 1981年)
*[[家と世界]](''Ghare Baire'', 1984年)
*[[見知らぬ人 (映画)|見知らぬ人]](''Agantuk'', 1991年)


1949年、サタジットは長い交際期間を経て、いとこの{{仮リンク|ビジョヤ・ダス|en|Bijoya Ray}}と結婚した<ref>Arup Kr De, "Ties that Bind" by ''The Statesman,'' Calcutta, 27 April 2008. Quote: "Satyajit Ray had an unconventional marriage. He married Bijoya (born 1917), youngest daughter of his eldest maternal uncle, Charuchandra Das, in 1948 in a secret ceremony in Bombay after a long romantic relationship that had begun around the time he left college in 1940. The marriage was reconfirmed in Calcutta the next year at a traditional religious ceremony."(サタジット・レイの結婚は型破りなものだった。彼は大学を終えた1940年頃から始まった長いロマンティックな関係を経て、母方のおじカルカンドラ・ダスの一番若い娘に当る1917年生まれのビジョヤと1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。二人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式が執り行われて、認められるものになった。)</ref>。夫婦は後に映画監督となる息子{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}を得た。この年、フランス人映画監督ジャン・ルノワールが、『[[河 (1951年の映画)|河]]』の撮影のためにコルカタを訪れた。サタジットは彼を補佐して郊外に撮影に適した場所を見つけた。彼はルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=42–44}}</ref>。1950年、D.J. Keymer社はサタジットに[[ロンドン]]本社勤務を命じ、当地に留まった3ヶ月の間に彼は99本の映画を鑑賞した。この中にはイタリアネオリアリズムのヴィットリオ・デ・シーカが制作した『自転車泥棒』(1948年)があり、彼は強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、劇場を出たサタジットは映画制作者になる決心をしたという<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|p=48}}</ref>。
== 日本語訳された著書 ==
===名探偵フェルダーシリーズ===
1965年から1992年まで発表(ベンガル語)。全35編。名探偵フェルダー(本名:プラドッシュ・ミッテル)が活躍するティーンエイジャー向け推理小説。大人の読者にも愛好家が多い。<ref>波多野健「インドの本格ミステリーの歴史と現在」(カルパワ・スワミナタン『第三面の殺人』(講談社、2010年)巻末解説)参照</ref>


=== オプー三部作(1950-1959年) ===
このシリーズは2作品がサタジット・レイ自身により映画化されており、日本ではその2作品のみ翻訳刊行されている。
サタジット・レイは古典的なベンガル文学の[[教養小説]]『大地のうた』(1928年)を原作に、初めての映画制作にとりかかる事を決めた。これは、ベンガルの村で育った小さな少年オプーの半生を記す、作者の自伝的小説である。スタッフには、高い評価を受け続けた[[カメラマン]]の{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}と[[美術監督]]の{{仮リンク|バンシ・チャンドログプタ|en|Bansi Chandragupta}}の両者を除くと、未経験者ばかりであった。役者もほとんどがアマチュアの中、彼は1952年に撮影を始めた。経費は個人的貯蓄で賄いつつ何とか資金調達で上積みを試みたが、ほんの小額しか手に入らなかったため制作継続に支障をきたした<ref name=makepanchali>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=74–90}}</ref>。結果、彼と制作主任の{{仮リンク|アニル・チャウダリ|en|Anil Chowdhury}}が金を積み増して続行でき、完成までに3年もの時間がかかった<ref name=makepanchali/>。サタジットは脚本や制作監督への介入を伴う出資を拒否した。政府からの援助では、ハッピーエンドにすべきというアドバイスがあったが、サタジットはこれを無視しつつ資金は受けた<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=95}}</ref>。彼は少ない予算ゆえに映像化できた数少ない場面の一つを、『[[王になろうとした男]]』映画化のロケ場所をインドで探していた[[ジョン・ヒューストン]]に見せた。田舎でオプーと姉が列車を追うシーンを見たヒューストンは、ニューヨークで「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った。
*黄金の城塞 ([[:en:Sonar Kella]]) (くもん出版、1991年11月) - シリーズ6作目(1971)
*消えた象神 ([[:en:Joi Baba Felunath]]) (くもん出版、1993年4月) - シリーズ12作目(1975)


[[西コルカタ州]]政府からの借金を受けてサタジットが完成させた映画は、1955年に公開されると高く評価され人気を博した。そして数多くの賞を受け、インドや外国でロングラン上映された。インド国内では熱狂的な支持を受け、[[ザ・タイムズ・オブ・インディア]]紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と評した<ref name="set1">{{Harvnb|Seton|1971|pp=112–15}}</ref>。イギリスでも[[リンゼイ・アンダーソン]]が熱烈なレビューを書いた<ref name="set1" />。しかし中には[[フランソワ・トリュフォー]]が鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった<ref name=filmifunda>{{cite news|author=|url=http://www.telegraphindia.com/1050420/asp/calcutta/story_4634530.asp|title=Filmi Funda Pather Panchali (1955)|publisher=The Telegraph|date=2005-04-20|accessdate=2006-04-29|location=Calcutta, India}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]では、最も権威を持っていた批判家{{仮リンク|ボズリー・クロウザー|en|Bosley Crowther}}が仮借の無いレビューを書いた。アメリカでの配給元はクロウザーの評論によって興業は上手くいかないと恐れたが、封切されるとロングランを記録した。
===その他===

*大都会 ベンガル語 シナリオ(大阪外国語大学、1991年3月) - シナリオ
サタジット・レイの国際的な活動は、第2作『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』の成功を受けて始まった<ref name= robintrilogy/>。この作品は、青年オプーと彼を愛する母親との間に起こる絶え間ない諍いを描いた<ref name= robintrilogy>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=91–106}}</ref>。{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}や{{仮リンク|リトゥック・ガタク|en|Ritwik Ghatak}}ら評論家たちは、本作に前作を上回る高い評価を与えた<ref name= robintrilogy/>。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では『大河のうた』は[[金獅子賞]]を受け、サタジットは喝采を浴びた。
*わが映画インドに始まる(第三文明社、1993年6月) - 映画論

*ユニコーンを探して サタジット・レイ小説集(筑摩書房、1993年11月) - 小説
オプー三部作が完成する前に、サタジットは他に2本の映画を製作・公開した。喜劇の『{{仮リンク|賢者の石 (映画)|label=賢者の石|en|Parash Pathar}}』(または『化金石』)と、{{仮リンク|徴税請負地主|en|Parash Pathar}}の退廃を描いた、最も重要な作品のひとつに挙げられる『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』である<ref name="malcolm1">{{cite news|author = Malcolm D|publisher = guardian.co.uk | url=http://www.guardian.co.uk/film/1999/jan/14/derekmalcolmscenturyoffilm.derekmalcolm | title=Satyajit Ray: The Music Room | accessdate=2006-06-19 | location=London | date=1999-03-19}}</ref>。

『大河のうた』制作中、サタジットはこれらを三部作にする構想を持っていなかった。しかし、[[ヴェネツィア]]で質問を受けた際に思い立った<ref>{{Harvnb|Wood|1972|p=61}}</ref>。そして1959年にシリーズを締めくくる『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』を完成させた。評論家の{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}や{{仮リンク|アバルナ・セーン|en|Aparna Sen}}は三部作の最高傑作と評した。サタジットは本作で、お気に入りの俳優{{仮リンク|ショウミットロ・チャテルジー|en|Soumitra Chatterjee}}と{{仮リンク|シャルミラ・タゴール|en|Sharmila Tagore}}を起用した。作品は貧しいオプーがコルカタで生きるところから始まり、やがて不思議な縁でオプルナと結婚する。二人の生活描写は「映画において、結婚生活を肯定的に描いた古典のひとつ」と言われる<ref name="harvnb">{{Harvnb|Wood|1972}}</ref>が、彼らには悲劇が待ち受けていた。本作はベンガル人評論家から批判されたが、それに対しサタジットは映画の弁護を記した。彼は評論家の言うことにほとんど反応しなかったが、本作と後に制作したお気に入りの『チャルラータ』に対する批判には反論した<ref>{{Harvnb|Ray|1993|p=13}}</ref>。

サタジットの映画は成功作となったが、これは何年経っても彼の私生活には影響を与えなかった。妻と子供、母親とおじ、そして親類たちと借家住まいを続けた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=5}}</ref>。
=== 『女神』から『チャルラータ』まで(1959–1964年)===
1959年から1964年にかけて、サタジット・レイは『{{仮リンク|女神 (サタジット・レイの映画)|label=女神|en|Devi (1960 film)}}』のような[[イギリス領インド帝国]]時代を題材にした作品、ドキュメンタリー『詩聖タゴール』、喜劇映画『聖者』、オリジナル脚本で撮影した初の映画『{{仮リンク|カンチェンジュンガ (映画)|label=カンチェンジュンガ|en|Kanchenjungha}}』などを製作した。また、一連の作品において、インド女性の最も深い描写がその中にあるという評論を受けた<ref name="kael1">{{cite web|author = Palopoli S|publisher = metroactive.com | url=http://www.metroactive.com/papers/cruz/10.08.03/apu-0341.html | title=Ghost 'World' |accessdate=2006-06-19}}</ref>。

『大樹のうた』に続いて制作された作品『女神』は、[[ヒンズー教]]社会にはびこる[[迷信]]を考察した映画である。若妻Doyamoyee(シャルミラ・タゴール)が、義父によって[[女神]][[カーリー]]に祭り上げられてしまう筋に、サタジットは検閲局による差し止めや再編集の指示を恐れたが無事上映された。1961年には首相[[ジャワハルラール・ネルー]]から強く要請され、詩人ラヴィンドナート・タゴール生誕100年を記念した『詩聖タゴール』を制作したが、サタジット自身も影響を受けた詩人への捧げ物として本作を仕上げたと思われる。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、彼が言うには普通の映画撮影3本分相当の労力を強いられたという<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=277}}</ref>。

