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「ジャラールッディーン・メングベルディー」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{改名提案|ジャラールッディーン・メングベルディー|date=2012年1月}}
| 人名 = ジャラールッディーン・マングビルディー
'''ジャラールッディーン・メングベルディー'''({{lang|fa|'''جلال الدين منكبرتي'''}} {{lang|fa-Latn|Jalāl al-Dīn Menguberdī}}、? - [[1231年]])は、[[ホラズム・シャー朝]]の第8代[[スルターン]](在位[[1220年]] - 1231年)。'''ジェラール・ウッディーン'''とも。
| 各国語表記 = {{lang|fa|جلال الدين منكبرتي}}
| 君主号 =
| 画像 = UZB-25s.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = [[ウズベキスタン]]の[[スム|25スム]]硬貨に刻まれたジャラールッディーン像
| 在位 = [[1220年]] - [[1231年]]8月15日
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = 生年不明
| 生地 =
| 死亡日 = [[1231年]][[8月15日]]
| 没地 = アーミド(現在の[[ディヤルバクル]])の山中
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 =
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 子女 =
| 王家 = アヌーシュテギーン家
| 王朝 = [[ホラズム・シャー朝]]
| 父親 = [[アラーウッディーン・ムハンマド]]
| 母親 =
| 宗教 =
| サイン =
}}


'''ジャラールッディーン・メングベルディー'''({{lang|fa|'''جلال الدين منكبرتي'''}} {{lang|fa-Latn|Jalāl al-Dīn Menguberdī}}、? - [[1231年]])は、[[ホラズム・シャー朝]]の第8代[[スルターン]](在位[[1220年]] - 1231年)。『[[元史]]』では'''札闌丁'''、『[[元朝秘史]]』では'''札剌勒丁莎勒壇'''と音写される。
第7代[[アラーウッディーン・ムハンマド]]の子。軍事的才幹に優れていたが、宮廷内の対立から[[カンクリ|カンクリ部族]]出身の祖母に疎まれて中央から遠ざけられ、ホラズム・シャー朝領南部の[[ガズナ]](現[[アフガニスタン]]東部)の総督となって任地に赴任していた。


=== 若年期 ===
[[1219年]]に[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]が中央アジアに侵攻して諸都市が破られてホラズム・シャー朝が崩壊し、翌年アラーウッディーンが逃亡先の[[カスピ海]]で病死すると、[[1221年]]に[[ホラズム]]地方の首都[[ウルゲンチ]]に戻ってスルターンに即位した。
[[File:KonyeUrgenchMinaret.jpg|thumb|200px|クフナ・ウルゲンチの[[ミナレット]]]]
ホラズム・シャー朝のスルターン・[[アラーウッディーン・ムハンマド]]の子として生まれる<ref name="cmd1-168">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、168頁</ref>。伝記によれば彼の母は[[インド亜大陸|インド]]の出身であり、そのために黒みがかった肌をしていたという<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、65頁</ref>。


[[1216年]]夏ごろ<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、183頁</ref>、[[メルキト|メルキト族]]の一団とそれを追う[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍の一隊がホラズム・シャー朝の領土に侵入する事件が起きる。アラーウッディーンは二つの軍を討つべく進軍し、ジャラールッディーンは一軍を率いて父に従軍した。ホラズム軍が両軍と接触する前に、メルキト族はモンゴル軍によって壊滅させられており、ホラズム軍と接触したモンゴル軍からは友好の意思が示され、彼らより戦利品の一部が贈られた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、181-182頁</ref>。それにも関わらずアラーウッディーンはモンゴル軍に戦いを挑み、ジャラールッディーンはホラズム軍の右翼を率いてモンゴル軍を破った。他方、アラーウッディーンの指揮する中軍は壊滅の危機に陥っており、ジャラールッディーンは父の救援に駆けつけて奮戦し、モンゴル軍を撤退に追い込んだ<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、182頁</ref>。
ジャラールッディーンはすぐに本拠地のガズナに戻って再挙を図り、地元の有力者を糾合して兵を集めた。同年には[[カーブル]]近郊のパルヴァーンで[[シギ・クトク]]率いる[[モンゴル]]軍の先鋒隊を破ってモンゴルに対する最初の大規模な勝利を収める([[パルワーンの戦い]])。しかし、この報を受けたチンギス・ハーンは、[[中央アジア]]の[[サマルカンド]]に駐留していた本軍を率いてアフガニスタンに南下したため、ジャラールッディーンは各地で破られて兵を減らし、[[インダス川]]まで南下した。インダス河畔のディンコートで行われた決戦でジャラルッディーンは敗れたが、インダスの濁流に馬で乗り入れて渡りきり、生き残った少数の部下とともに[[インド亜大陸|インド]]に逃げ込んだ([[インダス河畔の戦い]])。チンギス・ハーンがこのようなジャラールッディーンの姿に驚嘆し、王子に向かって「男子たるものはあのようでなければならない」と語ったという逸話が残されている。


[[ヒジュラ暦]]614年(西暦[[1217年]] - [[1218年]])にアラーウッディーンが行った[[バグダード]]遠征の後、旧[[ゴール朝]]領の[[ガズナ]]、[[バーミヤーン]]、[[ゴール州|ゴール]]など、現在の[[イラン]]東部から[[アフガニスタン]]にかけての地域を領地として与えられた<ref name="cmd1-168"/>。
インドでジャラールッディーンは[[奴隷王朝]]の[[イルトゥトゥミシュ]]を頼ってモンゴル軍との戦いを続けようとしたが、断られたので[[1224年]]にインドから[[イラン]]に戻り、モンゴル軍の主力が[[モンゴル高原]]に帰還した隙を突いて[[イラン高原]]中部の主要都市[[エスファハーン|イスファハーン]]に入った。しかし、[[ホラーサーン]]に駐留して中央アジア・イランを守備していたモンゴル軍によって攻撃され、[[アゼルバイジャン]]方面に逃れる。[[タブリーズ]]を本拠地としたジャラールッディーンは[[グルジア]]の[[トビリシ|ティフリス]]を征服するなど、南[[カフカス]]から東部[[アナトリア半島|アナトリア]]、[[歴史的シリア|シリア]]方面の諸勢力と戦って勢力を広げた。


