ブトゥ・キュレゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ブトゥ・キュレゲンモンゴル語: Butu/Буту хүргэнi,中国語: 孛禿,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたイキレス部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、ブトゥの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「イキレス駙馬王家」として尊重された。『元史』などの漢文史料では孛禿/不図/不禿古堅/豹突駙馬/撥都駙馬、『集史』などのペルシア語史料ではBūtū Gūrkānبوتو گورکانと記される。

概要[編集]

ブトゥが属するイキレス部はモンゴル部族と姻戚関係にあるコンギラト部族から分派した部族で、ブトゥの家系もまたテムジン(チンギス・カン)にとって古くからの姻族であった。『集史』はブトゥがノクズ(Nūkūz)の息子で、チンギス・カンの母ホエルンの兄弟であると記している[1]。同じモンゴル部族に属するタイチウト氏のジャムカと決別したテムジンはモンゴル部族内の主導権を得るために他の氏族、モンゴルと同盟していた部族を調略して傘下に入れようとし、その一環としてイキレス部のブトゥにもジュルチデイを使者として派遣した[2]

当時エルグネ川流域で遊牧していたブトゥはテムジンからのジュルチデイを招き入れると羊を殺して饗するなど歓待し、さらにジュルチデイが帰る時には疲労の溜まっていた馬に代えて自らの良馬を貸して自らの好意を示した。使者の報告を聞いて喜んだテムジンは自分の妹であるテムルンをブトゥに娶せることでブトゥ率いるイキレス部族を味方に引き入れようとした。ブトゥはテムルンとの婚姻に際して、宗族のエブゲンデイらをテムジンの下に派遣した。テムジンにブトゥが有する家畜の数を問われたエブゲンデイは馬30匹があり、その半分を以て妻を迎え入れる礼としたい答えると、テムジンは怒って「婚姻を結ぶのに財産を論じるとは、ほとんど商人のようなものではないか。古人は心を同じくするのは真に難しいと語ったものだが、朕が天下を取ろうとするに当たって、汝らイキレスの民がブトゥに従い忠義を尽くすならば、どうして返礼の財がいるだろうか」と語り、テムルンを嫁がせた[3]

テムジン勢力の傘下に入った後、ブトゥはテムジンの征服戦争の多くで功績を挙げた。ジャムカが3万の兵を率いて攻めてきた時にはこれを報告し、タイチウト部平定にも協力した。ナイマン部との決戦が行われた際にもブトゥはテムジンに招集され、イキレス兵を率いて参戦し功績を挙げた[4]。ナイマン戦後、妻のテムルンが亡くなってしまったが、テムジンは改めて自身の娘コアジン・ベキを嫁がせて姻戚関係を保持した。テムジンが1206年、モンゴリアを平定してチンギス・カンとして即位すると、ブトゥはイキレス部千人隊長(Mingγan)に任ぜられた。ブトゥは『モンゴル秘史』では功臣表の87位に記され、『集史』ではチンギス・カン直属の左翼軍に属し3千戸を束ねたことが記されている。

チンギス・カンが金汗への遠征を開始すると、ブトゥはジャライル部の国王ムカリの指揮下で参戦した。ムカリが遼西地方を征服したのに対し、ブトゥは遼西地方を平定し、この時の功績によって冠州懿州を与えられている。この後の金朝侵攻でもイキレス部はコンギラト・ウルート・マングトとともにジャライル部の指揮下に入り、これらの5部族は「左手の五投下」と呼ばれる有力集団として知られるようになった。ブトゥはチンギス・カン晩年の西夏遠征にも従軍したが、チンギス・カンの死去と前後して病没した[5]。ブトゥにはフルダイ(『元史』では鎖児哈)とダルカイ(『元史』では帖木干)という二人の息子がおり、二人ともチンギス・カン家との姻戚関係を結び、オゴデイ・カアンに仕えた。

『元史』では同じく駙馬王家を形成したコンギラト部のデイ・セチェンオングト部のアラクシ・ディギト・クリとともに巻118列伝5に立伝されている。

イキレス駙馬王家[編集]

昌国公主[編集]

  1. 昌国大長公主テムルン(イェスゲイ・バートルの娘で、昌忠武王ブトゥに嫁ぐ)
  2. 昌国大長公主コアジン・ベキ(チンギス・カンの娘で、テムルンの死後ブトゥに嫁ぐ)
  3. 昌国大長公主イキレス(ブトゥの息子ダルカイに嫁ぐ)
  4. 昌国大長公主チャブン(チンギス・カンの娘で、テムルンの死後ダルカイに嫁ぐ)
  5. 昌国大長公主アンドゥ(オゴデイの息子クチュの娘で、ブトゥの息子昌武定王フルダイに嫁ぐ)
  6. 昌国大長公主イェスンジン(フルダイの息子忠靖王ジャクルチンに嫁ぐ)
  7. 昌国大長公主バヤリン(モンケ・カーンの娘で、ジャクルチンの息子昌忠宣王クリルに嫁ぐ)
  8. 昌国大長公主ブラルグチ(の死後、昌忠宣王クリルに嫁ぐ)
  9. 昌国大長公主イルハイヤ(テムル・カーンの娘で、クリルの息子昌王アシクに嫁ぐ)
  10. 昌国大長公主マイディ(モンケ・カーンの孫娘で、イルハイヤの死後、昌王アシクに嫁ぐ)
  11. 昌国大長公主ヤンガヤ(アシクの息子昌王バラシュリに嫁ぐ)
  12. 昌国大長公主ウルグ(バラシュリの息子昌王シャラムダルに嫁ぐ)

脚注[編集]

  1. ^ 志茂2013,727頁
  2. ^ 村上1972,222-223頁
  3. ^ 『元史』巻118孛禿伝「太祖嘗潜遣術児徹丹出使、至也児古納河。孛禿知其為帝所遣、值日暮、因留止宿、殺羊以享之。術児徹丹馬疲乏、復仮以良馬。及還、孛禿待之有加。術児徹丹具以白帝、帝大喜、許妻以皇妹帖木倫。孛禿宗族乃遣也不堅歹等詣太祖、因致言曰『臣聞威德所加、若雲開見日・春風解凍、喜不自勝』。帝問『孛禿孳畜幾何』。也不堅歹対曰『有馬三十匹、請以馬之半為聘礼』。帝怒曰『婚姻而論財、殆若商賈矣。昔人有言、同心実難、朕方欲取天下、汝亦乞列思之民、従孛禿效忠於我可也、何以財為』。竟以皇妹妻之。」
  4. ^ 『元史』巻118孛禿伝「既而劄赤剌歹劄木哈・脱也等以兵三万入寇。孛禿聞之、遣波欒歹・磨裏禿禿来告、乃与哈剌裏・劄剌兀・塔児哈泥等討脱也等、掠其輜重、降其民。乃蛮叛、帝召孛禿以兵至、大戦敗之」
  5. ^ 『元史』巻118孛禿伝「従太師国王木華黎略地遼東・西、以功封冠懿二州。従征西夏、病薨。贈推忠宣力佐命功臣・太師・開府儀同三司・駙馬都尉・上柱国、進封昌王、謚忠武。子鎖児哈襲爵」

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻118列伝5
  • 新元史』巻115列伝12
  • 蒙兀児史記』巻23列伝5