「比治山」の版間の差分

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{{Infobox 山
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'''比治山'''(ひじやま)は、[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]に位置する[[標高]]約70[[メートル|m]]の小高い[[丘]]。
[[画像:hiroshima sky.jpg|thumb|right|300px|比治山から広島市内を望む]]
'''比治山'''(ひじやま)は、[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]に位置する[[標高]]約70[[メートル|m]]の小高い[[丘]]。市中心部における市民の憩いの場の一つである。


== 概要 ==
丘全体が比治山公園であり、園内には[[広島市現代美術館]]、全国初の公立の漫画[[図書館]]である[[広島市立まんが図書館]]、[[展望台]]などがある。他に比治山陸軍墓地を始め、戦時の軍需拠点だった歴史を物語るように山のあちこちに[[戦没者]]を弔う[[石碑]]がある。
名前の由来は諸説ある。ここに比治某という人物が住んでいたためとも、山の姿が肘を横にした形に似ているからとも<ref name="bunka464">{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=464|title=寒山落木|accessdate=2012-08-27}}</ref>。


広島が[[中世]]時代「五箇庄」といわれていた寒村の頃には、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
1300本の[[サクラ|桜]]が咲く季節には、[[平和記念公園]]などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。開花時期にはぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。
具体的には現在の[[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島(はくしま)]]が箱島(はこしま)、中区[[江波 (広島市)|江波(えば)]]の[[江波山公園|江波山]]及び[[江波皿山公園|江波皿山]]は江波島(えばじま)、南区[[黄金山 (広島市)|黄金山(おうごんざん)]]が[[仁保村 (広島県)|仁保島]](にほじま)、そして比治山は日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていた。


全体が比治山公園であり、市中心部における市民の憩いの場の一つである。市内有数の桜の花見のスポットとして開花時期には多くの人で賑わい、ぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。
== 歴史 ==
広島が五箇庄といわれていた寒村の頃には、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
具体的には現在の[[中区 (広島市)|中区]][[白島 (広島市)|白島(はくしま)]]が箱島(はこしま)、中区[[江波 (広島市)|江波(えば)]]の[[江波山公園|江波山]]及び[[江波皿山公園|江波皿山]]は江波島(えばじま)、南区[[黄金山 (広島市)|黄金山(おうごんざん)]]が[[仁保島村|仁保島]](にほじま)、そして比治山は日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていた。


園内には[[広島市現代美術館]]、全国初の公立の漫画[[図書館]]である[[広島市立まんが図書館]]、[[展望台]]などがある。他に[[皇室]]ゆかりのものや、比治山陸軍墓地を始め戦時の軍需拠点だった歴史を物語るように山のあちこちに[[戦没者]]を弔う[[石碑]]、戦後の進駐軍による原爆研究施設だった旧[[原爆傷害調査委員会]](ABCC、現[[放射線影響研究所]])など、バラエティに富んでいる。
[[File:Hiroshima map circa 1930.PNG|300px|thumb|[[1930年]]頃の[[広島市|廣島市]]の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には[[比治山神社]]、南部には陸軍墓地が記載されている。]]

山の北側、現在広島市立まんが図書館がある広場は、通称・御便殿跡(ごべんでんあと)と呼ばれる。ここは[[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]時に[[大本営]]とともに[[基町]]の[[広島城]]内に併設された[[明治天皇]]の行在所(御便殿)を[[1909年]](明治42年)にこの地に移したもの。[[昭和天皇]]も[[即位]]直前の[[1925年]]([[大正]]15年)[[5月26日]]に、祖父の明治天皇ゆかりの地であるここに立ち寄って市内展望を行っている。それを記念して建てられた「皇太子殿下御展望記念碑」が現在もある。[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月6日]]の[[原爆]]で広場の北側にあった建物は無くなったが、基礎の石垣部分は1980年半ば頃まで残っていた。その石垣の南側には1970年頃まで、動物小屋が幾つかあり小動物が飼われてミニ[[動物園]]のようになっていた。[[広島市安佐動物公園]]開園でそこへ動物は引き取られ小屋は撤去され、御便殿の石垣ともども現在は無い。
== 沿革 ==
{{Vertical_images_list
|寄せ=右
|幅= 200px
| 1=Hiroshima Castle Town 1644.jpg
| 2=安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
| 3=Hiroshima map circa 1930.PNG
| 4=[[1930年]]頃の[[広島市|廣島市]]の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には[[比治山神社]]、南部には陸軍墓地が記載されている。
| 5=Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg
| 6=原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。
}}