同年、詩人の{{仮リンク|スバーシ・ムコーパデャイ|en|Subhas Mukhopadhyay (poet)}}らと、かつて祖父が出版していた子供向け雑誌「{{仮リンク|サンデシュ|en|Sandesh (magazine)}}」の再刊行を行った。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=189}}</ref>。サンデシュ (Sandesh) とはベンガル語の「ニュース」とよく知られた甘いお菓子の名前の両方の意味を持ち、教育的な部分と面白さの両立を特徴とする方針を立てた。サタジットはイラストと随筆また小説を執筆した。後年、著述業は彼にとって主な収入源となった。

1962年、サタジットは『カンチェンジュンガ』を制作した。これは彼の手による初のオリジナル脚本が使われ、また手がけた初のカラー作品でもあった。映画は、裕福な一家が一幅の絵のような西ベンガルの丘の町[[ダージリング]]で過ごす午後の様子を映す。一家は、一番若い娘をロンドンで学んだ高給取りのエンジニアに嫁がせようとしている。当初サタジットは場面を大邸宅の中にしようと考えたが、後になって高名な丘の町に決めた。緊張した場面を表現するために光がつくる陰影や霧が多用された。彼は照明がどのような状態でも撮影に適応できる脚本を書くことに留意したが、同時にダージリングで宣伝用撮影を行った隊は晴天しか想定していなかったために撮影に失敗した<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=142}}</ref>。60年代にサタジットは[[日本]]を訪問し、尊敬する[[黒澤明]]と会う機会を持った。自国では、彼は消耗しがちな都市生活からしばしば離れ、ダージリンや[[プリー]]のような場所で脚本を仕上げる事もあった。

1964年の『{{仮リンク|チャルラータ|en|Charulata}}』は、この頃の傑作という呼び声が高く、評論家たちからもサタジット最高の映画作品と評された<ref name="robinson">{{Harvnb|Robinson|2003|p=157}}</ref>。ラヴィンドナート・タゴールの短編『{{仮リンク|壊れた巣|en|Nastanirh}}』を基に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの沸きあがる想いを映したこの映画は、サタジットにとってほんの少し欠点を含んだもので、同じ手法を続けるかどうかを考えさせるただひとつの機会となったという<ref name="slant">{{cite web|author = Antani J|publisher = Slant magazine | url=http://www.slantmagazine.com/film/film_review.asp?ID=1080 | title=Charulata| accessdate=2006-06-19}}</ref>。チャルラータを演じた{{仮リンク|マドビ・ムカージ|en|Madhabi Mukherjee}}や、スブラタ・ミットラとボンシ・チャンドログプタの演技も高く評価された。この頃には他に、『{{仮リンク|大都会 (映画)|label=大都会|en|Mahanagar}}』、『三人の娘』、『遠征』、『臆病者と聖者』が制作された。

=== 新たな取り組み(1965–1982年)===
『チャルラータ』以後、サタジットは様々な領域に踏み出し始め、[[ファンタジー]]から[[SF]]、[[推理小説]]映画、[[歴史映画]]などの制作にも進出した。またこの時期、少なからぬ形式上の実験も行った。インド人の生活における現代的な問題を映画の中からは気づく事が出来ないという点に応え、彼はそれら問題を取り上げて表現した。この時期の最初の映画は『{{仮リンク|ナヤック|en|Nayak (1966 film)}}(英雄)』である。ある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描く物語であり、{{仮リンク|ウッタム・クマル|en|Uttam Kumar}}とシャルミラ・タゴールが主演した。映画では、売れっ子と思われる{{仮リンク|二枚目俳優|en|matinée idol}}が抱える内面の葛藤を描き出す。本作は[[ベルリン国際映画祭]]で国際批判家連盟賞を受賞した<ref name="dasgupta">{{Harvnb|Dasgupta|1996|p=91}}</ref>。

1967年サタジットは、1962年に雑誌「サンデシュ」に掲載した短編小説『Bankubabur Bandhu (Banku Babu's Friend)』を下敷きに『{{仮リンク|エイリアン (サタジット・レイ)|label=エイリアン|en|The Alien (film)}}(英雄)』と呼ばれる映画脚本を書いた。インドとアメリカの共同制作が企画されたこの映画には、[[コロンビア映画]]が制作社となり、[[ピーター・セラーズ]]と[[マーロン・ブランド]]が主役に配される事になった。ところが気づくと、脚本の著作権と権料の受け取りはマイク・ウィルソンに帰属されていた。彼は当初、共通の知り合いである[[アーサー・C・クラーク]]を通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となった。ウィルソンは著作権登録を「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で登録していたが、彼が脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした<ref name=unmaderay>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx|title=Ordeals of the Alien|last=Ray|first=Satyajit|work=The Unmade Ray|publisher=Satyajit Ray Society|accessdate=2008-04-21|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080427215538/http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx <!--Added by H3llBot-->|archivedate=2008-04-27}}</ref>。企画はマーロン・ブランドが降板し、代わりに[[ジェームズ・コバーン]]が立てられたが、サタジットは幻滅してコルカタに戻った<ref name=unmaderay/><ref name=IMDbRay>{{cite web|author= Neumann P|publisher=Internet Movie Database Inc|url=http://www.imdb.com/name/nm0006249/bio|title=Biography for Satyajit Ray|accessdate=2006-04-29}}</ref>。コロンビア映画は1970年代や1980年代に企画を復活させようとしたが実現しなかった。1980年に、映画雑誌[[:en:Sight & Sound|Sight & Sound]]上でサタジットはアメリカでの共同制作が潰えたことについて話している。1982年に[[E.T.]]が公開されると、クラークとサタジットは『エイリアン』初期の脚本との類似性を見つけた。事の顛末はサタジットの伝記を書いた{{仮リンク|W・アンドリュー・ロビンソン|en|W. Andrew Robinson}}の『The Inner Eye』(1989年)に詳しい。サタジットは彼が書いた脚本の写し無しにアメリカで[[スティーヴン・スピルバーグ]]が映画を制作できたとは信じていないが、スピルバーグはこの非難を否定している<ref name=UCSCcurrents>{{cite news|author=Newman J|url=http://www.ucsc.edu/currents/01-02/09-17/ray.html|title=Satyajit Ray Collection receives Packard grant and lecture endowment|publisher=UC Santa Cruz Currents online|date=2001-09-17|accessdate=2006-04-29}}</ref>。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら陽の目を見なかった企画には、古代インド[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』や、[[E・M・フォースター]]1924年の小説『[[インドへの道]]』がある<ref>{{cite web|title= Book review: ''Satyajit Ray'' by Surabhi Banerjee|author=C. J. Wallia|year=1996|publisher=''India Star''|url=http://www.indiastar.com/satyajitray.html|accessdate=2009-05-31}}</ref>。

1969年、サタジットは商業的に最も成功した映画作品を発表した。彼の祖父が書いた子供向け短編小説『{{仮リンク|グビとバガの冒険|en|Goopy Gyne Bagha Byne}}』を基にした[[ミュージカル]]兼[[ファンタジー]]映画である。歌手のグビと太鼓を叩くバガの二人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、奇妙な冒険をする。そして、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるため奔走する。サタジットが手がけた高い制作費をかけた事業の中でも、この映画は財政的に困難を来たした。そのためカラーでの制作をあきらめたが、[[ボリウッド]]の俳優から主役を条件に届いたオファーは拒絶した<ref>{{Harvnb|Seton|1971|pp=291–297}}</ref>。

サタジットは、若き詩人かつ作家の{{仮リンク|シュニル・ゴンゴパッダエ|en|Sunil Gangopadhyay}}が書いた小説の映画化に取り組み、『チャルラータ』を超える複雑さを持つと賞賛される音楽を主題とした作品<ref name="Wood 1972 13">{{Harvnb|Wood|1972|p=13}}</ref>『{{仮リンク|森の中の昼と夜|en|Aranyer Din Ratri}}』を制作した。日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性との関わりを持つようになる筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材ともなっている。ロビン・ウッドは「(映画の)ひとつのシーケンスだけも...小論文の題材になるだろう」と述べた<ref name="Wood 1972 13"/>。

次にサタジットは、現代ベンガル人の生活を題材とした。これは{{仮リンク|コルカタ三部作|en|Calcutta trilogy}}と呼ばれる『{{仮リンク|対抗者|en|Pratidwandi}}』(1970年)、『{{仮リンク|株式会社 (映画)|label=株式会社|en|Seemabaddha}}』(1971年)『[[ミドルマン]]』(1975年)である。この3作品はそれぞれ独立に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ<ref name=caltri>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=200–220}}</ref>。『対抗者』は、卒業したての理想主義の青年を描き、映画の終わりで幻滅の感情を持つことで、彼がまだ腐りきっていない事を示した。『ミドルマン』は、生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。そして『株式会社』では、利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマンを描いた。『対抗者』でサタジットは新たに、詳細な説明を大胆に省略する手法を用いた<ref name=caltri/>。1970年代には、好評を博していた探偵シリーズから、子供を主にターゲットとした『{{仮リンク|黄金の砦|en|Sonar Kella}}』と『{{仮リンク|象神万歳|en|Joy Baba Felunath}}』を映画化した<ref>{{Harvnb|Rushdie|1992}}</ref>。

一時サタジットは[[バングラデシュ独立戦争]]を舞台とする映画を構想したが、結果的に彼はこれをやめた。後に彼は、映画制作者として受難者を描くことに情熱を感じても、政治には関心が持てないと言った<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=206}}</ref>。1977年、サタジットは『{{仮リンク|チェスをする人|en|Shatranj Ke Khiladi}}』を制作した。原作は[[ムンシー・プレームチャンド]]の小説で、[[インド大反乱]]前のウード{{enlink|Oudh}}州[[ラクナウ]]を舞台としている。イギリス人によるインド植民地支配に関わる問題を取り上げた本作は、ベンガル語以外で撮影されたサタジット初の作品であり、また最も費用がかけられた。本作には{{仮リンク|サンジーヴ・クマール|en|Sanjeev Kumar (actor)}}、{{仮リンク|サイード・ジャフリー|en|Saeed Jaffrey}}、{{仮リンク|アムジャド・カーン|en|Amjad Khan}}、[[シャバーナー・アーズミー]]、{{仮リンク|ヴィクター・バナルジ|en|Victor Bannerjee}}、[[リチャード・アッテンボロー]]らが出演した。