=== モンゴル帝国の侵入 ===
しかし、活発すぎる活動と、周辺諸国に対する略奪によって[[アナトリア]]を支配する[[ルーム・セルジューク朝]]とシリアを支配する[[アイユーブ朝]]との関係を悪化させ、[[1230年]]に[[エルズィンジャン|エルジンジャン]]近郊のヤッス・チメンで[[カイクバード1世]]率いるルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝の連合軍に敗れて勢力を失った。さらに、モンゴル帝国の[[ハーン|大ハーン]]、[[オゴデイ]]が派遣した追討軍が背後に迫り、アゼルバイジャンを追われた。
[[File:Alal al-Din Khwarazm-Shah crossing the rapid Indus river, escaping Chinggis Khan and his army.jpg|thumb|200px|[[インダス河畔の戦い]]]でのジャラールッディーンの渡河]]
[[1219年]]より[[チンギス・カンの西征|モンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃]]が開始されると、アラーウッディーンは[[トランスオクシアナ]]を放棄して逃亡する。この時にジャラールッディーンは退却に反対し、自分に軍を預けるよう説いたが、アラーウッディーンは彼の切望を容れなかった<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、209-210頁</ref>。


アラーウッディーンがモンゴル軍の攻撃を避けて[[カスピ海]]の小島{{仮リンク|アバスクン島|en|Abaskun}}に逃れた時、ジャラールッディーンも弟のウズラグ・シャー、アークシャーと共にアバスクン島に落ち延びた<ref name="mori">護「ジャラールッ・ディーン・マングビルティー」『世界伝記大事典 世界編』5巻</ref><ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、217頁</ref>。モンゴルの攻撃が始まる前にホラズム・シャー朝の皇太子に指名されていたのは末弟のウズラグ・シャーであったが、病床にあったアラーウッディーンはジャラールッディーンが国を救える人物であるとして、ウズラグ・シャーに代わって彼を後継者に指名した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、219頁</ref>。父が病死した後にジャラールッディーンはウズラグ・シャーらと島を脱し、{{仮リンク|マンギシュラク半島|en|Mangyshlak Peninsula}}<ref group="注">現在の[[マンギスタウ州]]に属する。</ref>を経て首都[[クフナ・ウルゲンチ]]に帰還し、[[1221年]]にスルターンに即位した。彼の入城はクフナ・ウルゲンチの市民より歓迎を受けたが、ホラズム・シャー朝の軍隊の中心を成す[[カンクリ|カンクリ族]]の集団は、傀儡に適したウズラグ・シャーを擁立するため、ジャラールッディーンを殺害しようと企みを巡らせた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、226-227頁</ref>。陰謀を察知した彼はただちにクフナ・ウルゲンチを脱し、モンゴル帝国の追撃を逃れた将校[[ティムール・メリク (ホラズム・シャー朝)|ティムール・メリク]]と合流した後、モンゴルの包囲網を破って[[ニシャプール]]に逃れた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、227-228頁</ref><ref name="mori"/>。
ジャラールッディーンは東アナトリアに逃れ、山中の諸都市を転々としたが、[[ディヤルバクル]]に滞在中にジャラールッディーンに怨恨をもった地元の[[クルド人]]に襲われ、殺害された。


4日間のニシャプール滞在の後、1221年[[2月10日]]にニシャプールを発ち、モンゴル軍の追撃をかわして領地のガズナに辿り着いた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、256頁</ref>。ジャラールッディーンの留守中、ホラズム・シャー朝の将軍たちがガズナの支配権を巡って争っていたが、ジャラールッディーンは彼らホラズムの人間とカンクリ族、加えてゴール人や[[オグズ|トゥルクマーン]]などの現地の民族を糾合して兵を集め、その数は60,000から70,000人にのぼった<ref name="mori"/>。同年春にワーリヤーン<ref group="注">[[バクトリア|トハリスタン]]に存在した城砦。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、261頁)</ref>をモンゴル軍の包囲から救い、モンゴル軍司令官[[シギ・クトク]]率いる30,000のモンゴル軍を[[カーブル]]近郊のパルワーンで破って大勝を収める([[パルワーンの戦い]])<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、259-261頁</ref>。

しかし、パルワーンの戦いで得た戦利品の分配を巡って問題が起こる。カラジ族<ref group="注">インダス川、[[ガンジス川]]の間で遊牧生活を営んでいた民族。[[テュルク系民族]]と混血した[[アラブ人|アラブ系民族]]といわれている。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、259頁)</ref>と[[オグズ|トゥルクマーン]]の指導者であるサイフッディーン・アグラークやゴール人の指導者アザム・マリクら、ジャラールッディーンの裁定を不服とした一団が軍より離脱し、ホラズム軍の兵数は半減した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、261-262頁</ref><ref name="mori"/>。

シギ・クトク敗戦の報を受けたチンギス・カンは、[[中央アジア]]に駐留していた本軍を率いてアフガニスタンに急行し、チンギス・カンの接近を知ったジャラールッディーンは南に退却する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、262頁</ref>。モンゴル軍は[[インダス川|インダス河畔]]でジャラールッディーンに追い付き、包囲攻撃によってホラズム軍を壊滅に追い込んだ([[インダス河畔の戦い]])。ジャラールッディーンは700人の兵士を率いて数度の突撃を敢行するがモンゴルの包囲を突破できず、最後の突撃でモンゴル軍をひるませた後、鎧を脱いで乗馬もろともインダスの濁流に飛び込んだ。彼は盾を背負って旗を握った状態で馬に乗ってインダス川を渡り切り、河畔に着いたチンギス・カンは追撃を行おうとする兵士を止め、付き従う皇子たちに彼を模範とするように言った<ref name="CMD1-264">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、264頁</ref>。彼に続いて川に飛び込んだホラズム兵の多くはモンゴル軍に射殺され、彼の家族は捕らえられ、男児は処刑された<ref name="CMD1-264"/>。

