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「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:Julian.jpg|thumb|right|フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]
| 人名 = ユリアヌス
'''フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{lang|la|'''Flavius Claudius Julianus'''|フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス}}、[[331年]]または[[332年]]<ref>月日については不明。</ref> - [[363年]][[6月26日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝一覧|皇帝]](在位:[[355年]][[11月6日]] - [[360年]][[2月]](副帝) - 363年6月26日(正帝))である。[[コンスタンティヌス朝]]の皇帝の1人で[[コンスタンティヌス1世]](大帝)の甥に当たる。最後の「[[異教徒]]皇帝」として知られる。[[異教]]<ref>「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。</ref>復興を掲げ[[キリスト教]]への優遇を改めたため、「背教者(<small>ラテン語</small>:{{lang|la|Apostata}})」とも呼ばれる。
| 各国語表記 = Julianus
| 君主号 = ローマ皇帝
| 画像 = Julian.jpg
| 在位 = 副帝:<br/>[[355年]][[11月6日]] - [[360年]][[2月]]<br/>正帝:<br/>360年2月 - [[361年]][[11月3日]]<br/>全ローマの皇帝:<br/>361年11月3日 - [[363年]][[6月26日]]
| 全名 = フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
| 出生日 = [[331年]]または[[332年]]
| 生地 = [[コンスタンティノポリス]]<br />(現{{TUR}}、[[イスタンブル]])
| 死亡日 = 363年6月26日
| 没地 = マランガ<br />(現{{IRQ}}、[[サーマッラー]]近郊)
| 配偶者1 = [[ヘレナ]]{{enlink|Helena (wife of Julian)}}
| 王朝 = [[コンスタンティヌス朝]]
| 父親 = {{仮リンク|ユリウス・コンスタンティウス|en|Julius Constantius}}
| 母親 = {{仮リンク|バシリナ|en|Basilina}}
}}
'''フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{lang|la|'''Flavius Claudius Julianus'''|フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス}}、331/332年 - 363年6月26日)は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝一覧|皇帝]](在位:361年11月3日 - 363年6月26日)である。[[コンスタンティヌス朝]]の皇帝の1人で[[コンスタンティヌス1世]](大帝)の甥に当たる。最後の「[[異教徒]]皇帝」として知られる。[[異教]]<ref>「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。後藤。</ref>復興を掲げ[[キリスト教]]への優遇を改めたため、「'''背教者'''(<small>ラテン語</small>:{{lang|la|Apostata}})」とも呼ばれる。


== 年譜 ==
== 生涯 ==
=== 誕生から副帝登用まで(331年 - 355年) ===
[[ファイル:Edward Armitage - Julian the Apostate presiding at a conference of sectarian - 1875.jpg|thumb|300px|right|宗派間の議論を見守るユリアヌス<br>(エドワード・アーミテージ画)]]
[[331年]]または[[332年]]<ref>331年が有力とされる。月日については不明。バワーソック、44頁。</ref>、[[コンスタンティヌス1世]]の異母弟[[ユリウス・コンスタンティウス]]{{enlink|Julius Constantius}}とその妻[[バシリナ]]{{enlink|Basilina}}の間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは皇帝[[コンスタンティウス2世]]の陰謀により家族を暗殺された。ユリアヌスとその兄[[コンスタンティウス・ガルス]]{{enlink|Constantius Gallus}}は幼少のため見逃された<ref>ガルスは当時、病で間もなく死ぬと思われていた。バウダー、104頁。</ref>。ユリアヌスは(おそらくガルスも共に)[[ビテュニア]]に住まう母方の祖母のもとに預けられ<ref>ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、ニコメディアで司教[[エウセビオス]]の手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。Tougher, p.14.</ref>、事実上[[軟禁]]された状態で養育された。軟禁生活では、[[キリスト教会]]の『[[聖書]]』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった[[宦官]]マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や[[ギリシア神話|神話]]も教えられていた。
* 331/332年 - [[コンスタンティノポリス]]に生まれる