1980年には『グビとバガの冒険』の続編にあたり、やや政治色を帯びた『{{仮リンク|ダイヤモンドの王国|en|Hirak Rajar Deshe}}』が上映された。邪悪なるダイヤモンド王国の王 Hirok Raj は、[[インディラ・ガンディー]]による{{仮リンク|インドの非常事態令 (1975-77)|en|Indian Emergency (1975 - 77)}}を暗示している<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=188–189}}</ref>。称賛された短編映画『{{仮リンク|ピクー|en|Pikoor Diary}}』と、一時間の[[ヒンディー語]]映画『遠い道』もこの頃の作品である。

=== シッキムのドキュメント ===
1971年、サタジットは王室が制作する[[シッキム州#シッキム王国|シッキム王国]]の[[ドキュメント]]映像を監督した。この映像は長くインド政府によって発禁処分を受けていたが、2010年に禁が解けてDVDは発売された。これは、土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていない<ref> {{cite web|url= http://mungpoonews.blogspot.in/2012/01/sikkim-film-by-satyajit-ray-sikkim-not.html|title=
Sikkim: film by Satyajit Ray | Sikkim not controversial: Gautam|publisher=Mungpoo New|accessdate= November 18,2012}}</ref>。

=== 晩年 ===
1983年、『{{仮リンク|家と世界|en|Ghare Baire (film)}}』製作中にサタジットは心臓発作を起こした。これが原因となり、その後亡くなるまでの9年間、彼の制作活動は非常に制限されてしまった。『家と世界』は、健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。本作は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=66–67}}</ref>。病気のため細切れの印象を免れないが、映画は大きな称賛を浴びた。この中で、サタジットの映画としては初のキスシーンがあった。1987年には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『{{仮リンク|シュクマル・レイ (映画)|label=シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray (film)}}』を制作した。

サタジット晩年の3作は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、そのために独特の効果を持っている。以前よりも対話シーンが多く、そのために過去の作品には及ばないという意見もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=339–364}}</ref>。『{{仮リンク|民衆の敵 (1990年の映画)|label=民衆の敵|en|Ganashatru}}』は著名な戯曲『[[民衆の敵 (戯曲)|民衆の敵]]』の映画化であり、この頃サタジットの健康状態は悪かったと考えられる<ref>{{Harvnb|Dasgupta|1996|p=134}}</ref>。しかしその後回復を見せ、1990年には『{{仮リンク|枝わかれ|en|Shakha Proshakha}}』が制作された<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=353}}</ref>。本作は、実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るところとなる筋である。最後の場面で老人は、唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる。そしてサタジット最後の作品となった『[[見知らぬ人 (映画)|見知らぬ人]]』は、より軽いムードながら深いテーマを扱ったもので、長らく行方不明になっていた叔父がコルカタの姪を訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を映す。本作は、文明に対する遠大な質問を投げかけている<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=353–364}}</ref>。1992年、サタジットは心合併症から来る健康状態の悪化を示し、彼は入院したが回復は叶わなかった。彼にアカデミー賞特別名誉賞が授与されたが、これを病床で受けたサタジットに残された時間は数週間に過ぎなかった。1992年4月23日、サタジット・レイは70歳で世を去った。

== 映画制作 ==
サタジット・レイは制作において脚本執筆が重要だと考えていた。当初彼はベンガル語で脚本を書くことにこだわったが、後に2作品の脚本を英語で書いている。翻訳者によってヒンズー語やアルドゥー語に訳して使われたが、サタジットはこの作業も監督した。サタジットの詳細まで至る目配せは、ディレクターのボンシ・チャンドログプタも同調していた。重要な役割を果たすベンガル人でないチャンドログプタのために、サタジットはベンガル語の前に英語で脚本を書いた。スブラタ・ミットラの撮影技術は、サタジットの映画に賞賛が集まる大きな役割を果たした。多くの評論家は、彼が去ったため、後の映画は撮影の質に低下が見られると述べた<ref name="dasgupta"/>。ミットラを手放しで賞賛しつつも、サタジットは一本気な人物で『チャルラータ』以後はカメラ操作を奪ってしまったため、1966年以後ミットラは供に仕事をしなくなった。ミットラは「バウンズ光」という、照明光を布に当てて反射させ、セットなどを散乱した現実的な光で照らすテクニックを開発した。サタジットは、彼の[[ヌーヴェルヴァーグ]]派の[[ジャン=リュック・ゴダール]]や[[フランソワ・トリュフォー]]に対する負債を肩代わりし、新しい技術の導入や映画への革新を手助けした<ref name=abhijitsen>{{cite web|author = Sen A|publisher = Parabaas | url=http://www.parabaas.com/satyajit/articles/pAbhijit.html | title=Western Influences on Satyajit Ray | accessdate=2006-04-29}}</ref>。

サタジットの作品は通常、{{仮リンク|ドゥラル・ドット|en|Dulal Datta}}が[[映像編集]]を担当した。しかし、実際の編集作業はドットよりも監督のサタジットが多くを担った。それは、経済的理由に加えサタジットの綿密な構想があり、『大地のうた』は別として、カメラ撮影そのものでカットが施されたためである。サタジットは当初、[[ラヴィ・シャンカル]]、{{仮リンク|ウスタッド・ヴィラヤット・カーン|en|Vilayat Khan}}、{{仮リンク|アリ・アクバル・カーン|en|Ali Akbar Khan}}ら[[インドの伝統音楽]]家らを起用したが、やがて彼らの音楽はその伝統に忠実なあまり彼の映画に馴染まないと気づいた。彼は西洋の[[クラシック音楽]]に深い造詣を持っており、都市周辺での場面ではこれらを用いた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=315–318}}</ref>。 『三人の娘』からは、サタジットは作曲も手がけた。

サタジットは、有名な映画スターから『大河のうた』のように全く無名な役者まで、さまざまな俳優を起用した<ref>{{Harvnb|Ray|1994|p=100}}</ref>。{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}ら評論家の中には、サタジットは子供を演出させたら右に出る者はいないと評し、その例として「オプー」や『大地のうた』のドルガ、『郵便局長』のラタン、『黄金の城砦』のムクルなどが挙げられた。サタジットは俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変え、例えば[[ウタパル・ダット]]のような人物にはほとんど指図をせず、逆に少年オプーを演じたシュビル・ボンドバッタエやアパルマ役のシャルミラー・タゴールなど俳優によっては「操り人形」のように扱った事もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=78}}</ref>。サタジットの映画に出演した俳優たちは、彼が変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で「すごい侮辱」を持って無能がごとく扱われた事についても述べている<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=307}}</ref>

== 文学作品 ==
サイエンス・フィクションにおいても著名な作者であったサタジットは子供向けベンガル文学において非常に有名になった2人の登場人物を創作した。[[探偵]]の{{仮リンク|フェルダー|en|Feluda}}と[[科学者]]の{{仮リンク|プロフェッサー・ションク|en|Professor Shonku}}である。フェルダーシリーズは。丁度[[シャーロック・ホームズ]]に対する[[ジョン・H・ワトソン]]の役どころを担う彼のいとこに当るトペシュの語りで展開する。プロフェッサー・ションクのSFは、謎めいた失踪をした科学者が残した日記の形式で物語が進む。また、[[ルイス・キャロル]]著『[[ジャバウォックの詩]]』の翻訳を含む{{仮リンク|ノンセンスバース|en|nonsense verse}}『[[:en:Today Bandha Ghorar Dim|Today Bandha Ghorar Dim]]』や、ベンガル語で[[ナスレッディン・ホジャ]]を主人公にした小話も書いている。

サタジットが書き纏めて出版された12の大人向け[[短編小説]]は、その各タイトルが例えば (''Aker pitthe dui'' - "Two on top of one") のような12に紐づいたものになっていた。これは彼の[[パズル]]と駄洒落好きが反映したものだった。これら短編小説は、映画ではあえて避けていた猟奇性や緊張感といったものに彼が関心を寄せていたことを示し、心理学への興味を喚起させるものになっている<ref name="nandy">{{Harvnb|Nandy|1995}}</ref>。サタジットの著作の大部分は英訳され、あらたな読者を獲得し続けている。

ほとんどの映画脚本は雑誌『Eksan』上で、ベンガル語にて発表された。1982年には幼少期の自伝『[[:en:Jakhan Choto Chilam|Jakhan Choto Chilam]]』を出版した。

彼はまた映画の批評も書き、これらは『[[:en:Our Films, Their Films|Our Films, Their Films]]』(1976年)、『[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]』(1976年)、『[[:en:Ekei Bole Shooting|Ekei Bole Shooting]]』(1979年)に纏められた。1990年代中頃には、サタジットの映画についてのエッセーや短編は西洋にて英語で出版された。『Our Films, Their Films』は彼による映画評論のアンソロジーであるが、この中には記事の他に個人的な話しの抜粋が含まれている。この本は、最初は彼がハリウッドに注目する前の[[インドの映画]]について論じ、さらに特定の映画制作者([[チャーリー・チャップリン]]や黒澤明)と[[ネオレアリズモ]]などの活動に触れる。彼の書籍『[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]』は2006年に『Speaking of Films』のタイトルで翻訳出版された。これは、映画に関する様々な哲学を簡潔に述べたものである。

== カリグラファー ==
サタジット・レイは[[カリグラフィー]]も行い、[[ローマン体]]の4つの[[書体]]をデザインした。いかなるベンガル文字とも異なるこれらはレイ・ローマン (Ray Roman) 、レイ・ビザール (Ray Bizarre) 、ダフニス (Daphnis) 、ホリディスクリプト (Holiday Script) と呼ばれ、雑誌「サンデシュ」用に作られた<ref name=show>{{cite news|url=http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/|title= The Ray show goes on|last=Datta|first=Sudipta| date=19 January 2008|accessdate=2008-04-10|work=The Financial Express|publisher= Indian Express Newspapers (Mumbai) Ltd}}</ref>。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザール は1971年の国際コンペティションを勝ち取った<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=57}}</ref>。またコルカタでは彼を、自作映画向けの著名なグラフィックデザイナーと見る向きもある。映画広告の制作だけでなく、彼は出版した本やそのカバーも手がけた。それゆえ、[[ベンガル文字]]に施されたサタジットの芸術もポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる。彼は自著にとどまらず、他の作家の本も表紙デザインを手がけた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=57–59}}</ref>。