[[縄文時代]]草創期には孤島であったが、縄文晩期になると[[太田川]]が上流から運んだ土砂が堆積し周辺を遠浅の海あるいは干潟を形成した<ref name="kumano">{{Cite web|publisher=熊野町立図書館|url=http://www.lib.town.kumano.hiroshima.jp/kyoudo/pdf/1987-10-kumano-cho-si-tuusi-hen/tuusi-hen2-gensi-kodai-kouko/2-2.pdf|format=PDF|title=熊野町史 通史編 第2章第2節 縄文時代|accessdate=2012-08-27}}</ref>。比治山にはこの頃から人類が住んでいた<ref name="kumano" />。[[古代]]、比治山の北にある[[二葉山]]の麓まで海で、[[菅原道真]]は[[大宰府]]に左遷される際に休憩のため二葉山に船で寄せている<ref>{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0390.html|title=尾長天満宮|accessdate=2012-08-27}}</ref>。

中世、1400年代には太田川下流域の[[三角州]]の頂部付近(現在の白島)が発達し、1500年代後半には現在の[[平和大通り]]付近まで陸地が形成されている<ref name="mlit">{{Cite web|publisher=国土交通省|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/planpdf/02plan.pdf|format=PDF|title=太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要|accessdate=2012-08-27}}</ref>ことから、ここが[[本州]]と完全に陸続きになったのはこの頃である。

[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[毛利元就]]がこの地を支配したことが転機となる。元就は拠点をこの地に移すことを考え始め<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4a.html|title=築城前の広島|accessdate=2012-08-27}}</ref>、一説には比治山が候補地となっていたとされている<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま通マップ|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~hiroshima2.2/newpage2-2.html|title=毛利氏の広島城築城と当時の町割り|accessdate=2012-08-27}}</ref>。

[[広島城]]築城以降、この地は発達した。比治山の北側には[[西国街道]]が通り商業地として発達した<ref name="sensai390">[[#原爆戦災誌]]、390頁</ref>。南側は江戸時代から[[干拓]]が始まり明治以降も続いた<ref name="mlit" />。

比治山自体は、江戸時代は藩有林・明治末期まで[[日本の国有林|国有林]]であった<ref name="sirouya16">{{Cite web|publisher=広島城|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya16.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.16|accessdate=2012-08-27}}</ref><ref name="pref71588">{{Cite web|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/71588.pdf|format=PDF|title=広島の歴史的風景|accessdate=2012-08-27}}</ref>。1902年(明治31年)年に[[江波山公園|江波山]]とともに公園として整備することが許可され、1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1122608826994/html/common/4c3a75e1008.htm|title=広島平和記念都市建設計画における分野別の計画|accessdate=2012-08-27}}</ref><ref name="pref71588" />。戦前から市内有数の桜の名所であった<ref name="pref71588" />。また1909年(明治42年)に御便殿がここに移ってくると、それも観光名所となった。

[[戦中]]、[[船舶司令部|船舶砲兵団司令部]]([[陸軍船舶兵]])や電信第2連隊が駐屯していた<ref>[[#原爆戦災誌]]、19頁</ref>。

1945年(昭和20年)8月6日、[[広島市への原子爆弾投下]]により被爆。ここは[[爆心地]]から約1.8キロメートル離れたところに位置した。爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった<ref name="sensai390" />。被爆当日は[[多聞院 (広島市)|多聞院]]が臨時の[[広島県庁]]として機能した。市内中心部の被爆者はここに多数逃げ込んでいる<ref name="sensai390" />。

戦後も、公園として整備された<ref name="sensai390" />。1949年(昭和24年)[[原爆傷害調査委員会]](ABCC)が開所している<ref name="sensai390" />。

なお、戦前から1986年(昭和61年)まで東側に[[宇品線]]が通り、戦後1966年(昭和41年)から南側に[[新広島バイパス]]([[国道2号]])が通っている。

1980年(昭和55年)、広島市が[[政令指定都市]]になったことを記念して「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれた。あわせて博物館建設構想が上がり、[[広島市現代美術館]]や[[広島市立まんが図書館]]が建設された<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1134003103512/index.html|title=南区を歩こう(比治山)|accessdate=2012-08-27}}</ref>。


1990年代には、山を貫通する[[比治山トンネル]]が整備され、広島市中心部と[[段原|段原地区]]とのアクセスが改善された。
1990年代には、山を貫通する[[比治山トンネル]]が整備され、広島市中心部と[[段原|段原地区]]とのアクセスが改善された。