=== インド滞在、中央アジアへの帰還 ===
生き延びた少数の部下とともにインド北部の[[パンジャーブ]]地方に逃げ込んだジャラールッディーンが最初に行ったのは、物資を調達するための略奪だった<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、265頁</ref>。バラ、ドルベイ率いるモンゴルの追撃隊が接近していることを知ると、彼はさらに[[デリー]]に南下した。彼を見失ったバラ、ドルベイは[[シンド州|シンド]]地方の王侯{{仮リンク|ナースィルッディーン・カバーチャ|en|Nasir-ud-Din Qabacha}}の統治する[[ムルターン]]を攻撃するが攻めあぐね、酷暑に耐えかねて中央アジアに戻っていった<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、267頁</ref>。

[[1222年]]にジャラールッディーンは[[奴隷王朝]]のスルターン・[[シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ]]に保護を願い出るが丁重な断りを受け、パンジャーブに戻り、敵対していたカバーチャを攻撃する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、4-5頁</ref>。しかし、イルトゥトゥミシュやカバーチャら北インドの諸勢力が連合するに及んで、部下の勧めによって[[ペルシア]]への帰還を決意した。部下の中には将軍ウズベクのようにモンゴルからの攻撃を避けるためにインドに留まるべきだと進言する者もいたが、彼はウズベクにインドの統治を任せ、3年の滞在を終えて帰国の途に就いた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、6頁</ref>。

ジャラールッディーンがインドに逃れる前後に、ホラズム・シャー朝の都市の多くがモンゴルの手に落ち、ジャラールッディーンの兄弟たちのほとんどが戦死した。ジャラールッディーンに遅れてクフナ・ウルゲンチから脱出したウズラグ・シャーとアークシャーは逃走中に追撃を受けて戦死し<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、229頁</ref>、イラク方面を所領としていた兄弟のルクヌッディーンも6か月に及ぶ籠城戦の末に降伏を拒んで落命した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、301頁</ref>。別の兄弟[[ギヤースッディーン・ピール・シャー|ギヤースッディーン]]はホラズム・シャー朝の君主として[[イラク]]、[[ホラーサーン]]、[[マーザンダラーン州|マーザンダラーン]]を統治していたが、近隣の領主と対立しており、将兵たちの中にはジャラールッディーンの元に逃亡する者もいた。

[[1223年]]にジャラールッディーンの軍は、砂漠を横断して[[ケルマーン]]地方に到着する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、7頁</ref>。ケルマーンの領主バラク・ハージブ([[ケルマーンのカラ・キタイ朝]]の建国者)を帰順させ、[[シーラーズ]]を統治していた[[アタベク]]政権のサルガル朝と婚姻関係を築いたが、いずれの勢力もギヤースッディーンと敵対していた。ギヤースッディーンの統治する[[エスファハーン|イスファハーン]]に進軍し、将校たちの支持を受けてギヤースッディーンより支配者の地位を奪還した<ref name="CMD4-1112">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、11-12頁</ref>。ギヤースッディーンの一派、モンゴル侵入後の混乱期にイラク、ホラーサーン、マーザンダラーンで独立した領主たちがジャラールッディーンの元に出頭すると、彼らの行為に応じて赦免、あるいは懲罰を与え、彼の権威は領内に行き渡った<ref name="CMD4-1112"/>。

=== コーカサス、西アジア諸国との戦争 ===
[[1224年]]から[[1225年]]にかけてジャラールッディーンは[[フーゼスターン州|フジスタン]]([[チグリス川]]下流近辺の地域)の[[アッバース朝]]領に侵入し<ref name="mori"/>、略奪とフジスタンの中心都市[[シューシュタル]]の包囲を行った。フジスタン侵入の後にバグダードに進軍するが、進軍に先立ってジャラールッディーンは[[ダマスカス]]・[[アイユーブ朝]]の王侯アル=ムアッザムにアッバース朝への攻撃を誘いかけた。書簡には、アッバース朝のカリフ・[[ナースィル]]がモンゴル軍を扇動してホラズム・シャー朝を攻撃させたことへの非難が書かれていたが、ムアッザムは攻撃要請には応じなかった<ref name="CMD4-13"/>。彼は単独で軍事行動を行わなければならなくなったが、寡兵をもって将校クシュ・ティムールが率いる20,000人のアッバース朝軍を破り、イラク北部の[[ダフーク|ダクーカー]]を攻略した<ref name="CMD4-13">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、13頁</ref>。アッバース朝の援軍要請に応じた[[アルビール|イルビル]]の支配者ムザッファル<ref group="注">トゥルクマーン系国家であるベクテギン朝の最後の君主。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、14頁)</ref>の進軍を知ると、少数の兵士を引き連れて奇襲を行い、ムザッファルを捕虜とした<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、13-14頁</ref>。結局、バグダード攻撃は行われず、ジャラールッディーンは攻撃先を[[アゼルバイジャン]]へと変えた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、14頁</ref>。