いわゆる古臭く田舎的な芸術分野は、サタジットのベンガル[[書記素]]表現の前では霞んでしまう。ベンガル文字における3層からなるエックスハイト(基本文字の高さ)は楽譜や輪郭のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間には曲線が使われ、{{仮リンク|アルポナ|en|alpana}}(ベンガル伝統の文様)が続く。また、書記素を変容させて「[[アルケー]]文字」とも呼べるような生物や物を形づくった、ベンガル文字への建設的な働きかけもサタジットの特徴である<ref>{{cite web|url=http://ssrn.com/abstract=2027105 |title=Chobi Lekhen Sottojit (Satyajit Ray Writes Paintings) |publisher=Ssrn.com |date= |accessdate=2012-11-04}}</ref>。

== 評価 ==
サタジットの作品は[[ヒューマニズム]]と普遍性に溢れ、一見単純ながら内に深く根底的な複雑さを秘めている<ref name="malcolm2">{{cite news|author = Malcolm D
|publisher = guardian.co.uk | url=http://www.guardian.co.uk/culture/2002/may/02/artsfeatures1 | title=The universe in his backyard| accessdate=2007-02-15 | location=London | date=2002-05-02}}</ref><ref name="sragrow">{{cite web|author = Michael Sragow|publisher = The Atlantic Monthly | url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html | title=An Art Wedded to Truth | accessdate=2007-02-15}}</ref>。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた<ref name=Robinson-96>{{Harvnb|Robinson|2003|p=96}}</ref>。一方で、批判者からは展開の遅さを「荘厳なカタツムリ」と揶揄された<ref name="robinson"/>。[[ジャン=リュック・ゴダール]]など同時代人の中には、サタジットに純粋なヒューマニズムや現代的なものを否定する側面を見出し、新しい流行や表現また実験的な要素に欠くという批判を行う者もいた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=306–318}}</ref>。{{仮リンク|スタンレー・カウフマン|en|Stanley Kauffman}}が書いたように、評論家の中には「(サタジットは鑑賞者に)登場人物に課した波乱に満ちた人生を見せるよりも、映画で単純に示された登場人物そのものの存在に魅かれるよう意図する」と考えている者もいる<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=352–353}}</ref>。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤彰は遅いとは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=314–315}}</ref>。

時にサタジットは、他分野の芸術家とも比べられた。例えば[[アントン・チェーホフ]]、[[ジャン・ルノワール]]、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、[[ハワード・ホーク]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]などである。作家の[[V・S・ナイポール]]は、『チェスをする人』の場面を[[ウィリアム・シェークスピア]]の劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!‐ものすごい」と評した<ref>{{cite news|author = Ebert R|publisher = suntimes.com | url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19990117/REVIEWS08/401010342/1023 | title=The Music Room (1958) | accessdate=2006-04-29}}</ref><ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=246}}</ref>。サタジットの映画にある[[美学]]を好まない批評家でさえ、彼の映画には微妙なニュアンスすべての中で、文化全体を包括する能力が発揮されていると認めている。[[インデペンデント]]紙が掲載したサタジットの死亡記事にある「誰を彼と並べることができるか?」という文句に、この評が込められている<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=13–14}}</ref>。

政治的イデオロギーはサタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代、サタジットは[[マルクス主義]]者の映画制作者{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}と公開で議論を重ねたが、センはサタジットに対してウッタム・クマルのような二枚目俳優を起用する事を非難し、それは妥協だと述べた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=177}}</ref>。一方のサタジットは、センがベンガル中産階級のような「安易なターゲット」を攻撃していると述べた。共産主義信奉者の中には、サタジットが国内の虐げられた層が生まれる原因を描き出していないと述べ、中には『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい映画の中で貧困を賛美していると訴える者もいた。物語の中には問題を解決するための闘争が描かれておらず、サタジットが持つ[[ブルジョワジー]]的経歴を乗り越えられなかったものと主張した。1970年代に{{仮リンク|ナクサライト|en|naxalite}}(インドの武装革命至上主義)運動が盛んな頃、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=205}}</ref>。1980年代初頭には、インドの[[国会議員]]で元女優の{{仮リンク|ナルギス・ダット|en|Nargis Dutt}}が、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品をつくるべきだと述べた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=327–328}}</ref>。

== 影響 ==
サタジット・レイは世界中に広く知られたインドそしてベンガルの文化的象徴である<ref name=HinduIcon>{{cite news|url=http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm|title= Returning to the classics of Ray|last=Tankha|first=Madhur|date=1 December 2007|accessdate=2008-05-01|work=The Hindu|location=Chennai, India}}</ref>。彼の死に、コルカタ市街は悲しみに暮れ、数百数千もの人々が彼の家に集まって別れを惜しんだ<ref>{{cite web|author = Amitav Ghosh|publisher = Doom Online|url = http://www.dosco.org/pages/info_features/features_spotlights/spotlights/aghosh/ray.htm|title=Satyajit Ray| accessdate=2006-06-19}}</ref>。彼は{{仮リンク|ベンガルの映画|en|Cinema of Bengal}}や、インドでは{{仮リンク|アパルナ・セーン|en|Aparna Sen}}、{{仮リンク|リトゥポルノ・ゴーシュ|en|Rituparno Ghosh}}、{{仮リンク|ゴータム・ゴース|en|Gautam Ghose}}、バングラデシュでは{{仮リンク|タレク・マスード|en|Tareq Masud}}や{{仮リンク|タンビール・モカメル|en|Tanvir Mokammel}}、イギリスでは{{仮リンク|アニール・アーマッド|en|Aneel Ahmad}}などのベンガル系映画監督に広く深い影響を与えた。広範囲な活動はインド映画の発展に貢献したと、{{仮リンク|ブッダーデブ・ダスグブタ|en|Budhdhadeb Dasgupta}}や{{仮リンク|ミリナル・セン|en|Mrinal Sen}}<ref>{{cite web|author = Mrinal Sen|publisher = Little Magazine | url=http://www.littlemag.com/2000/mrinal.htm | title=Our lives, their lives | accessdate=2006-06-29}}</ref>また{{仮リンク|アドゥール・ゴーバーラクシュナン|en|Adoor Gopalakrishnan}}らは評している。インド以外にも、サタジットの映画スタイルは黒澤明らとともに、[[マーティン・スコセッシ]]<ref>{{cite web|author = Chris Ingui|publisher = Hatchet |url=http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml | title=Martin Scorsese hits DC, hangs with the Hachet | accessdate=2009-06-06}}</ref><ref>{{cite web|title=Raging Bull: A film review|author=Jay Antani|year=2004|publisher=Filmcritic.com|url=http://www.filmcritic.com/misc/emporium.nsf/reviews/Raging-Bull|accessdate=2009-05-04}}</ref>、[[ジェームズ・アイヴォリー]]<ref>{{cite web|author = Sheldon Hall|publisher = Screen Online | url=http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html | title=Ivory, James (1928-) | accessdate=2007-02-12}}</ref>、[[カルロス・サウラ]]<ref>{{cite web|title=Satyajit Ray is this Spanish director's inspiration|author=Suchetana Ray|publisher=CNN-IBN|date=11 March 2008|url=http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html|accessdate=2009-06-06}}</ref>、[[高畑勲]]<ref>{{cite web|author=Daniel Thomas|title=Film Reviews: Grave of the Fireflies (Hotaru no Haka)|date=20 January 2003|url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|accessdate=2009-05-30}}</ref>[[ダニー・ボイル]]<ref name=Jivani>{{cite web |author=Alkarim Jivani |title=Mumbai rising |work=Sight & Sound |date=February 2009 |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |accessdate=2009-02-01}}</ref>ら他の映画制作者に大きな影響を与えた<ref name=Robinson-96/>。[[グレゴリー・ナヴァ]]1995年の映画『{{仮リンク|ミ・ファミリア|en|My Family (film)}}』では、ラストシーンで『大樹のうた』を再現した。{{仮リンク|アイラ・サックス|en|Ira Sachs}}2005年の映画『[[:en:Forty Shades of Blue|Forty Shades of Blue]]』は『チャルラータ』からインスピレーションを受けて制作された。他にも、『[[:en:Sacred Evil|Sacred Evil]]』,<ref>{{cite news|author = SK Jha|publisher = Telegraph India | url=http://www.telegraphindia.com/1060609/asp/etc/story_6319302.asp | title=Sacred Ray | accessdate=2006-06-29 | location=Calcutta, India | date=2006-06-09}}</ref>や[[ディーパ・メータ]]の「{{仮リンク|エレメント三部作|en|Elements trilogy}}」、[[ジャン=リュック・ゴダール]]の作品にも<ref>{{cite web|author = André Habib|publisher = Senses of Cinema | url=http://archive.sensesofcinema.com/contents/01/16/godard_habib.html | title=Before and After: Origins and Death in the Work of Jean-Luc Godard | accessdate=2006-06-29|archiveurl = http://web.archive.org/web/20060614150838/http://www.sensesofcinema.com/contents/01/16/godard_habib.html <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 2006-06-14}}</ref>サタジットの要素が含まれる。マイケル・スラゴーは「[[:en:The Atlantic|The Atlantic]]」誌にて、「1950年代中頃から若者が成人となるドラマが劇場に溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きい」と述べた<ref>{{Cite journal|title=An Art Wedded to Truth|first=Michael|last=Sragow|year=1994|journal=The Atlantic|publisher=University of California, Santa Cruz|url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html|accessdate=2009-05-11|ref=harv}}</ref>。またこの3部作はバウンス光の技術を導入した<ref>{{cite web|title=Subrata Mitra|publisher=Internet Encyclopedia of Cinematographers|url=http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|accessdate=2009-05-22}}</ref>。1962年の『カンチェンジュンガ』は後に{{仮リンク|ハイパーリンク映画|en|hyperlink cinema}}と呼ばれる技法の先駆的存在であり<ref>{{cite web|title=An Interview with Satyajit Ray|year=1982|url=http://raylifeandwork.blogspot.com/2009/02/interview-with-satyajit-ray.html|accessdate=2009-05-24}}</ref>、1970年の『対抗者』は[[ネガフィルム]]のフラッシュバックや[[X線]]技術を用いた初期の作品である<ref>{{cite web|title=First Light: Satyajit Ray From the Apu Trilogy to the Calcutta Trilogy|author=Nick Pinkerton|date=April 14, 2009|publisher=''The Village Voice''|url=http://www.villagevoice.com/2009-04-15/film/first-light-satyajit-ray-from-the-apu-trilogy-to-the-calcutta-trilogy|accessdate=2009-07-09}}</ref>。サタジットはマドビ・ムカージとともに、インド人の映画関係者としては初めて外国([[ドミニカ]])発行の[[切手]]図案に姿が使われた。