おそらく[[342年]]になると、ユリアヌスとガルスは皇帝領の[[マケルム]]{{enlink|Macellum}}へ移された。マケルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、[[カッパドキアのゲオルギウス]]{{enlink|George of Laodicea}}の蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。
* [[337年]]
** [[5月22日]] - コンスタンティヌス1世(大帝)、死去
** 夏([[9月9日]]以前) - 一家暗殺される。[[ビテュニア]]の祖母に引き取られる


[[348年]]、2人は[[コンスタンティノポリス]]に召還され、6年間の追放が終わった。ガルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで[[修辞学]]を学んだのち、[[ニコメディア]]へ留学した。この地で[[ギリシア哲学|哲学者]][[リバニオス]]{{enlink|Libanius}}の講義を、間接的にではあるが受けることができ<ref>リバニオスの話を直接聞くことはコンスタンティウスに禁じられていたため、代理の者にノートを取らせていた。Tougher, p.16.</ref>、ユリアヌスは[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の影響を強く受けるようになる。
* [[338年|338]]/[[339年]] - マルドニオス、家庭教師となる


[[351年]]、ガルスは東方の[[サーサーン朝]]の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、[[ペルガモン]]にいた[[アエデシオス]]{{enlink|Aedesius}}や、[[エペソスのマクシムス]]{{enlink|Maximus of Ephesus}}など、[[アナトリア半島|小アジア]]の新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねて[[アテナイ]]に赴いている。
* [[342年]]頃 - ユリアヌスとガッルス、マケッルムに勾留される


[[354年]]、副帝であったガルスがコンスタンティウス2世に処刑された<ref>ガルスの統治が評価しがたいものであったことはユリアヌスも認めており、処刑はともかく副帝解任には正当性があった。バワーソック、62頁。</ref>。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いを掛け、メディオラヌム(現[[ミラノ]])の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃[[エウセビア]]{{enlink|Eusebia (empress)}}が唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。
* [[348年]] - ユリアヌスとガッルス、コンスタンティノポリスに召還される


メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者[[プロハイレシオス]]から手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる<ref>Tougher, p.18.</ref>。
* 同年末/[[349年]] - [[ニコメディア]]に留学


[[355年]]後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなく[[ガリア]]での問題にも直面していた<ref>バワーソック、61頁。</ref>。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガルスに替わる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から、355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった<ref>バワーソック、62頁。</ref>。
* [[351年]]5月 - ガッルス、[[カエサル (称号)|副帝]]に即位


=== ガリア赴任(355年 - 360年) ===
* [[354年]] - ガッルス、処刑される
[[ファイル:Map Gallia Tribes Towns.png|thumb|250px|right|ガリアの都市]]
355年末、ユリアヌスはコンスタンティウスとともにガリアに向かっていた。配下に置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、[[フランク族]]によってコロニア・アグリッピナ(現[[ケルン]])が陥落したとの報告を受ける<ref>Ammianus, 15.8.19, Vol.1, p.175.</ref>。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。


翌年6月、ウィエンナ(現[[ヴィエンヌ (イゼール県)|ヴィエンヌ]])での越冬を終えたユリアヌスはまず、攻撃に晒されていたアウグストドゥヌム(現[[オータン]])を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現[[オセール]])、アウグストボナ(現[[トロワ]])で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現[[ランス (マルヌ県)|ランス]])まで北上し、その地の駐屯軍と合流した<ref>バワーソック、70-71頁。</ref>。戦力を整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現[[メス (フランス)|メス]])を経由して、ライン川中流の西岸まで進出した。
* [[355年]]
** 夏 - [[アテナイ]]に遊学
** [[11月6日]] - 副帝に即位
** [[12月1日]] - [[ガリア]]に派遣される


これと平行してコンスタンティウスはライン川上流に進軍し、南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流を[[アラマンニ族]]から奪回する目的は達成された。アラマンニ族との戦いをコンスタンティウスに引き継いだユリアヌスは北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻した<ref>バワーソック、72頁。</ref>。
* [[356年]] - コロニア・アグリッピナ(現[[ケルン]])を回復


