メリク

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メリクモンゴル語: Melik, 中国語: 麦里, ? - ?)は、モンゴル帝国に仕えた千人隊長の一人。

概要[編集]

メリクの祖父シルゲイ (Šilügei) はジュウレイト部出身の将軍で、創業時代のテムジン(後のチンギス・カン)に仕えていた。テムジンがケレイト部のオン・カンとの戦いに敗れ、バルジュナ湖まで敗走した際にはともにバルジュナ湖の泥水をすすり、後世広く知られる「バルジュナ湖の功臣」の一人として知られるに至った。1206年、テムジンが即位してチンギス・カンと称するとシルゲイは千人隊長に任ぜられ、『モンゴル秘史』の功臣表では22位に列せられている[1]。これ以後もチンギス・カンによるアジア諸国の征服戦争に従事したが、河西において没した。シルゲイの息子麥吉もまたオゴデイ・カアンの金朝攻略に従事したが、病没したため、その息子メリクがその地位を承襲した。

父の死後、メリクはグユクの下でバトゥの征西(モンゴルのルーシ侵攻)に従軍し、キプチャクアストルーシ諸国の征服に貢献した。また、モンケ・カアンの即位後には南宋への親征に従い、功績があった[2]

モンケ・カアンの死後、次代のカアン位を巡ってクビライアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発すると、グユク・カンの第3子であるホクがアリク・ブケ側について河西地方の諸城を劫掠した。メリクはクビライの即位にこそ正当性があるとして「乱を為した」ホクを見過ごすべきではないとし、弟のサングダルとともにこれを攻撃した。1月に8度戦って、劫掠を受けたジャライル部・タタル部諸部の民を奪い返してメリクは帰還した。

しかしホクとの戦いの中で、弟のサングダルは戦死したため、これを聞いて憐れんだクビライは使者を派遣して銀鈔・羊馬を与え、さらに「ダルハン」の称号を授けた。それから程なくしてメリクは没し、その息子トクルが後を継いだ[3]

脚注[編集]

  1. ^ 村上1972, 366頁
  2. ^ 『元史』巻132列伝19,「麦里、徹兀台氏。祖雪里堅那顔、従太祖与王罕戦、同飲班真河水、以功授千戸、領徹里台部、征討諸国、卒于河西。父麦吉襲職、従太宗定中原、以疾卒。麦里襲職、従定宗略定欽察・阿速・斡魯思諸国。従憲宗伐宋、有功」
  3. ^ 『元史』巻132列伝19,「世祖即位、諸王霍忽叛、掠河西諸城。麦里以為帝初即位、而王為首乱、此不可長、与其弟桑忽荅児率所部撃之、一月八戦、奪其所掠札剌亦児・脱脱憐諸部民以還。已而桑忽荅児為霍忽所殺、帝聞而憐之、遣使者以銀鈔羊馬迎致麦里、賜号曰荅剌罕、尋卒。子禿忽魯」

参考文献[編集]

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻132列伝19
  • 新元史』巻132列伝29