[[ソール・ベロー]]の『{{仮リンク|ハーツォグ|en|Herzog (novel)}}』、[[J・M・クッツェー]]の『[[:en:Youth: Scenes from Provincial Life II|Youth]]』などの文学作品にも、サタジットから受けた影響がある。[[サルマン・ラシュディ]]の『{{仮リンク|ハルーンとお話の海|en|Haroun and the Sea of Stories}}』にはグビとバガという名の魚が登場する。1993年、[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]]は「サタジット・レイ映画研究所」を設け、1995年にはインド政府によって「サタジット・レイ映画テレビ研究所」が設立された。2007年、[[BBC]]は探偵フェルダーのラジオドラマを2作放送した<ref>{{cite web|author = Datta S|publisher = Financial Express | url=http://www.financialexpress.com/old/fe_archive_full_story.php?content_id=152924 | title= Feluda goes global, via radio | accessdate=2007-02-12}}</ref>。[[ロンドン映画祭]]にて、初監督作品の中で最も「芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える」作品にはサタジット・レイ賞が贈られる。[[ウェス・アンダーソン]]はサタジットから影響を受けたと語り、インドで撮影された2007年の作品『[[ダージリン急行]]』を彼に捧げた。

== 受賞 ==
サタジット・レイは32のインド映画賞のみならず国際的な賞も多数受賞した。[[ベルリン映画祭]]では、[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞]]を2度以上受けた3人の監督の1人であり<ref>{{cite web|title=Silver Bear winners (directors)|publisher=listal|date=24 November 2008|url=http://www.listal.com/list/silver-bear-winners|accessdate=2009-04-19}}</ref>、[[金熊賞]]ノミネートは最多の7度を誇る。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、1956年に『大河のうた』で[[金獅子賞]]を受賞し、1982年には金獅子名誉賞 (Golden Lion Honorary Award) が贈られた<ref>{{cite web|title=Awards for Satyajit Ray|publisher=Internet Movie Database|url=http://www.imdb.com/name/nm0006249/awards|accessdate=2009-04-19}}</ref>。同年、[[第35回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]にて"Hommage à Satyajit Ray" 賞が与えられた<ref>{{cite web|title=Personal Awards|publisher=Satyajit Ray official site|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|accessdate=2009-04-19}}</ref>。

サタジット・レイは、[[チャールズ・チャップリン]]に続き[[オックスフォード大学]]から[[名誉博士号]]を授けられた2人目の映画関係者である<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=1}}</ref>。1985年にはインドの{{仮リンク|ダダサヘブ・ファルケ賞|en|Dadasaheb Phalke Award}}、1987年には[[フランス]]の[[レジオンドヌール勲章]]を授けられた<ref name=awards>{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|title=Personal Awards|work=Awards|publisher=satyajitray.org|accessdate=2008-04-09}}</ref>。またインド政府からは、死の直前に{{仮リンク|バーラトラトナ|en|Bharat Ratna}}が贈与された<ref name=awards/>。1992年に[[映画芸術科学アカデミー]]は生涯で成し得た偉業を讃え[[アカデミー賞]]([[アカデミー名誉賞|名誉賞]])を授与した。プレゼンテーターはコルカタを訪問していたサタジットお気に入りの女優[[オードリー・ヘップバーン]]が行った。サタジットは病気のため式には出席できず、受賞スピーチを自宅から生放送で伝えた。死後の1992年、[[サンフランシスコ国際映画祭]]で黒澤明賞が授与され、シャルミラー・タゴールが代理となり受理した<ref>{{cite web|url= http://history.sffs.org/awards_tributes/search.php?search_by=6&searchfield=Satyajit+Ray|title=Awards and Tributes: Satyajit Ray|work=San Francisco International Film Festival: The First to Fifty|publisher=San Francisco Film Society|accessdate=2008-04-08}}</ref>。

1992年、イギリスの[[:en:Sight & Sound|Sight & Sound]]誌は、すべての時代における映画監督ベスト10の7くらいにサタジットを挙げ、アジア人としては最高位を与えた<ref>{{cite web|title=Sight and Sound Poll 1992: Critics|publisher=California Institute of Technology|url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html|accessdate=2009-05-29}}</ref>。同誌2002年のランキングでは、サタジットは22位<ref name="Lee"/>、アジアでは4位となっている<ref name=Lee>{{cite web|title=A Slanted Canon|author=Kevin Lee|publisher=Asian American Film Commentary|date=2002-09-05|url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|accessdate=2009-04-24}}</ref>。1996年、[[エンターテインメント・ウィークリー]]誌は「50人の偉大な映画監督」リストでサタジットを25位にランクした<ref>{{cite web|title=Greatest Film Directors and Their Best Films|publisher=Filmsite.org|url=http://www.filmsite.org/directors5.html|accessdate=2009-04-19}}</ref>。2007年、[[:en:Total Film|Total Film]]誌は「100人の偉大な映画監督」に彼を載せた<ref>{{cite web|title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine|publisher=Filmsite.org|url=http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html|accessdate=2009-04-19}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|colwidth=30em}}

== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Cite book|editor = Biswas, M|year = 2006|title = Apu and after: Revisiting Ray's cinema|publisher = Seagull Books|isbn = 978-1-905422-25-8|ref = harv}}.
* {{Cite book|last1 = Cooper|given1 = D|year = 2000|title = The Cinema of Satyajit Ray: Between Tradition and Modernity|url = http://assets.cambridge.org/052162/0260/sample/0521620260WSN01.pdf|publisher = Cambridge University Press|isbn = 0-521-62980-2|ref = harv}}.
* {{Cite book|last1 = Dasgupta|given1 = C|year = 1996|title = The cinema of Satyajit Ray|publisher = Penguin India|isbn = 0-14-024780-7|ref = harv}}.
* {{Cite book|last1 = Ganguly|given1 = S|year = 2001|title = Satyajit Ray: In search of the modern|publisher = Indialog|isbn = 81-87981-04-0|ref = harv}}.
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{{Refend}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
82行目: 169行目:
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2032.html IVC 淀川長治解説ページ『大河のうた』 ]
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2032.html IVC 淀川長治解説ページ『大河のうた』 ]
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2033.html IVC 淀川長治解説ページ『大樹のうた』 ]
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2033.html IVC 淀川長治解説ページ『大樹のうた』 ]



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2012年12月25日 (火) 07:11時点における版

サタジット・レイ
サタジット・レイ
肖像画
生年月日 (1921-05-02) 1921年5月2日
没年月日 (1992-04-23) 1992年4月23日(70歳没)
出生地 コルカタ
国籍 インドの旗 インド
職業 映画監督、制作、脚本、作家、音楽監督、カリグラファー、詩人。
配偶者 ビジョヤ・レイ
 
受賞
アカデミー賞
1992年 名誉賞
その他の賞
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サタジット・レイベンガル語:সত্যজিৎ রায়, ヒンディー語:सत्यजीत राय, 英語:Satyajit Ray, 1921年5月2日 - 1992年4月23日)はインド映像作家。彼は映画界における巨匠の一人に挙げられる。映画制作以外にも、築き上げた彼独特の文体で執筆された小説や、カリグラフィーなど広告媒体の制作でも知られる。

サタジットはコルカタ市の、世界的に有名なベンガル人芸術文学一家に生まれた。彼の経歴は広告媒体の制作から始まり、ロンドン滞在時にフランス人映像作家のジャン・ルノワールと出逢い、またイタリア人ネオリアリズムヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』を見たことから、自主映画の製作に身を投じた。

サタジットが制作した映画はドキュメンタリー短編映画も含めて37本ある。彼はまたフィクションの作家、出版者、イラストレーター、グラフィックデザイナー、そして映画評論も行った。1955年に公開されたレイ初の映画『大地のうた』は、国際的な賞を11個授かり、その中にはカンヌ映画祭のBest Human Documentaryもある。この作品と、1956年の『大河のうた』、1959年の『大樹のうた』の3作は「オプー三部作英語版」と呼ばれる。

サタジットは脚本キャスティング映画音楽、編集から、制作した映画のクレジット・タイトルや広告のデザインまでも手がけた。彼は生涯において、インドの第32回ナショナル・フィルム・アワードや国際的な映画祭や式典でのものを含む数々の賞を受け、1992年にはアカデミー名誉賞を授かった。同年、インド政府はレイにバーナトラトナ賞英語版を贈呈した。

生涯

生誕と家族

サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる[1]。祖父(Upendrakishore Ray)は作家、イラストレーターであり出版も行い、また哲学者そしてアマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動ブラフモ・サマージの指導者でもあった。新聞U. Ray and Sonsの創刊も行い、これがサタジットに批判的精神の根底部分を形づくる要因となった。父シュクマル・レイ英語版ベンガル語で書かれたノンセンスバース英語版や児童文学の嚆矢であり、またイラスト制作や批判活動も行っていた。サタジットは、シュクマルと母スプラバの間に生まれた。