{{wide image|hiroshima sky.jpg|800px|比治山から広島市内を望む。}}
敷地内には、第二次世界大戦前には[[加藤友三郎]]と[[早速整爾]]の銅像があったが、金属類回収令により現在は台座部分のみ残っている。

== 地理/自然 ==
{{節stub}}
;地理
太田川水系支流の[[猿猴川]]と[[京橋川]]に挟まれた土地に位置し、その2つの川の分岐点の南にある。上記沿革のとおり、周囲は平野である。

比治山は、比治山トンネル付近で南北に二分される。南側に頂上がある。頂部は比較的平坦に整地されているがその周りは急斜面になっている。周辺の土地開発により、元の山形は留めていない<ref name="sensai390" />。

;地質
太田川下流域の特徴である、広島[[花崗岩]]類とそれが[[風化]]して堆積した「[[真砂土|マサ土]]」で形成されている<ref name="mlit" />。ここの花崗岩は、[[毛利輝元]]による広島城築上の際に石垣として採用されている<ref name="sirouya07">{{Cite web|publisher=広島城|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya07.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.7|accessdate=2012-08-27}}</ref>。

;生態系
市中心部では[[黄金山]]とともに自然豊かな場所である。

中世から渡り鳥の休憩地として著名で<ref name="sirouya16" /><ref name="hiroshima24691">{{Cite web|publisher=広島県保健環境センター|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/24691.pdf|format=PDF|title=広島県における感染症媒体蚊の生息状況|accessdate=2012-08-28}}</ref>、江戸時代には[[ソデグロヅル]]が飛来していた<ref name="sirouya07" />。現在[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]がある付近に広島藩による鶴の飼育場が設けられていて、これが鶴見橋の名前の由来となっている<ref name="sirouya07" />。現在は鶴は見られないが、[[マミチャジナイ]]や[[キビタキ]]の渡り鳥が確認されている<ref name="hiroshima24691" />。

また江戸時代ここは藩有林で伐開や狩猟禁止であったことから多くの生物が存在し、[[ハヤブサ]]や[[イノシシ]]などが生息していた<ref name="sirouya07" /><ref name="sirouya16" />。当時領内でイノシシ被害にあった記録が残っている<ref name="sirouya16" />。

上記の通り、市内有数の桜の名所であり、1300本の[[サクラ|桜]]が咲く季節には[[平和記念公園]]などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。


== 施設 ==
== 施設 ==
=== 主な施設 ===
* [[広島市現代美術館]]
<gallery widths="200px" heights="200px">
* [[広島市立まんが図書館]]
ファイル:広島市現代美術館01.jpg|[[広島市現代美術館]]
* [[放射線影響研究所]] (旧[[原爆傷害調査委員会|ABCC]])
ファイル:広島市立まんが図書館01.jpg|[[広島市まんが図書館]]
* NHK広島比治山テレビ・FM放送所→[[広島親局送信所]]
ファイル:Radiation Effects Research Foundation Hiroshima.jpg|[[放射線影響研究所]] (旧[[原爆傷害調査委員会|ABCC]])
* 比治山陸軍墓地(比治山南広場)
ファイル:Tamon-in temple at Hiroshima.jpg|[[多聞院 (広島市)|多聞院]]
ファイル:比治山神社01.JPG|[[比治山神社]]
ファイル:Sanyo Buntokuden 01.JPG|[[山陽文徳殿]]
</gallery>
;比治山貝塚
県および市の史跡。縄文時代後期から晩期にかけての[[貝塚]]である。比治山南麓にある<ref name="pref206120510">{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/206120510.html|title=比治山貝塚|accessdate=2012-08-27}}</ref><ref name="bunka742">{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=742|title=比治山貝塚|accessdate=2012-08-27}}</ref><ref name="hijiyama_kaiduka">{{Cite web|publisher=広島市文化財団|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/bunkazai/hijiyama_kaiduka.htm|title=県史跡 比治山貝塚|accessdate=2012-08-27}}</ref>。

当時[[広島湾]]内に浮かぶ島の海岸線付近に存在したと考えられている<ref name="pref206120510" />。大正時代にその存在が確認されていたが、当時この付近は軍用地であったため発掘作業は行われなかった<ref name="hijiyama_kaiduka" />。最初の出土は1832年(昭和7年)の軍による工事中の時のことである<ref name="hijiyama_kaiduka" />。戦中はこの地に軍施設が整備され、その際に遺跡の主要部分が破壊された<ref name="pref206120510" /><ref name="bunka742" />。