アゼルバイジャンへの行軍中に叔父ヤガン・タイシの軍を併合し<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、15頁</ref>、1225年に[[タブリーズ]]を首都とするアタベク政権イル・ドュグュズ朝(イルデギズ朝)を滅ぼした<ref name="itani131">井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、131頁</ref>イル・ドュグュズ朝の君主ムザッファル・ウッディーン・ユズベクの妻マリキに占領地の統治を委任し<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、16頁</ref>、次いでキリスト教国である[[グルジア王国]]の遠征に向かった。1225年から[[1226年]]3月にかけてのグルジア遠征は、タブリーズでの反乱鎮圧のために一時中断されたが、王国の首都[[トビリシ|ティフリス]]の占領に成功し、ジャラールッディーンはイスラム世界の防衛者として名を上げた<ref name="itani131"/>。アイユーブ朝の王侯アル=アシュラフが統治する{{仮リンク|アフラート|en|Ahlat}}(ヒラート)<ref group="注">[[ヴァン湖]]北岸の都市。</ref>に進軍するが、アフラート到着の直後にケルマーンのバラクが反乱を企てている報告を受け、急いでケルマーンに引き返した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、21-22頁</ref>。ジャラールッディーンの進軍を知ったバラクは改めて臣従の意思を示し、ジャラールッディーンもバラクに許しを与えた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、22頁</ref>。バラクの反乱後は城砦に立て籠もったグルジア王国の残兵とホラズム軍の略奪を嫌うアゼルバイジャンの住民の抵抗に手を焼き、アフラートの攻略は不首尾に終わる。そして、ホラズム・シャー朝の東部にモンゴルの大軍が現れる。

開戦の前、ギヤースッディーンが怨恨のために軍隊を率いて離反する事件が起きるが、ジャラールッディーンは不測の事態に動じなかった<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、28頁</ref>。[[1227年]][[8月26日]]にイスファハーンの城外でモンゴル軍を迎え撃ち、モンゴル軍の左翼を敗走させるが、勝利後に再度行った突撃はモンゴル軍の伏兵によって阻まれ、ホラズム軍は潰走する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、28-29頁</ref>。勝利したモンゴル軍の被害も大きく、彼らはイスファハーンへの攻撃を行わずに退却したが、ジャラールッディーンの行方は知れず、廷臣やイスファハーンの市民の中には彼が死んだと考える者もいた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、30-31頁</ref>。ジャラールッディーンに代わる君主が擁立される直前、彼は民衆の前に姿を現し、彼の姿を見た群衆は歓喜に沸いたという<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、31頁</ref>。

一方、[[コーカサス]]地方ではジャラールッディーンに対抗するべく、グルジア人、[[キプチャク|キプチャク人]]、[[アラン人]]などの民族が連合を組んでアッラーン地方<ref group="注">[[アラス川]]北岸の内陸部を指す。</ref>の北部に集結しており、その兵力は40,000人に及んだ<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、36頁</ref>。ホラズム軍の兵力は連合軍に劣るものであったが、ジャラールッディーンは宰相シャラフ・アル=ムルクの兵糧攻めに持ち込むべきだという提案を却下し、正面から衝突した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、36-37頁</ref>。連合軍のうち20,000を占めるキプチャク人に対しては、かつて彼らがホラズム軍の捕虜となった時に、ジャラールッディーンが彼らの助命を嘆願した恩を説いて撤退させ、グルジアには両軍の戦士による一騎打ちを提案した<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、37-38頁</ref>。翌日行われた試合ではジャラールッディーン自らが5人のグルジア兵を討ち、その余勢を駆ってグルジア軍に勝利した<ref name="CMD4-38">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、38頁</ref>。

=== アナトリアでの敗北、最期 ===
コーカサスの連合軍に勝利した後、[[1229年]]7月<ref name="CMD4-38"/>よりジャラールッディーンは第二次アフラート包囲を開始する。アフラート攻略中にアーミド(現在の[[ディヤルバクル]])の[[アルトゥク朝]]、[[エルズルム|エルゼルム]]などの[[アナトリア半島|アナトリア]]東部の領主から臣従の誓いを受け、アッバース朝のカリフ・[[ムスタンスィル]]と講和し、ペルシア王の地位と[[シャー|シャーハンシャー]]の称号を認められる<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、39-40頁</ref>。6か月の包囲の末にアフラートを占領し、欠乏した物資を補うために市内を略奪した<ref name="mori"/><ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、44-45頁</ref>。アフラート包囲の最中、ジャラールッディーンは[[ルーム・セルジューク朝]]のスルターン・[[カイクバード1世]]に使者を送り、東西の非イスラム勢力に対抗するための同盟を結ぶことを提案する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、42頁</ref>。しかし、締結の条件とエルゼルムの帰属を巡って交渉は決裂し、カイクバード1世はアフラートのアシュラフと同盟を結んだ<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、43-44頁</ref><ref name="itani131"/>。

カイクバード1世とアシュラフの連合軍がアフラートに進軍すると、ジャラールッディーンはエルゼルムの領主ルクヌッディーン・ジハーンシャーと共に彼らを迎え撃った。ホラズム軍の兵士は各地に分散していたため十分な数が集まっていなかったが、なおも進軍を止めなかった。[[1230年]]8月に[[エルズィンジャン]]近郊のヤッス・チメンで20,000のルーム・セルジューク朝=アイユーブ朝連合軍と交戦するが、ホラズム軍は大敗を喫する<ref>井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、160頁</ref>。ジャラールッディーンはカイクバード1世、アシュラフと講和するが、配下の将校は彼を見限り、勢力を減退させる<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、49-50頁</ref>。さらに、モンゴル帝国の[[ハーン|大ハーン]]、[[オゴデイ]]が派遣した追討軍がイラクに迫った。