サタジットがわずか3歳の時に父シュクマルが亡くなり、一家はスプラバのわずかな収入で生きなければならなくなった。彼はコルカタのバーリグンジ政府高校英語版で学び、コルカタ大学管区カレッジ英語版で経済学の学士(オーナーズ)を修めた。しかし既に彼の興味はいつもファインアートに向けられていた。1940年、母親はラビンドラナート・タゴールが設立したシャンティニケトン英語版タゴール国際大学へ進学するよう求めた。しかしコルカタに愛着を持つサタジットは、シャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気でなかった[2]。しかし母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって、納得して進学した。シャンティニケトンでサタジットは東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家であるノンドラル・ボーズ英語版[3]ビノード・ビハーリー・ムカルジー英語版からたくさんの事を学んだ。後に、サタジットはムカルジーのドキュメント映画『The Inner Eye』を制作した。また彼はアジャンター石窟群エローラ石窟群エレファンタ石窟群を訪れ、そのインド芸術から大きな刺激を受けた [4]

1943年、サタジットはイギリス人が経営する広告会社D.J. Keymer に就職し、下級映像制作者 (junior visualiser) として月80ルピーの給料を得た。彼はグラフィックデザインを好み制作を上手くこなしていた。しかし、そこにはイギリスとインドの従業員間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらに「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた[5]。後に、サタジットはD. K. Guptaが新たに設立した印刷会社シグネット・プレス英語版の仕事にも関わり始めた。ここで彼は出版される書籍のカバーデザインを、好きなように任せられた。ここで、Jibanananda Dasの『Banalata Sen』と『Rupasi Bangla』、ジム・コーベット英語版の『Maneaters of Kumaon』、ジャワハルラール・ネルーの『インドの発見英語版』など多くの本のカバーを制作した。また、ビフティブシャーン・バナールジ英語版が著したベンガル語の古典的小説『大地のうた (Pather Panchali) 』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』(The mango-seed whistle)の表紙や挿絵も手がけた。そしてこの仕事から、サタジットは大きな影響を受けた。彼は初の制作映画にこの作品を選び、その革新的な映像のいくつかの場面でこの挿絵を用いた[6]

1947年サタジットは、チダナンダ・ダスグプタ英語版らと共同でコルカタ映画組合Calcutta Film Societyを設立した。彼らは数多い外国映画を上映し、サタジットはこれらを視聴し真剣に学んだ。第二次世界大戦中には友人となった駐コルカタアメリカ陸軍の軍人から上映される最新のアメリカ映画情報を仕入れた。また、知り合いになったイギリス空軍のノーマン・クレールからは、映画だけでなくチェスや西洋クラシック音楽をともに楽しむようになった[7]

1949年、サタジットは長い交際期間を経て、いとこのビジョヤ・ダス英語版と結婚した[8]。夫婦は後に映画監督となる息子サンディープ・レイ英語版を得た。この年、フランス人映画監督ジャン・ルノワールが、『』の撮影のためにコルカタを訪れた。サタジットは彼を補佐して郊外に撮影に適した場所を見つけた。彼はルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました[9]。1950年、D.J. Keymer社はサタジットにロンドン本社勤務を命じ、当地に留まった3ヶ月の間に彼は99本の映画を鑑賞した。この中にはイタリアネオリアリズムのヴィットリオ・デ・シーカが制作した『自転車泥棒』(1948年)があり、彼は強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、劇場を出たサタジットは映画制作者になる決心をしたという[10]

オプー三部作(1950-1959年)

サタジット・レイは古典的なベンガル文学の教養小説『大地のうた』(1928年)を原作に、初めての映画制作にとりかかる事を決めた。これは、ベンガルの村で育った小さな少年オプーの半生を記す、作者の自伝的小説である。スタッフには、高い評価を受け続けたカメラマンスブラタ・ミットラ英語版美術監督バンシ・チャンドログプタ英語版の両者を除くと、未経験者ばかりであった。役者もほとんどがアマチュアの中、彼は1952年に撮影を始めた。経費は個人的貯蓄で賄いつつ何とか資金調達で上積みを試みたが、ほんの小額しか手に入らなかったため制作継続に支障をきたした[11]。結果、彼と制作主任のアニル・チャウダリ英語版が金を積み増して続行でき、完成までに3年もの時間がかかった[11]。サタジットは脚本や制作監督への介入を伴う出資を拒否した。政府からの援助では、ハッピーエンドにすべきというアドバイスがあったが、サタジットはこれを無視しつつ資金は受けた[12]。彼は少ない予算ゆえに映像化できた数少ない場面の一つを、『王になろうとした男』映画化のロケ場所をインドで探していたジョン・ヒューストンに見せた。田舎でオプーと姉が列車を追うシーンを見たヒューストンは、ニューヨークで「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った。

西コルカタ州政府からの借金を受けてサタジットが完成させた映画は、1955年に公開されると高く評価され人気を博した。そして数多くの賞を受け、インドや外国でロングラン上映された。インド国内では熱狂的な支持を受け、ザ・タイムズ・オブ・インディア紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と評した[13]。イギリスでもリンゼイ・アンダーソンが熱烈なレビューを書いた[13]。しかし中にはフランソワ・トリュフォーが鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった[14]ニューヨーク・タイムズでは、最も権威を持っていた批判家ボズリー・クロウザー英語版が仮借の無いレビューを書いた。アメリカでの配給元はクロウザーの評論によって興業は上手くいかないと恐れたが、封切されるとロングランを記録した。

サタジット・レイの国際的な活動は、第2作『大河のうた』の成功を受けて始まった[15]。この作品は、青年オプーと彼を愛する母親との間に起こる絶え間ない諍いを描いた[15]ムリナル・セン英語版リトゥック・ガタク英語版ら評論家たちは、本作に前作を上回る高い評価を与えた[15]ヴェネツィア国際映画祭では『大河のうた』は金獅子賞を受け、サタジットは喝采を浴びた。

オプー三部作が完成する前に、サタジットは他に2本の映画を製作・公開した。喜劇の『賢者の石英語版』(または『化金石』)と、徴税請負地主英語版の退廃を描いた、最も重要な作品のひとつに挙げられる『音楽ホール英語版』である[16]

『大河のうた』制作中、サタジットはこれらを三部作にする構想を持っていなかった。しかし、ヴェネツィアで質問を受けた際に思い立った[17]。そして1959年にシリーズを締めくくる『大樹のうた』を完成させた。評論家のロビン・ウッド英語版アバルナ・セーン英語版は三部作の最高傑作と評した。サタジットは本作で、お気に入りの俳優ショウミットロ・チャテルジー英語版シャルミラ・タゴール英語版を起用した。作品は貧しいオプーがコルカタで生きるところから始まり、やがて不思議な縁でオプルナと結婚する。二人の生活描写は「映画において、結婚生活を肯定的に描いた古典のひとつ」と言われる[18]が、彼らには悲劇が待ち受けていた。本作はベンガル人評論家から批判されたが、それに対しサタジットは映画の弁護を記した。彼は評論家の言うことにほとんど反応しなかったが、本作と後に制作したお気に入りの『チャルラータ』に対する批判には反論した[19]

サタジットの映画は成功作となったが、これは何年経っても彼の私生活には影響を与えなかった。妻と子供、母親とおじ、そして親類たちと借家住まいを続けた[20]

『女神』から『チャルラータ』まで(1959–1964年)

1959年から1964年にかけて、サタジット・レイは『女神英語版』のようなイギリス領インド帝国時代を題材にした作品、ドキュメンタリー『詩聖タゴール』、喜劇映画『聖者』、オリジナル脚本で撮影した初の映画『カンチェンジュンガ英語版』などを製作した。また、一連の作品において、インド女性の最も深い描写がその中にあるという評論を受けた[21]

『大樹のうた』に続いて制作された作品『女神』は、ヒンズー教社会にはびこる迷信を考察した映画である。若妻Doyamoyee(シャルミラ・タゴール)が、義父によって女神カーリーに祭り上げられてしまう筋に、サタジットは検閲局による差し止めや再編集の指示を恐れたが無事上映された。1961年には首相ジャワハルラール・ネルーから強く要請され、詩人ラヴィンドナート・タゴール生誕100年を記念した『詩聖タゴール』を制作したが、サタジット自身も影響を受けた詩人への捧げ物として本作を仕上げたと思われる。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、彼が言うには普通の映画撮影3本分相当の労力を強いられたという[22]

同年、詩人のスバーシ・ムコーパデャイ英語版らと、かつて祖父が出版していた子供向け雑誌「サンデシュ英語版」の再刊行を行った。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた[23]。サンデシュ (Sandesh) とはベンガル語の「ニュース」とよく知られた甘いお菓子の名前の両方の意味を持ち、教育的な部分と面白さの両立を特徴とする方針を立てた。サタジットはイラストと随筆また小説を執筆した。後年、著述業は彼にとって主な収入源となった。

1962年、サタジットは『カンチェンジュンガ』を制作した。これは彼の手による初のオリジナル脚本が使われ、また手がけた初のカラー作品でもあった。映画は、裕福な一家が一幅の絵のような西ベンガルの丘の町ダージリングで過ごす午後の様子を映す。一家は、一番若い娘をロンドンで学んだ高給取りのエンジニアに嫁がせようとしている。当初サタジットは場面を大邸宅の中にしようと考えたが、後になって高名な丘の町に決めた。緊張した場面を表現するために光がつくる陰影や霧が多用された。彼は照明がどのような状態でも撮影に適応できる脚本を書くことに留意したが、同時にダージリングで宣伝用撮影を行った隊は晴天しか想定していなかったために撮影に失敗した[24]。60年代にサタジットは日本を訪問し、尊敬する黒澤明と会う機会を持った。自国では、彼は消耗しがちな都市生活からしばしば離れ、ダージリンやプリーのような場所で脚本を仕上げる事もあった。

1964年の『チャルラータ』は、この頃の傑作という呼び声が高く、評論家たちからもサタジット最高の映画作品と評された[25]。ラヴィンドナート・タゴールの短編『壊れた巣英語版』を基に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの沸きあがる想いを映したこの映画は、サタジットにとってほんの少し欠点を含んだもので、同じ手法を続けるかどうかを考えさせるただひとつの機会となったという[26]。チャルラータを演じたマドビ・ムカージ英語版や、スブラタ・ミットラとボンシ・チャンドログプタの演技も高く評価された。この頃には他に、『大都会英語版』、『三人の娘』、『遠征』、『臆病者と聖者』が制作された。