戦後、[[松崎寿和]][[広島大学]]教授らが1948年・1949年(昭和23・24年)の2度に渡り発掘を行い、上下2層からなる貝塚が発見された<ref name="pref206120510" /><ref name="bunka742" />。主な出土品は以下のとおり<ref name="pref206120510" /><ref name="hijiyama_kaiduka" />。
* 土器
** 灰褐色磨研土器(上層から)
** 縄文土器(下層から)
** 同心円状の磨消縄文土器(下層から)
* 石器 - [[安山岩]]製
** 石錘
** 石鏃
** 石匙
* 貝 - 全体の70%がハマグリ。上層に行くにつれ淡水系の貝が増えている。
* その他動物の骨 - シカやタイ

これら出土品から当時漁や狩猟で生計を立てていたと考えられている<ref name="pref206120510" /><ref name="bunka742" /><ref name="hijiyama_kaiduka" />。なお、[[弥生時代]]のものは出土していない。これは、稲作が主体となったことにより、それに適した土地へ移っていたためと考えられている<ref name="hijiyama_kaiduka" />。

;御便殿跡
山の北側、現在広島市立まんが図書館がある広場は、通称・御便殿跡(ごべんでんあと)と呼ばれる。ここは[[日清戦争]]時に[[広島大本営]]とともに[[基町]]の[[広島城]]内に併設された[[明治天皇]]の行在所(御便殿)を、[[1909年]](明治42年)に所有が広島市へ移りこの地に移したもの<ref name="pref71588" />。以降、戦前の広島市における観光名所の一つとなった。

1913年(大正2年)明治天皇葬場殿の儀の際、青山斎場(現[[明治神宮外苑]])に建てられた大鳥居がここに移築され、銅板で巻かれた<ref name="pref71588" /><ref name="gekkan">{{Cite web|publisher=住吉神社|url=http://www.sumiyoshijinja.net/gekkan/gekkan_19_10.html|title=比治山の旧陸軍墓地|accessdate=2012-08-27}}</ref>。御便殿の傍らには[[大正天皇]]即位を記念して、1918年(大正7年)絵馬堂式の建築様式で「大記念館」が建てられた<ref name="gekkan" />。

[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月6日]]の[[原爆]]で広場の北側にあった建物は無くなったが、基礎の石垣部分は1980年半ば頃まで残っていた。その石垣の南側には1970年頃まで、動物小屋が幾つかあり小動物が飼われてミニ[[動物園]]のようになっていた。[[広島市安佐動物公園]]開園でそこへ動物は引き取られ小屋は撤去され、御便殿の石垣ともども現在は無い。

近辺には[[昭和天皇]]関連の碑もある。[[即位]]直前の[[1925年]]([[大正]]15年)[[5月26日]]に祖父の明治天皇ゆかりの地であるここに立ち寄って市内展望を行っている。それを記念して建てられた「皇太子殿下御展望記念碑」がある。さらに広場の入口に、昭和天皇即位記念として1928年(昭和3年)11月19日に建立された「御大典記念碑」<ref name="pref71588" />がある。

;旧陸軍墓地(比治山南広場)
1872年(明治5年)鎮西[[鎮台]]の兵士を弔う国有墓地として整備された。元々は放射線影響研究所の一帯を占めていたが、戦後進駐軍がABCC建設を強行した際にその敷地内の墓地遺骨を破棄している。

戦前戦中の小学校教科書に登場した[[木口小平]]の名前が刻まれている合祀碑や、[[小山内建]]広鳥衛戌病院長([[小山内薫]]や[[岡田八千代]]の父親)の本墓がある。

なお、現在は国有墓地として認められていないため、「比治山南広場」が正式名称である。

;NHK比治山テレビ放送所
[[広島親局送信所]]の一つ。

1950年、[[NHK広島放送局]]の「比治山テレビ放送所」として開所した。当時は[[流川 (広島市)|流川]]にあった本局で映像を編集後、タクシーでここまで持ち込んで放送という形が取られており、17人の常勤技術者が滞在していた。1971年より無人化<ref>{{Cite web|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hijiyama/nenpyo.html|title=比治山放送所と放送の歴史|accessdate=2012-08-27}}</ref>。
{{see also|広島親局送信所#比治山}}

