シギ・クトク

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シギ・クトクŠigi Qutuqu. 生没年不詳)とは草創期の頃から第4代皇帝(大ハーンモンケの時代までモンゴル帝国に仕えた人物。『集史』などのペルシア語資料では、شيكى قوتوقو Shīkī Qūtūqū またはクトゥク・ノヤン قوتوقو نويان Qūtūqū Nūyān と呼ばれており、『元史』などの漢文資料では失吉忽禿忽、失乞刊忽都忽などとも記される。『元朝秘史』ではシギケン・クドゥク(失吉刊忽禿忽 Šigiken Qutuqu)などとも記されている。チンギス・カンの実母ホエルンの養子でもある。

概要[編集]

シギ・クトクはモンゴル部の宿敵、タタル部の貴族出身であると伝えられている。『元朝秘史』によると1196年頃、モンゴル部とタタル部の間で小競り合いがあった時にタタル部の陣営に取り残されていた所を発見されたという。シギ・クトクは一目見て良い家柄の者だと知れる格好をしていたため、テムジン(後のチンギス・カン)は母ホエルンの下に連れてゆき、ホエルンはその場で彼を養子にしたという。

一方で、『集史』タタル部族誌によると、チンギス・カンがタタル部族に掠奪遠征を行った時(当時はまだテムジンと呼ばれていた)、当時チンギス・カンにはまだ子供がおらず、妃のボルテがいつも子供を欲しがっていたが、チンギスはその道中にひとりの子供が置き去りになっているのを見付けて、これを拾い上げたという。チンギスはその子供をボルテの許に送り、ボルテはこれを我が子と同じように慈しみ育てたと言う。成長してチンギスに仕えてクトゥク・ノヤンとも呼ばれるようになったが、シギ・クトクはチンギスのことを「エチェ」 eče 、つまりモンゴル語で「父」と呼び、ボルテのことも「ベリゲン・エケ」 berigän eke /=berigän〜berän〜bärgän、同じく「母なる兄嫁」と呼んでいたと伝えている。また、ボルテが死去した時、シギク・トゥクは彼女の墳墓を素手で叩き、「ああ、我らの善き母よ!(ay sayin eke manu)」と泣叫んだという逸話を伝えている。チンギスが存命中、オゴデイはシギ・クトゥクのことを「兄」(aqa)と呼び、シギ・クトゥクはモンケよりも上位に自らの息子たちとともに列席していたという。

1206年モンゴル帝国が成立すると、当時のモンゴル人にしては珍しくウイグル文字に通暁していたことをかわれ、チンギス・カンによって大断事官(イェケ・ジャルグチ)に任命され、徴税を担当した。1215年中都が開城した時、シギ・クトゥクは財宝庫の接収のため中都に派遣された。1219年に始まる大西征にも従軍し一軍を率いたものの、ホラズム軍にパルワーンの戦いで大敗を喫してしまう。これは西征におけるほとんど唯一といっていいモンゴル側の大敗だったが、シギ・クトクがチンギス・カンの義弟にあたることもあって罪には問われなかった。

『集史』チンギス・カン紀のチンギス・カンの諸将リストによると、トルイに与えられた諸軍のうち、シギ・クトゥクは右翼軍を支えたの千戸長のひとりとして列記されている。

チンギス・カンの死後もシギ・クトクはその子孫に仕え続けた。オゴデイ時代に入り、が征服されると耶律楚材らとともに旧金領の戸籍を作り、税制を定めた。その後もモンケ即位時の大粛清を乗り切り、モンケに中都の大断事官に命じられている。晩年にクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が始まると、当時彼はカラコルムにいたためアリクブケ政権に味方した。結果としてアリクブケは継承戦争に敗れ、シギ・クトクがクビライに降伏したとき命は許されたものの不遇な晩年を送ったという。

モンゴル人には珍しく長寿だったようで、『集史』によると没した時は82歳であったという。『元朝秘史』では功臣表十七位に列している。