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ジャライル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
12世紀のモンゴル高原の諸部族

ジャライル英語:Jalairs、モンゴル語:Жалайр)は、かつてモンゴル高原を始め中央ユーラシアに分布した遊牧民族。古くからモンゴル帝国に仕え、その子孫の一部は14世紀西アジアジャライル朝を建設した。

概要

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古くはウイグル帝国に隷属してカラコルム近くにいたが、ウイグル帝国の崩壊後はオノン河畔に移った。10世紀から11世紀にかけては、契丹族の女真族の金朝と争い、その攻撃をうけて北方に敗走した。そのとき、モンゴル部族のメネン・トドンの牧地を侵し、その妻のモヌルンや7人の子らを殺害したため、モンゴル部族の怒りを買い、後に征服された。以降、部族全体がモンゴル部族に隷属して「譜代の隷臣(オテグウ・ボゴル)」部族となり、チンギス・カン時代はウリャンカイ部族などと並んでモンゴル・ウルスに隷属する二大部族となった[1]。「ジャライル」という呼称は恐らく古代回鶻可汗を輩出した薬羅葛(ヤグラカル)氏モンゴル語風の発音に因る。

歴史

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契丹人による虐殺

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モンゴル人たちのうちにジャライルという名のドルルキン(枝族)出身の者たちがいた。彼らは70翼(クリエン:1クリエン=1千家族)あり、いくつかの部族はケルレン地方に住んでいた。このケルレン地方はヒタイ(契丹)人の地に近かったため、ヒタイ人の軍勢がジャライルの地に侵入しようとしていたが、間にケルレン川が流れており、容易に渡れる様子ではなかった。それを見たジャライルの人たちはヒタイ人が渡れないのをいいことに、彼らをからかってはやしたてた。怒ったヒタイ人たちはその夜のうちにイカダを作り、川を渡ってジャライル部族の女から子供にいたるまで皆殺しにし、財産を奪っていった[2]

メネン・トドンの妻子殺害

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ジャライル部族のある一団だけは皆と離れ、敵軍がやってこないようなはずれに住んでいた。そのうちの70家族は住地を離れて逃亡し、モンゴル部族の故メネン・トドンの妻モヌルン(ノムルン)の領土に移動してきた。しかし、飢えに耐えかねたジャライルの人たちはモヌルンの牧地を掘りあさって草の根を食べ始めた。ちょうどそこではモヌルンの諸子が乗馬の駆け足の練習をしていたが、モヌルンは自分らの土地が荒らされるのを嫌がり、馬車に乗ってジャライルの人たちを負傷させた。これに対しジャライルの人たちは馬群を駆り立てて復讐し、モヌルンの諸子とモヌルンを斬り殺した。この時モンゴル部族で生き残ったのが薪置き場に隠されていた孫のカイドゥと婿養子に行っていた第七子のナチン・バアトルのみであった[3][4]

留まっていたジャライル部族の一団が自分たちの所から逃亡した70家族がモンゴル部族に大変なことを仕出かしたことを詫び、その70家族の家長を皆殺しにして残った家族をカイドゥ家の家人・捕虜とした。それ以来その一族はモンゴル部族の譜代家人(オテグ・ボコル)となり、代々モンゴルに仕えることとなる[4]

以上のジャライル・ウルスの滅亡は、『遼史』に記される敵烈部の滅亡に相当するのではないかと考えられている。『遼史』によると、1014年(開泰3年)に敵烈部の夷剌(イラ)なる人物が酋長の稍瓦(シャワ)を殺して叛乱を起こし、近隣の部族もこれに呼応して遼の巨母古(クムク)城を攻め落としてしまった[5]。これに対し、遼は叛乱鎮圧のために耶律世良を派遣し、1015年(開泰4年)夏にはまず敵烈部に呼応した阻卜部(ケレイト部)・烏古部(タタル部)を撃破し、敵烈部をも一旦服属させた。しかし、遼の朝廷では敵烈部による叛乱の再発を防ぐため内地に移住させる計画が唱えられており、耶律世良がこの計画を実行する隙を突いて敵烈部は再び叛乱を起こした。再度の叛乱に懲りた耶律世良は敵烈部を再度撃破してその成年男子(丁壮)を皆殺しにしてしまった。その後も遼軍の隙を突いた敵烈部の逆襲があり、将の勃括を討ち漏らすという失態があったものの、最終的には生き残りの敵烈部の人をケレイト河沿いに移住させてそこに住まわせた[6]