新たな取り組み(1965–1982年)

『チャルラータ』以後、サタジットは様々な領域に踏み出し始め、ファンタジーからSF推理小説映画、歴史映画などの制作にも進出した。またこの時期、少なからぬ形式上の実験も行った。インド人の生活における現代的な問題を映画の中からは気づく事が出来ないという点に応え、彼はそれら問題を取り上げて表現した。この時期の最初の映画は『ナヤック英語版(英雄)』である。ある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描く物語であり、ウッタム・クマル英語版とシャルミラ・タゴールが主演した。映画では、売れっ子と思われる二枚目俳優英語版が抱える内面の葛藤を描き出す。本作はベルリン国際映画祭で国際批判家連盟賞を受賞した[27]

1967年サタジットは、1962年に雑誌「サンデシュ」に掲載した短編小説『Bankubabur Bandhu (Banku Babu's Friend)』を下敷きに『エイリアン英語版(英雄)』と呼ばれる映画脚本を書いた。インドとアメリカの共同制作が企画されたこの映画には、コロンビア映画が制作社となり、ピーター・セラーズマーロン・ブランドが主役に配される事になった。ところが気づくと、脚本の著作権と権料の受け取りはマイク・ウィルソンに帰属されていた。彼は当初、共通の知り合いであるアーサー・C・クラークを通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となった。ウィルソンは著作権登録を「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で登録していたが、彼が脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした[28]。企画はマーロン・ブランドが降板し、代わりにジェームズ・コバーンが立てられたが、サタジットは幻滅してコルカタに戻った[28][29]。コロンビア映画は1970年代や1980年代に企画を復活させようとしたが実現しなかった。1980年に、映画雑誌Sight & Sound上でサタジットはアメリカでの共同制作が潰えたことについて話している。1982年にE.T.が公開されると、クラークとサタジットは『エイリアン』初期の脚本との類似性を見つけた。事の顛末はサタジットの伝記を書いたW・アンドリュー・ロビンソン英語版の『The Inner Eye』(1989年)に詳しい。サタジットは彼が書いた脚本の写し無しにアメリカでスティーヴン・スピルバーグが映画を制作できたとは信じていないが、スピルバーグはこの非難を否定している[30]。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら陽の目を見なかった企画には、古代インド叙事詩マハーバーラタ』や、E・M・フォースター1924年の小説『インドへの道』がある[31]

1969年、サタジットは商業的に最も成功した映画作品を発表した。彼の祖父が書いた子供向け短編小説『グビとバガの冒険英語版』を基にしたミュージカルファンタジー映画である。歌手のグビと太鼓を叩くバガの二人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、奇妙な冒険をする。そして、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるため奔走する。サタジットが手がけた高い制作費をかけた事業の中でも、この映画は財政的に困難を来たした。そのためカラーでの制作をあきらめたが、ボリウッドの俳優から主役を条件に届いたオファーは拒絶した[32]

サタジットは、若き詩人かつ作家のシュニル・ゴンゴパッダエ英語版が書いた小説の映画化に取り組み、『チャルラータ』を超える複雑さを持つと賞賛される音楽を主題とした作品[33]森の中の昼と夜英語版』を制作した。日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性との関わりを持つようになる筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材ともなっている。ロビン・ウッドは「(映画の)ひとつのシーケンスだけも...小論文の題材になるだろう」と述べた[33]

次にサタジットは、現代ベンガル人の生活を題材とした。これはコルカタ三部作英語版と呼ばれる『対抗者英語版』(1970年)、『株式会社英語版』(1971年)『ミドルマン』(1975年)である。この3作品はそれぞれ独立に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ[34]。『対抗者』は、卒業したての理想主義の青年を描き、映画の終わりで幻滅の感情を持つことで、彼がまだ腐りきっていない事を示した。『ミドルマン』は、生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。そして『株式会社』では、利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマンを描いた。『対抗者』でサタジットは新たに、詳細な説明を大胆に省略する手法を用いた[34]。1970年代には、好評を博していた探偵シリーズから、子供を主にターゲットとした『黄金の砦英語版』と『象神万歳英語版』を映画化した[35]

一時サタジットはバングラデシュ独立戦争を舞台とする映画を構想したが、結果的に彼はこれをやめた。後に彼は、映画制作者として受難者を描くことに情熱を感じても、政治には関心が持てないと言った[36]。1977年、サタジットは『チェスをする人英語版』を制作した。原作はムンシー・プレームチャンドの小説で、インド大反乱前のウード (Oudhラクナウを舞台としている。イギリス人によるインド植民地支配に関わる問題を取り上げた本作は、ベンガル語以外で撮影されたサタジット初の作品であり、また最も費用がかけられた。本作にはサンジーヴ・クマールサイード・ジャフリーアムジャド・カーン英語版シャバーナー・アーズミーヴィクター・バナルジ英語版リチャード・アッテンボローらが出演した。

1980年には『グビとバガの冒険』の続編にあたり、やや政治色を帯びた『ダイヤモンドの王国英語版』が上映された。邪悪なるダイヤモンド王国の王 Hirok Raj は、インディラ・ガンディーによるインドの非常事態令 (1975-77)英語版を暗示している[37]。称賛された短編映画『ピクー英語版』と、一時間のヒンディー語映画『遠い道』もこの頃の作品である。

シッキムのドキュメント

1971年、サタジットは王室が制作するシッキム王国ドキュメント映像を監督した。この映像は長くインド政府によって発禁処分を受けていたが、2010年に禁が解けてDVDは発売された。これは、土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていない[38]

晩年

1983年、『家と世界英語版』製作中にサタジットは心臓発作を起こした。これが原因となり、その後亡くなるまでの9年間、彼の制作活動は非常に制限されてしまった。『家と世界』は、健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。本作は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた[39]。病気のため細切れの印象を免れないが、映画は大きな称賛を浴びた。この中で、サタジットの映画としては初のキスシーンがあった。1987年には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『シュクマル・レイ英語版』を制作した。

サタジット晩年の3作は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、そのために独特の効果を持っている。以前よりも対話シーンが多く、そのために過去の作品には及ばないという意見もある[40]。『民衆の敵英語版』は著名な戯曲『民衆の敵』の映画化であり、この頃サタジットの健康状態は悪かったと考えられる[41]。しかしその後回復を見せ、1990年には『枝わかれ英語版』が制作された[42]。本作は、実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るところとなる筋である。最後の場面で老人は、唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる。そしてサタジット最後の作品となった『見知らぬ人』は、より軽いムードながら深いテーマを扱ったもので、長らく行方不明になっていた叔父がコルカタの姪を訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を映す。本作は、文明に対する遠大な質問を投げかけている[43]。1992年、サタジットは心合併症から来る健康状態の悪化を示し、彼は入院したが回復は叶わなかった。彼にアカデミー賞特別名誉賞が授与されたが、これを病床で受けたサタジットに残された時間は数週間に過ぎなかった。1992年4月23日、サタジット・レイは70歳で世を去った。

映画制作

サタジット・レイは制作において脚本執筆が重要だと考えていた。当初彼はベンガル語で脚本を書くことにこだわったが、後に2作品の脚本を英語で書いている。翻訳者によってヒンズー語やアルドゥー語に訳して使われたが、サタジットはこの作業も監督した。サタジットの詳細まで至る目配せは、ディレクターのボンシ・チャンドログプタも同調していた。重要な役割を果たすベンガル人でないチャンドログプタのために、サタジットはベンガル語の前に英語で脚本を書いた。スブラタ・ミットラの撮影技術は、サタジットの映画に賞賛が集まる大きな役割を果たした。多くの評論家は、彼が去ったため、後の映画は撮影の質に低下が見られると述べた[27]。ミットラを手放しで賞賛しつつも、サタジットは一本気な人物で『チャルラータ』以後はカメラ操作を奪ってしまったため、1966年以後ミットラは供に仕事をしなくなった。ミットラは「バウンズ光」という、照明光を布に当てて反射させ、セットなどを散乱した現実的な光で照らすテクニックを開発した。サタジットは、彼のヌーヴェルヴァーグ派のジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーに対する負債を肩代わりし、新しい技術の導入や映画への革新を手助けした[44]

サタジットの作品は通常、ドゥラル・ドット英語版映像編集を担当した。しかし、実際の編集作業はドットよりも監督のサタジットが多くを担った。それは、経済的理由に加えサタジットの綿密な構想があり、『大地のうた』は別として、カメラ撮影そのものでカットが施されたためである。サタジットは当初、ラヴィ・シャンカルウスタッド・ヴィラヤット・カーン英語版アリ・アクバル・カーン英語版インドの伝統音楽家らを起用したが、やがて彼らの音楽はその伝統に忠実なあまり彼の映画に馴染まないと気づいた。彼は西洋のクラシック音楽に深い造詣を持っており、都市周辺での場面ではこれらを用いた[45]。 『三人の娘』からは、サタジットは作曲も手がけた。

サタジットは、有名な映画スターから『大河のうた』のように全く無名な役者まで、さまざまな俳優を起用した[46]ロビン・ウッド英語版ら評論家の中には、サタジットは子供を演出させたら右に出る者はいないと評し、その例として「オプー」や『大地のうた』のドルガ、『郵便局長』のラタン、『黄金の城砦』のムクルなどが挙げられた。サタジットは俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変え、例えばウタパル・ダットのような人物にはほとんど指図をせず、逆に少年オプーを演じたシュビル・ボンドバッタエやアパルマ役のシャルミラー・タゴールなど俳優によっては「操り人形」のように扱った事もある[47]。サタジットの映画に出演した俳優たちは、彼が変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で「すごい侮辱」を持って無能がごとく扱われた事についても述べている[48]

文学作品

サイエンス・フィクションにおいても著名な作者であったサタジットは子供向けベンガル文学において非常に有名になった2人の登場人物を創作した。探偵フェルダー科学者プロフェッサー・ションク英語版である。フェルダーシリーズは。丁度シャーロック・ホームズに対するジョン・H・ワトソンの役どころを担う彼のいとこに当るトペシュの語りで展開する。プロフェッサー・ションクのSFは、謎めいた失踪をした科学者が残した日記の形式で物語が進む。また、ルイス・キャロル著『ジャバウォックの詩』の翻訳を含むノンセンスバース英語版Today Bandha Ghorar Dim』や、ベンガル語でナスレッディン・ホジャを主人公にした小話も書いている。