コンスタンティウスは[[357年]]にはガリアを離れたが、ユリアヌスの成功は続いた。アルゲントラトゥム(現[[ストラスブール]])の戦いにて、3倍近い[[アラマンニ族]]を相手に勝利を収め<ref>バワーソック、76頁。</ref>、その後はライン川を渡ってアラマンニ族の土地に攻撃を加えた。[[358年]]には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊がライン川を越えて征服したため、ローマ帝国北方の支配領域を、ライン・ドナウ両大河と、その源流の扇形の区域([[リメス|リメス・ゲルマニクス]])にまで戻すことに成功した<ref>バワーソック、78頁。</ref>。こうしてガリアの安定は取り戻された。それを示すように、[[359年]]になるとユリアヌスの軍事行動も少なくなる。
* [[357年]]8月 - アルゲントラトゥム(現[[ストラスブール]])の戦い。[[ゲルマン人]]に大勝


=== 正帝への登極(361年) ===
* [[360年]]2月 - [[ルテティア]](現[[パリ]])で皇帝([[アウグストゥス (称号)|正帝]])に推戴される
[[ファイル:Constantius II - solidus - antioch RIC viii 025.jpg|thumb|250px|right|コンスタンティウス2世の肖像が刻まれた[[ソリドゥス金貨]]]]
[[360年]]初頭、ユリアヌスの平穏は一変する。コンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからだ。要求されたのは、ユリアヌスが指揮する全軍の半数近くに及んだ<ref>バワーソック、84頁。</ref>。この指示を出すようコンスタンティウスに促したのが宮廷内の反ユリアヌス派であった可能性はあるが、当時の情勢を鑑みれば、安定した西方から緊張の高まっている東方へというのは自然な流れでもあった。359年に北[[メソポタミア]]の要衝アミダ(現[[ディヤルバクル]])を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢に出ていたためである<ref>倉橋、304頁。</ref>。


しかしユリアヌス側からすれば、この命令は苦渋の決断を迫られるものだった。対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していた<ref>Ammianus, 20.4.4, Vol.2, p.19.</ref>からだ。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現[[パリ]])に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって[[アウグストゥス (称号)|正帝]](皇帝)に推戴したのであった。
* [[361年]]
** 7月 - [[コンスタンティウス2世]]との対決に向け東方に進軍
** [[11月3日]] - コンスタンティウス2世、死去
** [[12月11日]] - コンスタンティノポリスに入城


ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた<ref>バワーソック、94頁。</ref>。
* [[362年]][[7月18日]] - [[アンティオキア]]に入城


アラマンニ族の王<ref>ユリアヌスを攻撃するように記された書簡を、コンスタンティウスから受け取っていたとされる。バワーソック、97-98頁。</ref>を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼する[[サルスティウス]]{{enlink|Sallustius}}にガリアを任せ、[[361年]]夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した<ref>バワーソック、99頁。</ref>。行軍速度は非常に速く、10月には[[シルミウム]](現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家の[[アウレリウス・ウィクトル]]{{enlink|Aurelius Victor}}と面会している<ref>バワーソック、101頁。</ref>。同月末にはナイスス(現[[ニシュ]])に到った。ユリアヌスをこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦いを中断し、西へと向かう。しかし361年[[11月3日]]、西進する道中に[[キリキア]]地方で突然の死を迎えた<ref>バワーソック、103頁。</ref>。ユリアヌスは同月末、ナイススでその報告を受け取った。
* [[363年]]
** 1月 - 『ミソポゴン』を発表
** [[3月5日]] - [[ペルシア]]へ出征
** [[6月26日]] - 撤退中に負傷、死去