ムーガーン平原<ref group="注">アッラーン地方の一地区。現在のアゼルバイジャン東部。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、52-53頁)</ref>の戦いで[[チョルマグン]]が率いるモンゴル軍に敗れたジャラールッディーンは[[カパン]]に逃れ、アシュラフに連合の結成を説いた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、53頁</ref>。また、ホラズム軍の敗戦はタブリーズなどのアゼルバイジャン各地の都市に反乱を招いた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、56頁</ref>。この危機的状況の中、書記のムハンマド・アン=ナサウィーの尽力でアゼルバイジャンのトゥルクマーン人がホラズム軍の傘下に入り<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、56-57頁</ref>、密かに反乱を企てていたシャラフ・アル=ムルクが誅殺された。アシュラフらアイユーブ朝の王侯が同盟の要請を拒絶したため<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、59-61頁</ref>、一度は物資と資金が蓄えられているイスファハーンに戻ることを企てたが<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、60,62頁</ref>、アルトゥク朝の招きに応じてアーミドに向かった。しかし、マイヤーファーリキーン(現在の{{仮リンク|シルワーン|en|Silvan, Turkey}})でモンゴル軍の奇襲を受けて従者の大部分を失い、追手を退けて辛うじて山地に逃亡した。山中で地元の[[クルド人]]に捕らえられ、殺害されかけるが身分を明らかにして褒賞を約束し、一度は危機を乗り切った<ref name="CMD4-6465">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、64-65頁</ref>。しかし、クルド人の集落に拘束された時、ホラズム軍に怨恨を持つ別のクルド人によって刺殺され、生涯を終える<ref name="CMD4-6465"/>。

== 死後の影響 ==
死後、イルビルのムザッファルによって遺骨と遺品が探し出され、陵墓に埋葬された<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、67頁</ref>。モンゴルに対して抗戦したジャラールッディーンの死を信じようとしないものも多く<ref name="mori"/>、殺害された直後にはアナトリア東部でジャラールッディーンが再起を図る噂が流れた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、12頁</ref>。死後数年の後も彼を目撃した噂が流れ、特に彼が生前統治していたペルシア地方において多く聞かれた<ref name="CMD4-68">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、68頁</ref>。ジャラールッディーンの名を称する者もたびたび現れたが、彼らはモンゴル軍に引き渡され処刑された<ref name="CMD4-68"/>

== 伝記 ==
書記のシハーブッディーン・ムハンマド・アン=ナサウィーが記した伝記が現存する。彼はジャラールッディーンがインドから帰国した直後に仕官し、マイヤーファーリキーンの夜襲に至るまで仕えた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、11頁</ref>。モンゴル軍の襲撃から生き延びたムハンマド・アン=ナサウィーはアナトリア東部を放浪した後、[[イブン・アスィール]]の著書『完史』に感銘を受けて、[[1241年]]よりジャラールッディーンの伝記の執筆に取り掛かった<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、11-12頁</ref>。全108章から成る伝記はアラーウッディーン・ムハンマドの治世末期からジャラールッディーンの最期までが記され、[[1891年]]から[[1892年]]にかけて[[フランス語]]による訳注が出版された<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、10,12頁</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 引用元 ===
<references/>

== 参考文献 ==
* [[井谷鋼造]]「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録([[永田雄三]]編, 新版世界各国史, [[山川出版社]], 2002年8月)
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|C.M.ドーソン]]『モンゴル帝国史』1巻([[佐口透]]訳注,[[東洋文庫 (平凡社)]], [[平凡社]], 1968年3月)
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注,東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1973年6月)
* [[護雅夫]]「ジャラールッ・ディーン・マングビルティー」『世界伝記大事典 世界編』5巻(桑原武夫編, [[ほるぷ出版]], 1978年 - 1981年)

== 関連項目 ==
* [[チンギス・カンの西征]]
* [[世界征服者の歴史]]


{{先代次代|[[ホラズム・シャー朝]]スルタン|第8代:1220 - 1231|[[アラーウッディーン・ムハンマド]]|滅亡}}
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2012年1月11日 (水) 13:45時点における版

ジャラールッディーン・マングビルディー
جلال الدين منكبرتي
ウズベキスタン25スム硬貨に刻まれたジャラールッディーン像
在位 1220年 - 1231年8月15日

出生 生年不明
死去 1231年8月15日
アーミド(現在のディヤルバクル)の山中
家名 アヌーシュテギーン家
王朝 ホラズム・シャー朝
父親 アラーウッディーン・ムハンマド
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ジャラールッディーン・メングベルディーجلال الدين منكبرتي Jalāl al-Dīn Menguberdī、? - 1231年)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位1220年 - 1231年)。『元史』では札闌丁、『元朝秘史』では札剌勒丁莎勒壇と音写される。

若年期

クフナ・ウルゲンチのミナレット

ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの子として生まれる[1]。伝記によれば彼の母はインドの出身であり、そのために黒みがかった肌をしていたという[2]

1216年夏ごろ[3]メルキト族の一団とそれを追うモンゴル軍の一隊がホラズム・シャー朝の領土に侵入する事件が起きる。アラーウッディーンは二つの軍を討つべく進軍し、ジャラールッディーンは一軍を率いて父に従軍した。ホラズム軍が両軍と接触する前に、メルキト族はモンゴル軍によって壊滅させられており、ホラズム軍と接触したモンゴル軍からは友好の意思が示され、彼らより戦利品の一部が贈られた[4]。それにも関わらずアラーウッディーンはモンゴル軍に戦いを挑み、ジャラールッディーンはホラズム軍の右翼を率いてモンゴル軍を破った。他方、アラーウッディーンの指揮する中軍は壊滅の危機に陥っており、ジャラールッディーンは父の救援に駆けつけて奮戦し、モンゴル軍を撤退に追い込んだ[5]

ヒジュラ暦614年(西暦1217年 - 1218年)にアラーウッディーンが行ったバグダード遠征の後、旧ゴール朝領のガズナバーミヤーンゴールなど、現在のイラン東部からアフガニスタンにかけての地域を領地として与えられた[1]

