オン・カン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
流浪していたオン・カン(左)を歓待するテムジン(右) (『集史』パリ本)

オン・カン(Ong Khan, Ong Qan, ? - 1203年)は、モンゴル高原中央部の遊牧民集団ケレイト部最後のカン。本名はトグリル(Toγril)あるいはトオリル(To'oril)。尊称・称号のオンは中国語の発音でワン・カン(Wng Khan, Wng Qan))に由来する。漢語資料の表記では『元朝秘史』では王罕、『元史』では汪罕、『聖武親征録』では汪可汗とあり、『集史』などのペルシア語資料の表記では اونك خان Ūnk Khān と綴られる。

本名のトオリルは禿鷹に似た想像上の猛禽を意味しており[1]テュルク系の遊牧民によく見られる名前であって、セルジューク朝の創始者(トゥグリル・ベグ)も同名である。ケレイト部族の間ではネストリウス派キリスト教が信仰されており、オン・カンはダビデ(David)という洗礼名を有していたと言われる[2]

生涯[編集]

トオリルはクルチャクス(クルジャクス)・ブイルクとイルマ・カトゥンとの間に生まれる。兄弟は40人もいた。[3]

7歳の時、トオリルはメルキト族の捕虜となり、黒斑の子ヤギの皮衣を着せられて黍を臼づく仕事をさせられたが、まもなく父クルチャクス・ブイルクによって救出された。[4]

13歳の時、祖父マルクズ・カン(サリク・カン)がアルチ・タタル氏族のアジャイ・カンとの戦いに敗北した際、母と共にその捕虜になった。この時は自力で脱出した。[5]

クルチャクス・ブイルク・カンが没すると、中央にいたトオリルの弟であるタイ・テムル・タイシ、ブカ・テムルがケレイトの国政を指導したが、辺境地域に配されていたトオリルは戻ってくるなり、弟のエルケ・カラと協力してタイ・テムル・タイシとブカ・テムルを抹殺し、ケレイト・カンの位に即いた。トオリルの即位後、叔父のグル・カンはナイマンへ逃亡したが、程なくしてナイマンの援助で挙兵してトオリルの軍を破り、自らケレイトの政権を握った[6]。トオリルはわずか100人ほどの供回りをつれてモンゴルのキヤト氏族のもとへ逃亡し、その有力者イェスゲイ・バアトルに匿われ、彼と同盟して義兄弟(アンダ)となり、叔父のグル・カンを西夏に追放して再びケレイトのカンとなった[7][8]

それからしばらくトオリル・カンはケレイトを統治していたが、弟のエルケ・カラと仲違いし、彼を殺そうとしたが、ナイマンに逃亡されてしまう。エルケ・カラはナイマンのイナンチャ・カンの支援を受けてトオリル・カンの軍を破り、ケレイト・カンの位に即く。トオリルは3つの国都をさまよいつつ、西遼国、ウイグト国、タングト国と転々としたが、最終的にイェスゲイの子テムジン(のちのチンギス・カン)のもとへ逃れ、その庇護を受けた。[9]

1196年に両者は義父子の関係を結んだ。エルケ・カラ討伐に協力してトオリルの復位を手助けした[7]。この関係でテムジンのオルドメルキトに襲われたとき、テムジンの妻ボルテがメルキトに抑留されたがオン・カンがメルキトに圧力をかけて解放させたこともある。

1196年、モンゴル高原東部の有力部族タタル部が中国に背いたとき、金の要請に従ってオンギン・チンサン(王京丞相)こと右丞相完顔襄率いる金軍に協力して、オルズ川の戦いにおいてタタル部を破った。この時、完顔襄からの称号を与えられた[10](この時の戦勝を記念して書かれたと思われる、女真文字漢字による墨書の碑文がモンゴル国ヘンティー県の南部、セルベン=ハールガ山に現存する)。翌年には高原西部の有力部族ナイマン部の支援を受けた兄弟のエルケ・カラによって追われたが、テムジンを頼ってケレイトの王位を取り戻した。テムジンはこの頃父の代を上回るほどに勢力を拡大しつつあり、1197年1198年には共同してメルキト部を討つなど、両者は同盟によってお互いに強大な勢力に成長した。