[[12月11日]]、ユリアヌスは唯一の皇帝としてコンスタンティノポリスに入城する<ref>Tougher, p.44.</ref>。時を置かずコンスタンティウスの葬儀を執り行い、この皇帝に対し深い尊敬の念を表した。コンスタンティウスに忠誠を誓っていた東方の兵士を抑えるためにも、簒奪者ではなく、正当な後継者として皇帝に即位したことを示す必要があった<ref>バワーソック、109頁。</ref>。実際に遺言があったかは不明だが、コンスタンティウスが死の間際にユリアヌスを後継者に認めたという噂が、葬儀ののちに流れた<ref>バワーソック、110頁。</ref>。
== 生涯 ==
[[ファイル:147 Constantius II.jpg|thumb|left|コンスタンティウス2世の肖像が刻まれたコイン]]
=== 即位前 ===
コンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスとバシリナの間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは猜疑心の強い皇帝[[コンスタンティウス2世]]の陰謀により家族を全員殺された。ユリアヌスとその兄[[コンスタンティウス・ガッルス]]{{enlink|Constantius Gallus}}は幼少のため見逃された。しかし、ユリアヌス(おそらくガッルスも)はビテュニア<ref>ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌスは、ニコメディアで司教[[エウセビオス]]の手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。</ref>に住まう母方の祖母のもとに預けられ、事実上[[軟禁]]された状態で養育された。軟禁生活では、[[キリスト教会]]の『[[聖書]]』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった[[宦官]]マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や[[ギリシア神話|神話]]も教えられていた。


=== 皇帝としての改革(361年 - 362年) ===
おそらく342年になると、ユリアヌスとガッルスは皇帝領の[[マケッルム]]{{enlink|Macellum}}へ移された。マケッルムではその名が意味する「囲い地」のとおり、外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、[[カッパドキアのゲオルギウス]]{{enlink|George of Laodicea}}の蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。
[[ファイル:Solidus Julian.jpg|thumb|250px|right|ユリアヌスの肖像が刻まれたソリドゥス金貨]]
==== 政治上の改革 ====
コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」で[[オリエンス道長官]]{{enlink|Praetorian prefecture of the East}}の[[サルティウス・セクンドゥス]]{{enlink|Salutius Secundus}}を代理人に選んだ<ref>バワーソック、111-112頁。</ref>。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった<ref>Tougher, p.45.</ref>。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている<ref>バワーソック、111頁。</ref>。


カルケドンで裁判が開かれる中、ユリアヌスはコンスタンティノポリスで宮廷の改革に取り組んだ。[[ディオクレティアヌス]]以降の帝政後期においては、宮廷ではペルシアをモデルとした新たな様式が導入され、その機能が肥大化していた<ref>バワーソック、118-119頁。</ref>。禁欲的な新たな皇帝はこれを一挙に縮減した。キリスト教徒の官僚や教会史家の中には、この改革の目的がキリスト教徒の放逐にあると考えるものもいたが、実際にはそうではなかった。宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである<ref>バワーソック、119頁。</ref>。
348年、2人は[[コンスタンティノポリス]]に召還され、6年間の追放が終わった。ガッルスはそのまま宮廷に留まった(とは言え、囚われの身であることに変わりはない)が、ユリアヌスは[[修辞学]]を学んだのちニコメディアに留学させられた。そこでは[[ギリシア哲学|哲学者]][[リバニオス]]{{enlink|Libanius}}の講義を、間接的にではあるが受けることができ、[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の影響を強く受けるようになる。


宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、[[元老院 (ローマ)|元老院]]の権威を復興させようという努力もした<ref>バワーソック、120頁。</ref>。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、ヘレニズムとの調和が必要だと信じていた<ref>Tougher, p.49.</ref>。
351年、兄ガッルスは[[サーサーン朝]]の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、[[ペルガモン]]にいた[[アエデシウス]]{{enlink|Aedesius}}や、[[エペソスのマクシムス]]{{enlink|Maximus of Ephesus}}など、[[アナトリア半島|小アジア]]の新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシウスの弟子[[プリスクス]]を訪ねてアテナイに赴いている。