サタジットが書き纏めて出版された12の大人向け短編小説は、その各タイトルが例えば (Aker pitthe dui - "Two on top of one") のような12に紐づいたものになっていた。これは彼のパズルと駄洒落好きが反映したものだった。これら短編小説は、映画ではあえて避けていた猟奇性や緊張感といったものに彼が関心を寄せていたことを示し、心理学への興味を喚起させるものになっている[49]。サタジットの著作の大部分は英訳され、あらたな読者を獲得し続けている。

ほとんどの映画脚本は雑誌『Eksan』上で、ベンガル語にて発表された。1982年には幼少期の自伝『Jakhan Choto Chilam』を出版した。

彼はまた映画の批評も書き、これらは『Our Films, Their Films』(1976年)、『Bishoy Chalachchitra』(1976年)、『Ekei Bole Shooting』(1979年)に纏められた。1990年代中頃には、サタジットの映画についてのエッセーや短編は西洋にて英語で出版された。『Our Films, Their Films』は彼による映画評論のアンソロジーであるが、この中には記事の他に個人的な話しの抜粋が含まれている。この本は、最初は彼がハリウッドに注目する前のインドの映画について論じ、さらに特定の映画制作者(チャーリー・チャップリンや黒澤明)とネオレアリズモなどの活動に触れる。彼の書籍『Bishoy Chalachchitra』は2006年に『Speaking of Films』のタイトルで翻訳出版された。これは、映画に関する様々な哲学を簡潔に述べたものである。

カリグラファー

サタジット・レイはカリグラフィーも行い、ローマン体の4つの書体をデザインした。いかなるベンガル文字とも異なるこれらはレイ・ローマン (Ray Roman) 、レイ・ビザール (Ray Bizarre) 、ダフニス (Daphnis) 、ホリディスクリプト (Holiday Script) と呼ばれ、雑誌「サンデシュ」用に作られた[50]。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザール は1971年の国際コンペティションを勝ち取った[51]。またコルカタでは彼を、自作映画向けの著名なグラフィックデザイナーと見る向きもある。映画広告の制作だけでなく、彼は出版した本やそのカバーも手がけた。それゆえ、ベンガル文字に施されたサタジットの芸術もポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる。彼は自著にとどまらず、他の作家の本も表紙デザインを手がけた[52]

いわゆる古臭く田舎的な芸術分野は、サタジットのベンガル書記素表現の前では霞んでしまう。ベンガル文字における3層からなるエックスハイト(基本文字の高さ)は楽譜や輪郭のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間には曲線が使われ、アルポナ英語版(ベンガル伝統の文様)が続く。また、書記素を変容させて「アルケー文字」とも呼べるような生物や物を形づくった、ベンガル文字への建設的な働きかけもサタジットの特徴である[53]

評価

サタジットの作品はヒューマニズムと普遍性に溢れ、一見単純ながら内に深く根底的な複雑さを秘めている[54][55]。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた[56]。一方で、批判者からは展開の遅さを「荘厳なカタツムリ」と揶揄された[25]ジャン=リュック・ゴダールなど同時代人の中には、サタジットに純粋なヒューマニズムや現代的なものを否定する側面を見出し、新しい流行や表現また実験的な要素に欠くという批判を行う者もいた[57]スタンレー・カウフマン英語版が書いたように、評論家の中には「(サタジットは鑑賞者に)登場人物に課した波乱に満ちた人生を見せるよりも、映画で単純に示された登場人物そのものの存在に魅かれるよう意図する」と考えている者もいる[58]。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤彰は遅いとは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した[59]

時にサタジットは、他分野の芸術家とも比べられた。例えばアントン・チェーホフジャン・ルノワールヴィットリオ・デ・シーカハワード・ホークヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトなどである。作家のV・S・ナイポールは、『チェスをする人』の場面をウィリアム・シェークスピアの劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!‐ものすごい」と評した[60][61]。サタジットの映画にある美学を好まない批評家でさえ、彼の映画には微妙なニュアンスすべての中で、文化全体を包括する能力が発揮されていると認めている。インデペンデント紙が掲載したサタジットの死亡記事にある「誰を彼と並べることができるか?」という文句に、この評が込められている[62]

政治的イデオロギーはサタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代、サタジットはマルクス主義者の映画制作者ムリナル・セン英語版と公開で議論を重ねたが、センはサタジットに対してウッタム・クマルのような二枚目俳優を起用する事を非難し、それは妥協だと述べた[63]。一方のサタジットは、センがベンガル中産階級のような「安易なターゲット」を攻撃していると述べた。共産主義信奉者の中には、サタジットが国内の虐げられた層が生まれる原因を描き出していないと述べ、中には『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい映画の中で貧困を賛美していると訴える者もいた。物語の中には問題を解決するための闘争が描かれておらず、サタジットが持つブルジョワジー的経歴を乗り越えられなかったものと主張した。1970年代にナクサライト英語版(インドの武装革命至上主義)運動が盛んな頃、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もある[64]。1980年代初頭には、インドの国会議員で元女優のナルギス・ダット英語版が、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品をつくるべきだと述べた[65]

影響

サタジット・レイは世界中に広く知られたインドそしてベンガルの文化的象徴である[66]。彼の死に、コルカタ市街は悲しみに暮れ、数百数千もの人々が彼の家に集まって別れを惜しんだ[67]。彼はベンガルの映画英語版や、インドではアパルナ・セーン英語版リトゥポルノ・ゴーシュ英語版ゴータム・ゴース、バングラデシュではタレク・マスード英語版タンビール・モカメル英語版、イギリスではアニール・アーマッド英語版などのベンガル系映画監督に広く深い影響を与えた。広範囲な活動はインド映画の発展に貢献したと、ブッダーデブ・ダスグブタ英語版ミリナル・セン英語版[68]またアドゥール・ゴーバーラクシュナン英語版らは評している。インド以外にも、サタジットの映画スタイルは黒澤明らとともに、マーティン・スコセッシ[69][70]ジェームズ・アイヴォリー[71]カルロス・サウラ[72]高畑勲[73]ダニー・ボイル[74]ら他の映画制作者に大きな影響を与えた[56]グレゴリー・ナヴァ1995年の映画『ミ・ファミリア英語版』では、ラストシーンで『大樹のうた』を再現した。アイラ・サックス2005年の映画『Forty Shades of Blue』は『チャルラータ』からインスピレーションを受けて制作された。他にも、『Sacred Evil』,[75]ディーパ・メータの「エレメント三部作英語版」、ジャン=リュック・ゴダールの作品にも[76]サタジットの要素が含まれる。マイケル・スラゴーは「The Atlantic」誌にて、「1950年代中頃から若者が成人となるドラマが劇場に溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きい」と述べた[77]。またこの3部作はバウンス光の技術を導入した[78]。1962年の『カンチェンジュンガ』は後にハイパーリンク映画英語版と呼ばれる技法の先駆的存在であり[79]、1970年の『対抗者』はネガフィルムのフラッシュバックやX線技術を用いた初期の作品である[80]。サタジットはマドビ・ムカージとともに、インド人の映画関係者としては初めて外国(ドミニカ)発行の切手図案に姿が使われた。

ソール・ベローの『ハーツォグ英語版』、J・M・クッツェーの『Youth』などの文学作品にも、サタジットから受けた影響がある。サルマン・ラシュディの『ハルーンとお話の海英語版』にはグビとバガという名の魚が登場する。1993年、カリフォルニア大学サンタクルーズ校は「サタジット・レイ映画研究所」を設け、1995年にはインド政府によって「サタジット・レイ映画テレビ研究所」が設立された。2007年、BBCは探偵フェルダーのラジオドラマを2作放送した[81]ロンドン映画祭にて、初監督作品の中で最も「芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える」作品にはサタジット・レイ賞が贈られる。ウェス・アンダーソンはサタジットから影響を受けたと語り、インドで撮影された2007年の作品『ダージリン急行』を彼に捧げた。

受賞

サタジット・レイは32のインド映画賞のみならず国際的な賞も多数受賞した。ベルリン映画祭では、銀熊賞を2度以上受けた3人の監督の1人であり[82]金熊賞ノミネートは最多の7度を誇る。ヴェネツィア国際映画祭では、1956年に『大河のうた』で金獅子賞を受賞し、1982年には金獅子名誉賞 (Golden Lion Honorary Award) が贈られた[83]。同年、カンヌ国際映画祭にて"Hommage à Satyajit Ray" 賞が与えられた[84]

サタジット・レイは、チャールズ・チャップリンに続きオックスフォード大学から名誉博士号を授けられた2人目の映画関係者である[85]。1985年にはインドのダダサヘブ・ファルケ賞英語版、1987年にはフランスレジオンドヌール勲章を授けられた[86]。またインド政府からは、死の直前にバーラトラトナ英語版が贈与された[86]。1992年に映画芸術科学アカデミーは生涯で成し得た偉業を讃えアカデミー賞名誉賞)を授与した。プレゼンテーターはコルカタを訪問していたサタジットお気に入りの女優オードリー・ヘップバーンが行った。サタジットは病気のため式には出席できず、受賞スピーチを自宅から生放送で伝えた。死後の1992年、サンフランシスコ国際映画祭で黒澤明賞が授与され、シャルミラー・タゴールが代理となり受理した[87]

1992年、イギリスのSight & Sound誌は、すべての時代における映画監督ベスト10の7くらいにサタジットを挙げ、アジア人としては最高位を与えた[88]。同誌2002年のランキングでは、サタジットは22位[89]、アジアでは4位となっている[89]。1996年、エンターテインメント・ウィークリー誌は「50人の偉大な映画監督」リストでサタジットを25位にランクした[90]。2007年、Total Film誌は「100人の偉大な映画監督」に彼を載せた[91]

脚注

  1. ^ Seton 1971, p. 36
  2. ^ Robinson 2003, p. 46
  3. ^ Seton 1971, p. 70
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外部リンク

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