モンゴル帝国の侵入

インダス河畔の戦い]でのジャラールッディーンの渡河

1219年よりモンゴル帝国のホラズム・シャー朝攻撃が開始されると、アラーウッディーンはトランスオクシアナを放棄して逃亡する。この時にジャラールッディーンは退却に反対し、自分に軍を預けるよう説いたが、アラーウッディーンは彼の切望を容れなかった[6]

アラーウッディーンがモンゴル軍の攻撃を避けてカスピ海の小島アバスクン島英語版に逃れた時、ジャラールッディーンも弟のウズラグ・シャー、アークシャーと共にアバスクン島に落ち延びた[7][8]。モンゴルの攻撃が始まる前にホラズム・シャー朝の皇太子に指名されていたのは末弟のウズラグ・シャーであったが、病床にあったアラーウッディーンはジャラールッディーンが国を救える人物であるとして、ウズラグ・シャーに代わって彼を後継者に指名した[9]。父が病死した後にジャラールッディーンはウズラグ・シャーらと島を脱し、マンギシュラク半島[注 1]を経て首都クフナ・ウルゲンチに帰還し、1221年にスルターンに即位した。彼の入城はクフナ・ウルゲンチの市民より歓迎を受けたが、ホラズム・シャー朝の軍隊の中心を成すカンクリ族の集団は、傀儡に適したウズラグ・シャーを擁立するため、ジャラールッディーンを殺害しようと企みを巡らせた[10]。陰謀を察知した彼はただちにクフナ・ウルゲンチを脱し、モンゴル帝国の追撃を逃れた将校ティムール・メリクと合流した後、モンゴルの包囲網を破ってニシャプールに逃れた[11][7]

4日間のニシャプール滞在の後、1221年2月10日にニシャプールを発ち、モンゴル軍の追撃をかわして領地のガズナに辿り着いた[12]。ジャラールッディーンの留守中、ホラズム・シャー朝の将軍たちがガズナの支配権を巡って争っていたが、ジャラールッディーンは彼らホラズムの人間とカンクリ族、加えてゴール人やトゥルクマーンなどの現地の民族を糾合して兵を集め、その数は60,000から70,000人にのぼった[7]。同年春にワーリヤーン[注 2]をモンゴル軍の包囲から救い、モンゴル軍司令官シギ・クトク率いる30,000のモンゴル軍をカーブル近郊のパルワーンで破って大勝を収める(パルワーンの戦い[13]

しかし、パルワーンの戦いで得た戦利品の分配を巡って問題が起こる。カラジ族[注 3]トゥルクマーンの指導者であるサイフッディーン・アグラークやゴール人の指導者アザム・マリクら、ジャラールッディーンの裁定を不服とした一団が軍より離脱し、ホラズム軍の兵数は半減した[14][7]

シギ・クトク敗戦の報を受けたチンギス・カンは、中央アジアに駐留していた本軍を率いてアフガニスタンに急行し、チンギス・カンの接近を知ったジャラールッディーンは南に退却する[15]。モンゴル軍はインダス河畔でジャラールッディーンに追い付き、包囲攻撃によってホラズム軍を壊滅に追い込んだ(インダス河畔の戦い)。ジャラールッディーンは700人の兵士を率いて数度の突撃を敢行するがモンゴルの包囲を突破できず、最後の突撃でモンゴル軍をひるませた後、鎧を脱いで乗馬もろともインダスの濁流に飛び込んだ。彼は盾を背負って旗を握った状態で馬に乗ってインダス川を渡り切り、河畔に着いたチンギス・カンは追撃を行おうとする兵士を止め、付き従う皇子たちに彼を模範とするように言った[16]。彼に続いて川に飛び込んだホラズム兵の多くはモンゴル軍に射殺され、彼の家族は捕らえられ、男児は処刑された[16]

インド滞在、中央アジアへの帰還

生き延びた少数の部下とともにインド北部のパンジャーブ地方に逃げ込んだジャラールッディーンが最初に行ったのは、物資を調達するための略奪だった[17]。バラ、ドルベイ率いるモンゴルの追撃隊が接近していることを知ると、彼はさらにデリーに南下した。彼を見失ったバラ、ドルベイはシンド地方の王侯ナースィルッディーン・カバーチャ英語版の統治するムルターンを攻撃するが攻めあぐね、酷暑に耐えかねて中央アジアに戻っていった[18]

1222年にジャラールッディーンは奴隷王朝のスルターン・シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュに保護を願い出るが丁重な断りを受け、パンジャーブに戻り、敵対していたカバーチャを攻撃する[19]。しかし、イルトゥトゥミシュやカバーチャら北インドの諸勢力が連合するに及んで、部下の勧めによってペルシアへの帰還を決意した。部下の中には将軍ウズベクのようにモンゴルからの攻撃を避けるためにインドに留まるべきだと進言する者もいたが、彼はウズベクにインドの統治を任せ、3年の滞在を終えて帰国の途に就いた[20]

ジャラールッディーンがインドに逃れる前後に、ホラズム・シャー朝の都市の多くがモンゴルの手に落ち、ジャラールッディーンの兄弟たちのほとんどが戦死した。ジャラールッディーンに遅れてクフナ・ウルゲンチから脱出したウズラグ・シャーとアークシャーは逃走中に追撃を受けて戦死し[21]、イラク方面を所領としていた兄弟のルクヌッディーンも6か月に及ぶ籠城戦の末に降伏を拒んで落命した[22]。別の兄弟ギヤースッディーンはホラズム・シャー朝の君主としてイラクホラーサーンマーザンダラーンを統治していたが、近隣の領主と対立しており、将兵たちの中にはジャラールッディーンの元に逃亡する者もいた。