つまり、彼の改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである<ref>バワーソック、117-118頁。</ref>。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]だったとされている<ref>Tougher, pp.47-48.</ref>。これについては、リバニオスも同様の説明をしている<ref>Libanius, ''Funeral Oration for Julian'', 11 (Tougher, p.117).</ref>。
=== 皇帝即位後 ===
[[ファイル:Solidus Julian.jpg|thumb|250px|right|ユリアヌスの横顔が刻まれた[[ソリドゥス金貨]]]]
354年、東方副帝であった兄ガッルスがコンスタンティウス2世に処刑された。このため翌年11月、皇帝の血縁者で唯一生き残ったユリアヌスが留学先のアテナイから呼び戻され、東西に敵を抱えた帝国の防衛を分担するためガリア担当の副帝に任命された。ユリアヌスは圧倒的に不利な状況にありながらもアルゲントラトゥム(現ストラスブール)で3倍の軍勢に圧勝するなど、目覚ましい戦果を挙げてゲルマン人([[フランク人]]、[[アラマンニ人]])の撃退に成功し、兵士たちから英雄視されるに到った。


==== 宗教面の改革 ====
統治においても、減税による経済活動の活性化、公正な徴税の実現、行政官の不正取り締まりなどにより順調にこれを立て直し、ガリア住民からも高い評価を得た。360年までには、ガリアは安定を取り戻していた。副帝になるまで軍事・政治どちらの経験もまったくなかったにもかかわらず、なぜこのように目覚ましい成果を残すことができたのか、研究者の間でも定説はない。
[[ファイル:Edward Armitage - Julian the Apostate presiding at a conference of sectarian - 1875.jpg|thumb|300px|right|教派間の議論を見守るユリアヌス<br>(エドワード・アーミテージ画)]]
宗教面では、キリスト教への優遇政策を廃止している。ユリアヌスは「[[異端]]」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起した<ref>バワーソック、118頁。</ref>。彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導した<ref>バワーソック、135頁。</ref>。異教祭儀の整備を進めたのも、[[ユダヤ教]]の[[エルサレム神殿]]の再建許可を出したのもそのためであった<ref>バワーソック、143頁。</ref>。これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 ({{lang|la|Apostata}})」の蔑称で呼ばれることになる。


その意図は教育行政に対してもよく現われている。[[362年]]6月に布告した勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた<ref>Julian, ''Rescript on Christian Teahers'' (Tougher, pp.92-93).</ref>。これはキリスト教徒が教師となること自体は禁じていなかったが、実質的にキリスト教徒は異教のものである古典文学を教授することができなくなった<ref>バワーソック、136頁。</ref>。こうしてユリアヌスは、ギリシアの伝統ある文化・文明の「異教徒」による独占状態を作り出した。次世代の知識人層を「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ったのである<ref>バワーソック、137頁。</ref>。ユリアヌスは表面的には宗教的な差別は行わなかったが、その内心では明らかにキリスト教勢力を打倒しようとしていた<ref>バワーソック、138頁。</ref>。
以上のようにユリアヌスは軍事・政治とも順調に運営することができた。しかし360年初春、配下の[[ローマ軍団|軍団]]から半数以上の兵力をコンスタンティウスの下に転属させるよう求められる。ユリアヌスは以前、ガリアの兵士たちに転勤はさせないと言っていたが、周囲の進言もあり、派遣予定の全軍を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。そして東方へ向かうよう勧告した日の夜、兵たちはユリアヌスの幕舎を囲み、歓呼でもって彼を皇帝(正帝)であると宣言した。この事件は兵士たちの合意の上とも、ユリアヌスの計画ともされるが、いずれにせよ彼自身が心の中では喜んで推戴に応じたことは間違いなかった。コンスタンティウスに対する書簡の中では「副帝」を自称していたが、ガリアでは数ヶ月のうちに公然と皇帝として振る舞うようになっていた。