このような、『遼史』に描かれる敵烈部の滅亡は時代・場所ともにジャライル・ウルスの滅亡と酷似しており、同一の事件を指していると考えられる。この事件で遼軍の攻撃を逃れた敵烈部人=ジャライル人がモンゴル部への攻撃を行ったのだとすると、カイドゥ・カンが活躍したのは11世紀前半のことであったと見られる[7]

北元時代以後

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14世紀末、大元ウルスは明朝の登場によって瓦解し、東のドチン・モンゴルと西のドルベン・オイラトが対立する時代(北元時代)に入った。この間、100年近くにわたって内乱の続いたモンゴル高原では史書が編纂されることがなく、モンゴル帝国時代の諸部族がどのような変遷を辿ったかについてほとんど記録がない。しかし、16世紀初頭にはダヤン・ハーンが敵対する諸部族を討伐し、モンゴル高原の諸部族を「ダヤン・ハーンの六トゥメン」と呼ばれる六大集団に再編することに成功した。各トゥメンは下位集団である複数のオトク(otoγ)によって構成されており、ほとんどのオトクはダヤン・ハーンの子孫に領有されるに至った。

北元時代のジャライル・オトクはハルハ・トゥメンの筆頭集団として各種モンゴル年代記で言及されており、そもそもハルハ・トゥメン自体が元代におけるジャライルを中心とした「左手の五投下」の後身であると考えられている[8]。ハルハ・トゥメンは早い段階から左右翼に分かれており、ダヤン・ハーンは右翼ハルハには第五子アルチュ・ボラトを、左虞ハルハには第十一子ゲレセンジェを、それぞれ分封した。右翼ハルハはコンギラト・オトクを筆頭として五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)もしくは内ハルハと呼ばれ、左翼ハルハはジャライル・オトクを筆頭として七旗ハルハ(ドロー・ホシューン・ハルハ)もしくは外ハルハと呼ばれた。

モンゴル年代記の『シラ・トージ』によると、ゲレセンジェが外ハルハ(七旗ハルハ)に分封される以前、この集団は「ジャライルとのシグチ(sigči)たちが支配していたとされる[9]。外ハルハに入った後のゲレセンジェは「ジャライル・ホンタイジ」とも呼ばれており、この時期のジャライルが外ハルハ内の筆頭勢力であったことが窺える[10]。また、17世紀以後に外モンゴルを支配する、「ハルハ3ハーン家」の家系は、いずれもゲレセンジェの息子とジャライル出身の妃の間に生まれた子を始祖としている[11]。よって、最初期の外ハルハにおいて真に実力者たりえるのは、ジャライルの血を引く者でなければならなかったようである[11]。ただし、この後ジャライル・オトクは史料上に現れなくなり、何らかの理由で勢力が弱まったのではないかと考えられている[12]

構成氏族

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ラシードゥッディーン集史』によると、この部族は10個の氏族に分かれ、各氏族にはいずれも首領がおり、オノン川に幕営しており、その数は70クリエン(クリエンは千戸の天幕集団をいう)もあったという[13]

  • ジャアト
  • トクラウト(トクラウン)
  • クンカサウト(クンカサウン)
  • クムサウト
  • ウヤト
  • ビルカサン(ニルカン)
  • クゲル(クルキン)
  • トランキト
  • ブリ(トリ)
  • シンクウト(シヤンクウト)