=== その他 ===
{{公園
|名称 = 比治山公園
|分類 = 芸術公園
|面積 =
|運営者 = 広島市(南区維持管理課)
|駐車場 = 125台(大型バス可)
|告示 = 1902年
}}
公園内に美術系モニュメントがあちこちにある。
* [[加藤友三郎]]および[[早速整爾]]銅像台座 - 太平洋戦争前に建てられたが[[金属類回収令]]により現在は台座部分のみ残っている。
* [[正岡子規]]句碑「鶯の 口のさきなり 三萬戸」 - 日清戦争時に従軍記者として広島に訪れた際に幾つか詠んだ句の一つであり、句集「寒山落木」の中の一句が刻まれた石碑がある<ref name="bunka464" />。
* 原爆被災説明板 - 比治山から被爆後の市内を撮影した写真とともに被災状況を説明している<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1111544105281/index.html|title=32廃墟と化した広島市街地(比治山公園内)|accessdate=2012-08-27}}</ref>。
* 雲霓橋 - 1929年(昭和4年)、広島市主催の「昭和産業博覧会」が開催された際にかけられた橋。元々は[[吊り橋]]だった<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/map/eki/9/4.html|title=雲霓(うんげい)橋|accessdate=2012-08-27}}</ref>。
* 展望台・トイレ・自動販売機
* 展望台・トイレ・自動販売機
* 比治山貝塚
* [[多聞院 (広島市)|多聞院]]
* [[山陽文徳殿]]


== アクセス ==
== アクセス ==
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 200px
|枠幅=
|1=HijiyamaPark 20120819-1.JPG
|2=比治山下電停近くの入口。
|3=HijiyamaPark 20120819-2.JPG
|4=比治山スカイウォーク
}}
山へのアクセスは、旧来からある[[広島電鉄皆実線|5号線]][[比治山下駅|比治山下電停]]近くの入口と、1990年代に整備された[[比治山スカイウォーク]]が一般的なアクセスになる。

比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの[[広島イースト]](旧・広島サティ)3階から、[[比治山スカイウォーク]]の動く歩道と[[エスカレーター]]で山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。
比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの[[広島イースト]](旧・広島サティ)3階から、[[比治山スカイウォーク]]の動く歩道と[[エスカレーター]]で山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。


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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[原爆傷害調査委員会]] (ABCC) - 比治山山頂にあり
* [[江波山公園|江波山]]・[[江波皿山公園|皿山]]・[[黄金山 (広島市)|黄金山]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼で現在は周囲が埋め立てられ山になっているもの
* [[江波山公園|江波山]]・[[江波皿山公園|皿山]]・[[黄金山 (広島市)|黄金山]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼で現在は周囲が埋め立てられ山になっているもの
* [[宇品|元宇品]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼
* [[宇品|元宇品]] - 広島城下成立以前からの広島湾頭の島嶼
* 学校法人比治山学園 - 比治山に近いことから命名された
* [[広島親局送信所]]
** [[比治山大学]] - 牛田にある
** [[比治山大学短期大学部]] - 牛田にある
** [[比治山女子中学校・高等学校]]

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考資料 ==
* [http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/map/eki/9/index.html 比治山] - 広島市
* [http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/search/?lang=&m=1&t=0&pager.offset=0&len=20&orderBy=recordId&order=ASC&title=&keyword=%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=0&y=0&area1=0&area2=0&area3=0&area4=0&theme1=0&theme2=0 戦前の絵葉書アーカイブ] - 東北芸術工科大学。比治山関連の絵葉書が2枚ある。
* {{Cite book|和書
|author = 広島市
|title = 広島原爆戦災誌
|origdate = 1971
|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf
|format=PDF
|accessdate = 2012-08-27
|edition = 改良版
|date = 2005
|ref = 原爆戦災誌
}}
* [http://www3.famille.ne.jp/~kodayo/genbaku/rikugunboti.htm 比治山陸軍墓地] - 広島の原爆遺跡と碑


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/ 広島市現代美術館]
* [http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0541.html 比治山公園] - 広島県観光
* [http://www.library.city.hiroshima.jp/library/manga/index.html 広島市立図書館&gt;まんが図書館]
* [http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=embed&hl=ja&geocode=&q=%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92&aq=&sll=34.385975,132.472721&sspn=0.001647,0.00261&brcurrent=3,0x355aa1fc2f17fc59:0xa497565de773e985,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%8D%97%E5%8C%BA%E6%AF%94%E6%B2%BB%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92&layer=c&cbll=34.387447,132.474164&panoid=_C8OOA-zNxL77PRJeQuSyQ&cbp=12,32.98,,0,2.13&ll=34.387522,132.474164&spn=0.0068,0.011705&z=14&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 比治山公園ストリートビュー]