ただし、彼が復興を目指した「異教」は、帝政以前からの伝統である(例えばアウグストゥスの時代の)ローマの国家宗教とは趣を異にした。当時の知識人がそうであったように、彼自身も[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の影響を受けていたからである。ユリアヌスの考えるギリシア的宗教とは、ギリシア神話やローマ神話に代表されるような伝統的多神教ではなく、[[太陽神]]<ref>プロティノスの唱えた「[[プロティノス#一者|一者]]」に相当する存在であり、これも[[ヘーリオス]]や[[ソル]]などの伝統的なギリシア・ローマ神話上の人格神ではない。後藤、全般。</ref>とその下降形態である神々からなる[[単一神教]] ({{lang|en|henotheism}}) であった<ref>後藤、全般。</ref>。
コンスタンティウス2世との対立は決定的となり、挙兵を決意したユリアヌスは対決に向けて準備を進めていた。しかし、そこに再びゲルマン人が侵入してきた。ユリアヌスが敵から入手した書簡によると、コンスタンティウスがアラマンニ人の王を背後で操っていたようである。侵入者を撃退したユリアヌスは361年7月、東方に向けて進軍を開始した。これに呼応して[[ドナウ川]]流域の軍団兵もユリアヌス側に投降した。驚異的な速度で進軍するユリアヌスを相手に、コンスタンティウスもペルシアから転進するが[[キリキア]]で突然の死を迎えた。このためユリアヌスは、滞在していたナイスス(現[[ニシュ]])で単独の皇帝となった。コンスタンティノポリス入城後は、コンスタンティウスの葬儀を執り行い、自らの帝位の正当性を示すよう努めた。コンスタンティウスが死の間際、ユリアヌスを後継者に指名したという噂が広まったのもこの時期である。その後はガリアでの経験を元に、財政再建など帝国を立て直すべく諸改革を続けざまに実行した。ただその行動は性急であり、熟慮に欠けると思われるものもあった。


==== 改革への反発と対立 ====
362年から翌年にかけては、帝国東方の安定のためサーサーン朝への大規模な遠征の準備としてアンティオキアに滞在した。ところがこのときに[[旱魃]]が重なり、その対応を誤ったユリアヌスは住民との関係を悪化させた。『[[ミソポゴン]]{{enlink|Misopogon}}』が書かれたのはこのときである。363年にはサーサーン朝への遠征を開始した。首都[[クテシフォン]]まで快進撃を続けたが、別働隊が到着しなかったため攻略を断念。決定的な勝利を収めることなく撤退を始めた。しかしその途中、ペルシア軍の執拗な追撃を受けて負傷してしまい、その傷が元で陣中で没した。31歳、正帝になって1年7ヶ月のことであった。死に際して「[[ガリラヤ]]人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。彼の死後、キリスト教勢力によってキリスト教への特権的措置は復活した。
急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在した[[アンティオキア]]での、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は[[旱魃]]に見舞われていた<ref>バワーソック、152頁。</ref>。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した<ref>バワーソック、156-160頁。</ref>。『[[ミソポゴン]]{{enlink|Misopogon}}』が書かれたのはこのときである。


ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった<ref>Tougher, p.52.</ref>。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。
== キリスト教への対抗 ==
[[ファイル:Saint Mercurius killing Iulian.jpg|thumb|ユリアヌスを殺す聖メルクリウス]]
===「異教」の復興 ===
ユリアヌスは[[コンスタンティヌス1世]]以来優遇され、当時帝国で一大勢力となりつつあったキリスト教に抗した。キリスト教徒に与えられていた特権を廃止し、代わりに[[ペイガニズム|異教]]を保護することでその復興を目指したのである。そのために、[[ユダヤ教]]の勢力強化のための[[エルサレム]]神殿の再建許可や、異教祭司団の整備、キリスト教徒の教師の排斥などを行った。これらの行動により、長らくキリスト教徒からは「背教者({{lang|la|Apostata}})<ref>彼にはそもそもキリスト教に対する「信教」がなかったため「背教」には当たらない、という見方もある。</ref>」の蔑称で呼ばれたほか、「異教の復興を企てた」などのように負のイメージで語られることも多い。