ジャライル出身のモンゴル御家人

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ジャライル出身のモンゴル御家人は以下の通りである[14]

ジャアト・ジャライル部ムカリ国王家

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トランギト・ジャライル部コゴチャ家

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ジャライル部イルゲイ家

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  • カダアン(Qada'an >قدان/qadān)
    • イルゲイ・ノヤン(Ilügei noyan >亦魯該/yìlŭgāi,یلوکای نویان/īlūkāī nūyān)…チンギス・カンのノコルの一人で、オゴデイに与えられる
    • ドロアダイ・バウルチ(Dolo'adai ba'urči >朶囉阿歹/duŏluōādǎi,دولادای باورچی/dūlādāī bāūrchī)

ウヤト・ジャライル部オゲレイ家

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トクラウン・ジャライル部タイジ家

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ジャライル部ブルケ家

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  • ブルケ…チンギス・カンに仕える

ジャライル部セチェ・ドモク家

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  • セチェ・ドモク…バラ・チェルビの父

ジャライル部ジャライルタイ・イェスル家

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ジャライル部ウカイ家

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ジャライル部ドクル家

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ジャライル部ムゲ家

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  • ムゲ・ノヤン(Müge noyan >木格/mùgé,موكه نویان/mūka nūyān)…チンギス・カンのノコルの一人で、チャガタイに与えられる

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 村上 1970, p. 223-224.
  2. ^ 志茂 2013, p. 512.
  3. ^ 佐口 1968, p. 23-24.
  4. ^ a b 志茂 2013, p. 513.
  5. ^ 『遼史』巻94列伝24,「耶律世良、小字斡、六院部人。[開泰]三年、命選馬駝于烏古部。会敵烈部人夷剌殺其酋長稍瓦而叛、隣部皆応、攻陥巨母古城。世良率兵圧境、遣人招之、降数部、各復故地」
  6. ^ 『遼史』巻15聖宗本紀6,「[開泰三年]九月丁酉、八部敵烈殺其詳穏稍瓦、皆叛、詔南府宰相耶律吾剌葛招撫之。辛亥、釈敵烈数人、令招諭其衆。壬子、耶律世良遣使献敵烈俘。……[開泰四年夏四月]丙寅、耶律世良等上破阻卜俘獲数……壬申、耶律世良討烏古、破之。甲戌、遣使賞有功将校。世良討迪烈得至清泥堝。時烏古既平、朝廷議内徙其衆、烏古安土重遷、遂叛。世良懲創、既破迪烈得、輒殲其丁壮。勒兵渡曷剌河、進撃余党、斥候不謹、其将勃括聚兵稠林中、撃遼軍不備。遼軍小却、結陣河曲。勃括是夜来襲。翌日、遼後軍至、勃括誘烏古之衆皆遁、世良追之、軍至険阨。勃括方阻険少休、遼軍偵知其所、世良不亟掩之、勃括軽騎遁去。獲其輜重及所誘烏古之衆、並遷迪烈得所獲轄麦里部民、城臚朐河上以居之」
  7. ^ 岡田 1993, pp. 150–153.
  8. ^ 森川 1972, pp. 48–49.
  9. ^ 森川 1972, pp. 43–44.
  10. ^ 森川 1972, pp. 46.
  11. ^ a b 森川 1972, pp. 54.
  12. ^ 森川 1972, p. 57.
  13. ^ 佐口 1968, p. 8-9,309.
  14. ^ 志茂 2013, p. 517-524.

参考資料

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  • 岡田英弘『チンギス・ハーン』朝日新聞社、1993年
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 1巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫110〉、1968年3月。ISBN 4582801102 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 1巻、平凡社〈東洋文庫163〉、1970年5月。ISBN 978-4582801637 
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年7月4日。ISBN 978-4130210775 
  • 森川哲雄ハルハ・トゥメンとその成立について」『東洋学報』第55巻第2号、東洋文庫、1972年9月、32–63頁、CRID 1050282813819750400NAID 120006516090 

関連項目

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