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2012年9月12日 (水) 02:46時点における版

比治山
標高 70.88 m
所在地 広島県広島市南区比治山公園5番(官有無地番)
位置
比治山の位置(日本内)
比治山
北緯34度22分58.8709秒 東経132度28分23.3281秒 / 北緯34.383019694度 東経132.473146694度 / 34.383019694; 132.473146694座標: 北緯34度22分58.8709秒 東経132度28分23.3281秒 / 北緯34.383019694度 東経132.473146694度 / 34.383019694; 132.473146694
プロジェクト 山
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比治山(ひじやま)は、広島県広島市南区に位置する標高約70mの小高い

概要

名前の由来は諸説ある。ここに比治某という人物が住んでいたためとも、山の姿が肘を横にした形に似ているからとも[1]

広島が中世時代「五箇庄」といわれていた寒村の頃には、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。 具体的には現在の中区白島(はくしま)が箱島(はこしま)、中区江波(えば)江波山及び江波皿山は江波島(えばじま)、南区黄金山(おうごんざん)仁保島(にほじま)、そして比治山は日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていた。

全体が比治山公園であり、市中心部における市民の憩いの場の一つである。市内有数の桜の花見のスポットとして開花時期には多くの人で賑わい、ぼんぼりが飾られ夜桜を見ることもできる。

園内には広島市現代美術館、全国初の公立の漫画図書館である広島市立まんが図書館展望台などがある。他に皇室ゆかりのものや、比治山陸軍墓地を始め戦時の軍需拠点だった歴史を物語るように山のあちこちに戦没者を弔う石碑、戦後の進駐軍による原爆研究施設だった旧原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)など、バラエティに富んでいる。

沿革

安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
安芸国広島城所絵図(1644年頃)。右下が比治山にあたりこのころには干拓により海辺近くになっていたとわかる。右上が二葉山。
1930年頃の廣島市の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には比治山神社、南部には陸軍墓地が記載されている。
1930年頃の廣島市の地図。比治山は中心やや右にある。比治山の北部には比治山神社、南部には陸軍墓地が記載されている。
原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。
原爆被害分布図。赤色の「Extend of Fire」(焼失範囲)が示す通り比治山を境に被害の差が出ている。

縄文時代草創期には孤島であったが、縄文晩期になると太田川が上流から運んだ土砂が堆積し周辺を遠浅の海あるいは干潟を形成した[2]。比治山にはこの頃から人類が住んでいた[2]古代、比治山の北にある二葉山の麓まで海で、菅原道真大宰府に左遷される際に休憩のため二葉山に船で寄せている[3]

中世、1400年代には太田川下流域の三角州の頂部付近(現在の白島)が発達し、1500年代後半には現在の平和大通り付近まで陸地が形成されている[4]ことから、ここが本州と完全に陸続きになったのはこの頃である。

戦国時代毛利元就がこの地を支配したことが転機となる。元就は拠点をこの地に移すことを考え始め[5]、一説には比治山が候補地となっていたとされている[6]

広島城築城以降、この地は発達した。比治山の北側には西国街道が通り商業地として発達した[7]。南側は江戸時代から干拓が始まり明治以降も続いた[4]

比治山自体は、江戸時代は藩有林・明治末期まで国有林であった[8][9]。1902年(明治31年)年に江波山とともに公園として整備することが許可され、1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした[10][9]。戦前から市内有数の桜の名所であった[9]。また1909年(明治42年)に御便殿がここに移ってくると、それも観光名所となった。

戦中船舶砲兵団司令部陸軍船舶兵)や電信第2連隊が駐屯していた[11]

1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約1.8キロメートル離れたところに位置した。爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった[7]。被爆当日は多聞院が臨時の広島県庁として機能した。市内中心部の被爆者はここに多数逃げ込んでいる[7]

戦後も、公園として整備された[7]。1949年(昭和24年)原爆傷害調査委員会(ABCC)が開所している[7]

なお、戦前から1986年(昭和61年)まで東側に宇品線が通り、戦後1966年(昭和41年)から南側に新広島バイパス国道2号)が通っている。

1980年(昭和55年)、広島市が政令指定都市になったことを記念して「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれた。あわせて博物館建設構想が上がり、広島市現代美術館広島市立まんが図書館が建設された[12]

