イェスン・テエ

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イェスン・テエモンゴル語: Yesün te'e、? - 1251年)は、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えたウリヤンカン部出身の千人隊長の一人。

元朝秘史』や『元史』などの漢文史料では也孫帖額(yĕsūntièé)/葉孫脱(yèsūntuō)、『集史』などのペルシア語史料ではییسون توا طرقی(yīsūn tūā ṭarqī)と記される。『集史』の表記に従い、イェスン・トゥアとも表記される。

概要[編集]

四狗」の一人に数えられるチンギス・カンの重臣の一人ジェルメの息子で、兄にはイェス・ブカがいた。

『元朝秘史』によると、1206年にチンギス・カンがケシクテイ(親衛隊)の制度を整備した際に、イェスン・テエはコルチ(箭筒士)の長官に任ぜられたという。箭筒士の長官には他にもブギデイ、ホルクダク、ラブラカらがいたが、イェスン・テエはこれらの長官の上に立ち、箭筒士全体を統轄する地位にあった[1]。そのため、イェスン・テエの率いる箭筒士は特に「大箭筒士(イェケス・コルチン)」と呼ばれたという[2]。『集史』には部下のオゲレ・コルチを引き立てたため、オゲレは高位・高名となったことなどが記されている[3]。『集史』「チンギス・カン紀」の「千人隊長一覧」では右翼19番目の千人隊長として名前が挙げられている[4]

1229年に第2代皇帝オゴデイが即位すると多くのケシクテイ長官が一新された中でイェスン・テエのみは留任され、引き続きオゴデイの側近として活躍した。しかし、オゴデイが亡くなるとその庶長子のグユクを推す勢力とトルイ家のモンケを推す勢力との間で政争が激化した。イェスン・テエはオゴデイ家派としてグユクを支持し、一度はグユクが即位したものの即位後数年で病死したため、1251年に今度はモンケが即位することとなった。モンケは即位してすぐに自らの即位に反対したオゴデイ家派勢力に弾圧を加え、オゴデイ家派最大の実力者イルチダイとイェスン・テエは処刑されてしまった[5]。そのため、イェスン・テエの子孫についての記録は残されていない[6][7]

ウリヤンカン部ジェルメ/スブタイ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 村上1976,43-44頁
  2. ^ 村上1976,64頁
  3. ^ 志茂2013,561頁
  4. ^ 志茂2013,518/522頁
  5. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥……葉孫脱・按只帯・暢吉・爪難・合答曲憐・阿里出及剛疙疸・阿散・忽都魯等、務持両端、坐誘諸王為乱、並伏誅」
  6. ^ 村上1976,53頁
  7. ^ 志茂2013,522頁

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年