1223年にジャラールッディーンの軍は、砂漠を横断してケルマーン地方に到着する[23]。ケルマーンの領主バラク・ハージブ(ケルマーンのカラ・キタイ朝の建国者)を帰順させ、シーラーズを統治していたアタベク政権のサルガル朝と婚姻関係を築いたが、いずれの勢力もギヤースッディーンと敵対していた。ギヤースッディーンの統治するイスファハーンに進軍し、将校たちの支持を受けてギヤースッディーンより支配者の地位を奪還した[24]。ギヤースッディーンの一派、モンゴル侵入後の混乱期にイラク、ホラーサーン、マーザンダラーンで独立した領主たちがジャラールッディーンの元に出頭すると、彼らの行為に応じて赦免、あるいは懲罰を与え、彼の権威は領内に行き渡った[24]

コーカサス、西アジア諸国との戦争

1224年から1225年にかけてジャラールッディーンはフジスタンチグリス川下流近辺の地域)のアッバース朝領に侵入し[7]、略奪とフジスタンの中心都市シューシュタルの包囲を行った。フジスタン侵入の後にバグダードに進軍するが、進軍に先立ってジャラールッディーンはダマスカスアイユーブ朝の王侯アル=ムアッザムにアッバース朝への攻撃を誘いかけた。書簡には、アッバース朝のカリフ・ナースィルがモンゴル軍を扇動してホラズム・シャー朝を攻撃させたことへの非難が書かれていたが、ムアッザムは攻撃要請には応じなかった[25]。彼は単独で軍事行動を行わなければならなくなったが、寡兵をもって将校クシュ・ティムールが率いる20,000人のアッバース朝軍を破り、イラク北部のダクーカーを攻略した[25]。アッバース朝の援軍要請に応じたイルビルの支配者ムザッファル[注 4]の進軍を知ると、少数の兵士を引き連れて奇襲を行い、ムザッファルを捕虜とした[26]。結局、バグダード攻撃は行われず、ジャラールッディーンは攻撃先をアゼルバイジャンへと変えた[27]

アゼルバイジャンへの行軍中に叔父ヤガン・タイシの軍を併合し[28]、1225年にタブリーズを首都とするアタベク政権イル・ドュグュズ朝(イルデギズ朝)を滅ぼした[29]イル・ドュグュズ朝の君主ムザッファル・ウッディーン・ユズベクの妻マリキに占領地の統治を委任し[30]、次いでキリスト教国であるグルジア王国の遠征に向かった。1225年から1226年3月にかけてのグルジア遠征は、タブリーズでの反乱鎮圧のために一時中断されたが、王国の首都ティフリスの占領に成功し、ジャラールッディーンはイスラム世界の防衛者として名を上げた[29]。アイユーブ朝の王侯アル=アシュラフが統治するアフラート英語版(ヒラート)[注 5]に進軍するが、アフラート到着の直後にケルマーンのバラクが反乱を企てている報告を受け、急いでケルマーンに引き返した[31]。ジャラールッディーンの進軍を知ったバラクは改めて臣従の意思を示し、ジャラールッディーンもバラクに許しを与えた[32]。バラクの反乱後は城砦に立て籠もったグルジア王国の残兵とホラズム軍の略奪を嫌うアゼルバイジャンの住民の抵抗に手を焼き、アフラートの攻略は不首尾に終わる。そして、ホラズム・シャー朝の東部にモンゴルの大軍が現れる。

開戦の前、ギヤースッディーンが怨恨のために軍隊を率いて離反する事件が起きるが、ジャラールッディーンは不測の事態に動じなかった[33]1227年8月26日にイスファハーンの城外でモンゴル軍を迎え撃ち、モンゴル軍の左翼を敗走させるが、勝利後に再度行った突撃はモンゴル軍の伏兵によって阻まれ、ホラズム軍は潰走する[34]。勝利したモンゴル軍の被害も大きく、彼らはイスファハーンへの攻撃を行わずに退却したが、ジャラールッディーンの行方は知れず、廷臣やイスファハーンの市民の中には彼が死んだと考える者もいた[35]。ジャラールッディーンに代わる君主が擁立される直前、彼は民衆の前に姿を現し、彼の姿を見た群衆は歓喜に沸いたという[36]

一方、コーカサス地方ではジャラールッディーンに対抗するべく、グルジア人、キプチャク人アラン人などの民族が連合を組んでアッラーン地方[注 6]の北部に集結しており、その兵力は40,000人に及んだ[37]。ホラズム軍の兵力は連合軍に劣るものであったが、ジャラールッディーンは宰相シャラフ・アル=ムルクの兵糧攻めに持ち込むべきだという提案を却下し、正面から衝突した[38]。連合軍のうち20,000を占めるキプチャク人に対しては、かつて彼らがホラズム軍の捕虜となった時に、ジャラールッディーンが彼らの助命を嘆願した恩を説いて撤退させ、グルジアには両軍の戦士による一騎打ちを提案した[39]。翌日行われた試合ではジャラールッディーン自らが5人のグルジア兵を討ち、その余勢を駆ってグルジア軍に勝利した[40]

アナトリアでの敗北、最期

コーカサスの連合軍に勝利した後、1229年7月[40]よりジャラールッディーンは第二次アフラート包囲を開始する。アフラート攻略中にアーミド(現在のディヤルバクル)のアルトゥク朝エルゼルムなどのアナトリア東部の領主から臣従の誓いを受け、アッバース朝のカリフ・ムスタンスィルと講和し、ペルシア王の地位とシャーハンシャーの称号を認められる[41]。6か月の包囲の末にアフラートを占領し、欠乏した物資を補うために市内を略奪した[7][42]。アフラート包囲の最中、ジャラールッディーンはルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に使者を送り、東西の非イスラム勢力に対抗するための同盟を結ぶことを提案する[43]。しかし、締結の条件とエルゼルムの帰属を巡って交渉は決裂し、カイクバード1世はアフラートのアシュラフと同盟を結んだ[44][29]