1990年代には、山を貫通する比治山トンネルが整備され、広島市中心部と段原地区とのアクセスが改善された。

比治山から広島市内を望む。

地理/自然

地理

太田川水系支流の猿猴川京橋川に挟まれた土地に位置し、その2つの川の分岐点の南にある。上記沿革のとおり、周囲は平野である。

比治山は、比治山トンネル付近で南北に二分される。南側に頂上がある。頂部は比較的平坦に整地されているがその周りは急斜面になっている。周辺の土地開発により、元の山形は留めていない[7]

地質

太田川下流域の特徴である、広島花崗岩類とそれが風化して堆積した「マサ土」で形成されている[4]。ここの花崗岩は、毛利輝元による広島城築上の際に石垣として採用されている[13]

生態系

市中心部では黄金山とともに自然豊かな場所である。

中世から渡り鳥の休憩地として著名で[8][14]、江戸時代にはソデグロヅルが飛来していた[13]。現在鶴見橋がある付近に広島藩による鶴の飼育場が設けられていて、これが鶴見橋の名前の由来となっている[13]。現在は鶴は見られないが、マミチャジナイキビタキの渡り鳥が確認されている[14]

また江戸時代ここは藩有林で伐開や狩猟禁止であったことから多くの生物が存在し、ハヤブサイノシシなどが生息していた[13][8]。当時領内でイノシシ被害にあった記録が残っている[8]

上記の通り、市内有数の桜の名所であり、1300本のが咲く季節には平和記念公園などとともに花見のスポットとして多くの人でにぎわう。

施設

主な施設

比治山貝塚

県および市の史跡。縄文時代後期から晩期にかけての貝塚である。比治山南麓にある[15][16][17]

当時広島湾内に浮かぶ島の海岸線付近に存在したと考えられている[15]。大正時代にその存在が確認されていたが、当時この付近は軍用地であったため発掘作業は行われなかった[17]。最初の出土は1832年(昭和7年)の軍による工事中の時のことである[17]。戦中はこの地に軍施設が整備され、その際に遺跡の主要部分が破壊された[15][16]

戦後、松崎寿和広島大学教授らが1948年・1949年(昭和23・24年)の2度に渡り発掘を行い、上下2層からなる貝塚が発見された[15][16]。主な出土品は以下のとおり[15][17]

  • 土器
    • 灰褐色磨研土器(上層から)
    • 縄文土器(下層から)
    • 同心円状の磨消縄文土器(下層から)
  • 石器 - 安山岩
    • 石錘
    • 石鏃
    • 石匙
  • 貝 - 全体の70%がハマグリ。上層に行くにつれ淡水系の貝が増えている。
  • その他動物の骨 - シカやタイ

これら出土品から当時漁や狩猟で生計を立てていたと考えられている[15][16][17]。なお、弥生時代のものは出土していない。これは、稲作が主体となったことにより、それに適した土地へ移っていたためと考えられている[17]

御便殿跡

山の北側、現在広島市立まんが図書館がある広場は、通称・御便殿跡(ごべんでんあと)と呼ばれる。ここは日清戦争時に広島大本営とともに基町広島城内に併設された明治天皇の行在所(御便殿)を、1909年(明治42年)に所有が広島市へ移りこの地に移したもの[9]。以降、戦前の広島市における観光名所の一つとなった。

1913年(大正2年)明治天皇葬場殿の儀の際、青山斎場(現明治神宮外苑)に建てられた大鳥居がここに移築され、銅板で巻かれた[9][18]。御便殿の傍らには大正天皇即位を記念して、1918年(大正7年)絵馬堂式の建築様式で「大記念館」が建てられた[18]

1945年昭和20年)8月6日原爆で広場の北側にあった建物は無くなったが、基礎の石垣部分は1980年半ば頃まで残っていた。その石垣の南側には1970年頃まで、動物小屋が幾つかあり小動物が飼われてミニ動物園のようになっていた。広島市安佐動物公園開園でそこへ動物は引き取られ小屋は撤去され、御便殿の石垣ともども現在は無い。

近辺には昭和天皇関連の碑もある。即位直前の1925年大正15年)5月26日に祖父の明治天皇ゆかりの地であるここに立ち寄って市内展望を行っている。それを記念して建てられた「皇太子殿下御展望記念碑」がある。さらに広場の入口に、昭和天皇即位記念として1928年(昭和3年)11月19日に建立された「御大典記念碑」[9]がある。

旧陸軍墓地(比治山南広場)