=== ペルシア遠征(363年) ===
ユリアヌスはキリスト教徒に対し、直接的な弾圧は行っていない。むしろその慈愛の精神や、信徒の生活態度を賞賛していたとされる。近年では、彼の政策は諸宗教の勢力均衡を図ったものであり、キリスト教のみを優遇した他の皇帝に比して賢明であったとの評価がある。ユリアヌスの[[宗教多元主義]]的政策は、キリスト教が興隆し古代ギリシア・ローマの信仰が衰退していくなか、両者の勢力がほぼ均衡を保っていた短い時期だったからこそ行えたともいえる。
[[ファイル:Julian Campaign 363.png|thumb|350px|right|ユリアヌスのペルシア遠征経路]]
サーサーン朝の[[シャープール2世]]は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつての[[アケメネス朝]]の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。


363年3月5日、ユリアヌスは8〜9万の兵を率いてアンティオキアを発った<ref>バワーソック、174頁。</ref>。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟[[ホルミズド]]{{enlink|Hormizd (Constantinople)}}を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現[[マンビジ]])にて補給態勢の確認を行ったのち、[[ユーフラテス川]]を渡ってメソポタミアに入った<ref>バワーソック、175頁。</ref>。メソポタミアのカルラエ(現[[ハッラーン]])では、プロコピウス{{enlink|Procopius (usurper)}}とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた<ref>Ammianus, 23.3.5, Vol.2, p.323. ただしこの「メディア」とはアッシリアの範囲内のことのようである。''ibid''., p.322, 脚註3。</ref>。
=== ユリアヌスの信仰 ===

以上のようにユリアヌスは、帝国のキリスト教化が進む中にあって、最後の異教徒皇帝としてその流れに抗った。だが彼が復興を目指した「異教」は、帝政以前からの伝統であるローマの国家宗教とは趣を異にした。当時の知識人がそうであったように、彼自身も[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の影響を受けていたからである。ユリアヌスの考えるギリシア的宗教とは、ギリシア神話やローマ神話に代表されるような伝統的多神教ではなく、[[プロティノス#一者|一者]]たる[[太陽神]]<ref>[[ヘーリオス]]や[[ソル]]などの伝統的な人格神とは異なる。</ref>とその下降形態である神々からなる[[単一神教]]({{lang|en|henotheism}})であった。
ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現[[ラッカ]])に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発ったのちはキルケシウム{{enlink|Circesium}}(現ブセイラ)にて[[ハブール川]]を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、[[ドゥラ・エウロポス]]、[[アナタ]]{{enlink|Anah}}、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている<ref>Ammianus, 24.1.5-2.6, Vol.2, pp.403-411.</ref>。このうちオゾガルダナには、[[トラヤヌス]]の[[パルティア]]遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。

その後は[[ピリサボラ]]{{enlink|Anbar (town)}}を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した<ref>Ammianus, 24.6.1, Vol.2, p.457.</ref>。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した<ref>バワーソックは、水がティグリス川に流れるように造られた運河としているが、Bennettは、トラヤヌスは陸上に装置を設けて船を運んだとしている。バワーソック、182頁。Bennett, p.199.</ref>。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した<ref>バワーソック、183頁。</ref>。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った<ref>バワーソック、183-185頁。</ref>。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、[[6月26日]]、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した<ref>バワーソック、185-186頁。</ref>。死に際して「[[ガリラヤ]]人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。

[[ファイル:Roman-Persian Frontier, 5th century.png|thumb|250px|right|4世紀末のローマ帝国東方の領域<br>([[384年]]のテオドシウスによる分割後)]]
撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝[[ヨウィアヌス]]は、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した<ref>Blockley, p.27.</ref>。
* サーサーン朝は、[[アルザネネ]]{{enlink|Aghdznik}}、[[モクソエネ]]{{enlink|Moxoene}}、[[ザブディケネ]]、[[レヒメネ]]、[[コルドゥエネ]]{{enlink|Corduene}}の5つのトランスティグリタニア地方を15の砦とともに得る
* サーサーン朝は、[[ニシビス]]{{enlink|Nusaybin}}、[[シンガラ]]{{enlink|Singara}}、[[カストラ・マウロルム]]を得る
* ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民を退去させてよい
* ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝に対抗しない