1199年にはテムジンとともにアルタイ山脈方面に遊牧するナイマンのブイルク・カンを攻め、多くの捕虜を手に入れた。しかし退却の途上、ナイマンとケレイトの勢力の境界であるハンガイ山脈でナイマンの反撃に追いつかれたとき、テムジンの仇敵ジャムカの進言を容れてテムジンを置き去りにして逃げ去った[11]。同年、ナイマン軍がハンガイを越えてケレイトを攻撃すると、再びテムジンを頼ったが、テムジンは先の恨みを忘れてオン・カンを助けたのでナイマンを破ることが出来た。

1200年から1201年にはテムジンの要請に応じてモンゴル部の有力氏族であるタイチウトとタタル部の連合軍を高原東部のホロンボイルに破り、テムジンを従えたオン・カンの勢力はモンゴル高原の中部から東部に大きく広がった。1202年にはナイマンがメルキトやオイラトなど高原北西部の諸部族と同盟してオン・カンとテムジンに迫ったがこれを破った。ナイマンに勝利した後、テムジンの息子ジョチとオン・カンの娘チャウルベキ、オン・カンの長男イルカ・セングンの息子トス・ブカ(トサカ・ベキ)とテムジンの娘コジン・ベキの婚姻が計画される。しかし、2つの婚姻は破談に終わり、オン・カンとテムジンの関係は悪化する[12]

1203年にイルカ・セングンとテムジンが仲違いしたことをきっかけに、ケレイトのもとに逃げ込んだジャムカの薦めに乗って突如テムジンの本営を襲った。この戦いは一時はテムジンを高原の北方まで追いやることに成功するが、やがて勢力を取り戻したテムジンによって逆襲され、ケレイトの本営がテムジンによって破られた。

オン・カンはハンガイ山脈を越えて同盟するナイマンのタヤン・カンを頼ろうとしたが、国境でナイマンの守備隊によって殺害された。オン・カンの首を届けられたタヤン・カンは彼の死に憤怒し、その頭蓋骨を銀の器に収めた[13]。息子のイルカ・セングンはブリ・トベット地方へ亡命できたが、しばらくして彼の略奪行為がこの地方の住民の憎悪をかきたてたので、カシュガルホータンの諸州に隣接するクーシャーン地方へ逃れたが、クサト・チャル・カシュメという地で捕えられて、クチャのあたりで現地を支配するカラハン朝の王族であるカラジ族のスルターン・キリジ・カラによって捕らえられ、息子のトス・ブカ(オン・カンの孫)とともに父子そろって処刑された。

ついに、モンゴル帝国以前の高原最大の勢力であったケレイトはモンゴルに征服された。

15世紀以降、オイラト部族連合の一翼として活躍したトルグート部の首長はオン・カンの後裔を称している。

オン・カンの兄弟[編集]

元朝秘史』によると、クルチャクス・ブイルク・カンには40人の子がいたとされるが、「四十(ドチン)」とはモンゴル語で「とても多数の」という表現句にすぎないともされる。しかしながら、ポール・ペリオラシードゥッディーン集史』の記述から考証したところだけでも8人の子が確認できる。[14]

  • オン・カン Ong Qan(トオリル To'oril、トグリル Toγrïl)
  • ユラ Yūlā(トラ Tūlā)
  • マルクズ Marqūz
  • タイ・テムル・タイシ Tāī Tēmṻr Tāīšī
  • ブカ・テムル Būqā Tēmṻr
  • エルケ・カラ Ärkä Qarā
  • ジャカ・ガンボ ǰaqā-gambō(ケレイテイ Kereitei)
  • イェディ・クルトカ Yēdī Qūrtuqā

オン・カンの子[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』、106-107頁
  2. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』、30,33頁
  3. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』p23-36,158-159
  4. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』p23-36,158-159
  5. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』26,32頁
  6. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、44頁
  7. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、45頁
  8. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』p23-36,158-159
  9. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』p23-36,158-159
  10. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、41頁
  11. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、49-50頁
  12. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、57頁
  13. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、72頁
  14. ^ 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』、35-36頁

参考文献[編集]

  • 岡本敬二「ワン・ハン」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注、東洋文庫平凡社、1968年3月)
  • 『モンゴル秘史 2 チンギス・カン物語』(村上正二訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1972年)

関連項目[編集]