1872年(明治5年)鎮西鎮台の兵士を弔う国有墓地として整備された。元々は放射線影響研究所の一帯を占めていたが、戦後進駐軍がABCC建設を強行した際にその敷地内の墓地遺骨を破棄している。

戦前戦中の小学校教科書に登場した木口小平の名前が刻まれている合祀碑や、小山内建広鳥衛戌病院長(小山内薫岡田八千代の父親)の本墓がある。

なお、現在は国有墓地として認められていないため、「比治山南広場」が正式名称である。

NHK比治山テレビ放送所

広島親局送信所の一つ。

1950年、NHK広島放送局の「比治山テレビ放送所」として開所した。当時は流川にあった本局で映像を編集後、タクシーでここまで持ち込んで放送という形が取られており、17人の常勤技術者が滞在していた。1971年より無人化[19]

その他

比治山公園
分類 芸術公園
運営者 広島市(南区維持管理課)
駐車場 125台(大型バス可)
告示 1902年
テンプレートを表示

公園内に美術系モニュメントがあちこちにある。

  • 加藤友三郎および早速整爾銅像台座 - 太平洋戦争前に建てられたが金属類回収令により現在は台座部分のみ残っている。
  • 正岡子規句碑「鶯の 口のさきなり 三萬戸」 - 日清戦争時に従軍記者として広島に訪れた際に幾つか詠んだ句の一つであり、句集「寒山落木」の中の一句が刻まれた石碑がある[1]
  • 原爆被災説明板 - 比治山から被爆後の市内を撮影した写真とともに被災状況を説明している[20]
  • 雲霓橋 - 1929年(昭和4年)、広島市主催の「昭和産業博覧会」が開催された際にかけられた橋。元々は吊り橋だった[21]
  • 展望台・トイレ・自動販売機

アクセス

比治山下電停近くの入口。
比治山下電停近くの入口。
比治山スカイウォーク
比治山スカイウォーク

山へのアクセスは、旧来からある5号線比治山下電停近くの入口と、1990年代に整備された比治山スカイウォークが一般的なアクセスになる。

比治山内には駐車場120台(比治山への車の乗り入れは夜23時-翌5時まで禁止)整備されている。山のふもとの広島イースト(旧・広島サティ)3階から、比治山スカイウォークの動く歩道とエスカレーターで山頂まで行くことができる。広島イーストの駐車場も利用する事が出来る。

関連項目

脚注

  1. ^ a b 寒山落木”. 広島県. 2012年8月27日閲覧。
  2. ^ a b 熊野町史 通史編 第2章第2節 縄文時代” (PDF). 熊野町立図書館. 2012年8月27日閲覧。
  3. ^ 尾長天満宮”. 広島県. 2012年8月27日閲覧。
  4. ^ a b c 太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要” (PDF). 国土交通省. 2012年8月27日閲覧。
  5. ^ 築城前の広島”. 広島城公式. 2012年8月27日閲覧。
  6. ^ 毛利氏の広島城築城と当時の町割り”. ひろしま通マップ. 2012年8月27日閲覧。
  7. ^ a b c d e f #原爆戦災誌、390頁
  8. ^ a b c d しろうや!広島城 No.16” (PDF). 広島城. 2012年8月27日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2012年8月27日閲覧。
  10. ^ 広島平和記念都市建設計画における分野別の計画”. 広島市. 2012年8月27日閲覧。
  11. ^ #原爆戦災誌、19頁
  12. ^ 南区を歩こう(比治山)”. 広島市. 2012年8月27日閲覧。
  13. ^ a b c d しろうや!広島城 No.7” (PDF). 広島城. 2012年8月27日閲覧。
  14. ^ a b 広島県における感染症媒体蚊の生息状況” (PDF). 広島県保健環境センター. 2012年8月28日閲覧。
  15. ^ a b c d e f 比治山貝塚”. 広島県. 2012年8月27日閲覧。
  16. ^ a b c d 比治山貝塚”. 広島県. 2012年8月27日閲覧。
  17. ^ a b c d e f 県史跡 比治山貝塚”. 広島市文化財団. 2012年8月27日閲覧。
  18. ^ a b 比治山の旧陸軍墓地”. 住吉神社. 2012年8月27日閲覧。
  19. ^ 比治山放送所と放送の歴史”. NHK広島放送局. 2012年8月27日閲覧。
  20. ^ 32廃墟と化した広島市街地(比治山公園内)”. 広島市. 2012年8月27日閲覧。
  21. ^ 雲霓(うんげい)橋”. 広島市. 2012年8月27日閲覧。

参考資料

外部リンク