カイクバード1世とアシュラフの連合軍がアフラートに進軍すると、ジャラールッディーンはエルゼルムの領主ルクヌッディーン・ジハーンシャーと共に彼らを迎え撃った。ホラズム軍の兵士は各地に分散していたため十分な数が集まっていなかったが、なおも進軍を止めなかった。1230年8月にエルズィンジャン近郊のヤッス・チメンで20,000のルーム・セルジューク朝=アイユーブ朝連合軍と交戦するが、ホラズム軍は大敗を喫する[45]。ジャラールッディーンはカイクバード1世、アシュラフと講和するが、配下の将校は彼を見限り、勢力を減退させる[46]。さらに、モンゴル帝国の大ハーンオゴデイが派遣した追討軍がイラクに迫った。

ムーガーン平原[注 7]の戦いでチョルマグンが率いるモンゴル軍に敗れたジャラールッディーンはカパンに逃れ、アシュラフに連合の結成を説いた[47]。また、ホラズム軍の敗戦はタブリーズなどのアゼルバイジャン各地の都市に反乱を招いた[48]。この危機的状況の中、書記のムハンマド・アン=ナサウィーの尽力でアゼルバイジャンのトゥルクマーン人がホラズム軍の傘下に入り[49]、密かに反乱を企てていたシャラフ・アル=ムルクが誅殺された。アシュラフらアイユーブ朝の王侯が同盟の要請を拒絶したため[50]、一度は物資と資金が蓄えられているイスファハーンに戻ることを企てたが[51]、アルトゥク朝の招きに応じてアーミドに向かった。しかし、マイヤーファーリキーン(現在のシルワーン英語版)でモンゴル軍の奇襲を受けて従者の大部分を失い、追手を退けて辛うじて山地に逃亡した。山中で地元のクルド人に捕らえられ、殺害されかけるが身分を明らかにして褒賞を約束し、一度は危機を乗り切った[52]。しかし、クルド人の集落に拘束された時、ホラズム軍に怨恨を持つ別のクルド人によって刺殺され、生涯を終える[52]

死後の影響

死後、イルビルのムザッファルによって遺骨と遺品が探し出され、陵墓に埋葬された[53]。モンゴルに対して抗戦したジャラールッディーンの死を信じようとしないものも多く[7]、殺害された直後にはアナトリア東部でジャラールッディーンが再起を図る噂が流れた[54]。死後数年の後も彼を目撃した噂が流れ、特に彼が生前統治していたペルシア地方において多く聞かれた[55]。ジャラールッディーンの名を称する者もたびたび現れたが、彼らはモンゴル軍に引き渡され処刑された[55]

伝記

書記のシハーブッディーン・ムハンマド・アン=ナサウィーが記した伝記が現存する。彼はジャラールッディーンがインドから帰国した直後に仕官し、マイヤーファーリキーンの夜襲に至るまで仕えた[56]。モンゴル軍の襲撃から生き延びたムハンマド・アン=ナサウィーはアナトリア東部を放浪した後、イブン・アスィールの著書『完史』に感銘を受けて、1241年よりジャラールッディーンの伝記の執筆に取り掛かった[57]。全108章から成る伝記はアラーウッディーン・ムハンマドの治世末期からジャラールッディーンの最期までが記され、1891年から1892年にかけてフランス語による訳注が出版された[58]

脚注

注釈

  1. ^ 現在のマンギスタウ州に属する。
  2. ^ トハリスタンに存在した城砦。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、261頁)
  3. ^ インダス川、ガンジス川の間で遊牧生活を営んでいた民族。テュルク系民族と混血したアラブ系民族といわれている。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、259頁)
  4. ^ トゥルクマーン系国家であるベクテギン朝の最後の君主。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、14頁)
  5. ^ ヴァン湖北岸の都市。
  6. ^ アラス川北岸の内陸部を指す。
  7. ^ アッラーン地方の一地区。現在のアゼルバイジャン東部。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、52-53頁)

引用元

  1. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、168頁
  2. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、65頁
  3. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、183頁
  4. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、181-182頁
  5. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、182頁
  6. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、209-210頁
  7. ^ a b c d e f g 護「ジャラールッ・ディーン・マングビルティー」『世界伝記大事典 世界編』5巻
  8. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、217頁
  9. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、219頁
  10. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、226-227頁
  11. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、227-228頁
  12. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、256頁
  13. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、259-261頁
  14. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、261-262頁
  15. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、262頁
  16. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、264頁
  17. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、265頁
  18. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、267頁
  19. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、4-5頁
  20. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、6頁
  21. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、229頁
  22. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、301頁
  23. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、7頁
  24. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、11-12頁
  25. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、13頁
  26. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、13-14頁
  27. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、14頁
  28. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、15頁
  29. ^ a b c 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、131頁
  30. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、16頁
  31. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、21-22頁
  32. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、22頁
  33. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、28頁
  34. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、28-29頁
  35. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、30-31頁
  36. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、31頁
  37. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、36頁
  38. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、36-37頁
  39. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、37-38頁
  40. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、38頁
  41. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、39-40頁
  42. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、44-45頁
  43. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、42頁
  44. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、43-44頁
  45. ^ 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、160頁
  46. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、49-50頁
  47. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、53頁
  48. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、56頁
  49. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、56-57頁
  50. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、59-61頁
  51. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、60,62頁
  52. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、64-65頁
  53. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、67頁
  54. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、12頁
  55. ^ a b C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、68頁
  56. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、11頁
  57. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、11-12頁
  58. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、10,12頁

参考文献

  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注,東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1968年3月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注,東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1973年6月)
  • 護雅夫「ジャラールッ・ディーン・マングビルティー」『世界伝記大事典 世界編』5巻(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)

関連項目

先代
アラーウッディーン・ムハンマド
ホラズム・シャー朝スルタン
第8代:1220 - 1231
次代
滅亡