これにより、サーサーン朝側の優勢は決定的となり、さらにローマ帝国は北方の国境にも問題を抱えていたため、以後、両国間に大規模な武力衝突はなくなった。4世紀末に[[テオドシウス1世]]が一時攻勢に出たが、東方国境以外に不安要素を抱えていたため、アルメニアを東西分割してその西側の一部をローマ側のものとするのが限界であった<ref>倉橋、304-305頁。</ref>。ユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばの[[ユスティニアヌス1世]]の征服活動を待つことになる。

== 年譜 ==
「ユリアヌス」が主語の場合、特に明示しない。

* 331/332年 - コンスタンティノポリスに生まれる
* 337年
** 5月22日 - コンスタンティヌス1世(大帝)、死去
** 夏(9月9日以前) - 一家暗殺される。ビテュニアの祖母に引き取られる
* 338/339年 - マルドニオス、ユリアヌスの家庭教師となる
* 342年頃 - ユリアヌスとガルス、マケルムに勾留される
* 348年 - ユリアヌスとガルス、コンスタンティノポリスに召還される
* 同年末/349年 - ニコメディアに留学
* 351年5月 - ガルス、副帝に即位
* 354年 - ガルス、処刑される。メディオラヌムの宮廷に召還、拘束される
* 355年
** 夏 - アテナイに遊学
** 11月6日 - 副帝に即位
** 12月1日 - ガリアに派遣される
* 356年 - コロニア・アグリッピナを回復
* 357年8月 - アルゲントラトゥムの戦い。ゲルマン人に大勝
* 360年2月 - ルテティアで皇帝(正帝)に推戴される
* 361年
** 7月 - コンスタンティウス2世との対決に向け東方に進軍
** 11月3日 - コンスタンティウス2世、死去
** 12月11日 - コンスタンティノポリスに入城
* 362年7月18日 - アンティオキアに入城
* 363年
** 1月 - 『ミソポゴン』を発表
** 3月5日 - ペルシアへ出征
** 6月26日 - 撤退中に負傷、死去


== 主な著作 ==
== 主な著作 ==
*『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている
*『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている
*『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺
*『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺
*『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への批判
*『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への批判
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== 脚註 ==
== 脚註 ==
{{reflist}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Flavius Claudius Iulianus}}
{{Commonscat|Flavius Claudius Iulianus}}
* [[ミラノ勅令]]
* [[キリスト教]]
* [[キリスト教]]
* [[シャープール2世]]
* [[ネオプラトニズム]]
* [[ネオプラトニズム]]
* [[多元主義]]
* [[者ユリアヌス]]
* [[マルケリヌス・アンミアヌス]]
* [[マルケリヌス・アンミアヌス]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]3.コンスタンティヌスとユリアヌス』 中野好夫訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、1996年、ISBN 9784480082633
* [[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]3 コンスタンティヌスとユリアヌス』 中野好夫訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、1996年、ISBN 9784480082633
* [[後藤篤子]]「ローマ帝国における『異教』キリスト教[[歴史学研究会]]編『古代地中海世界の統一変容』 [[青木書店]]〈地中海世界史〉2000年、ISBN 9784250200083
* 倉橋良伸後期ローマ帝国とササン朝ペルシア倉橋良伸ほか編『躍動する古代ローマ世界 支配解放運動をめぐって』 理想社2002年、ISBN 9784650902167。
* [[後藤篤子]]「ローマ帝国における『異教』とキリスト教」[[歴史学研究会]]編『古代地中海世界の統一と変容』 [[青木書店]]〈地中海世界史〉、2000年、ISBN 9784250200083。
* [[塩野七生]]『キリストの勝利 [[ローマ人の物語]]XIV』 [[新潮社]]、2005年、ISBN 9784103096238 - 新潮文庫〈3分冊〉で再刊。
* クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』 [[青柳正規]]監修、月村澄枝訳、[[創元社]]、1998年、ISBN 9784422215112
* クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』 [[青柳正規]]監修、月村澄枝訳、[[創元社]]、1998年、ISBN 9784422215112
* ダイアナ・バウダー編『古代ローマ人名事典』 小田謙儞ほか訳、[[原書房]]、1994年、ISBN 9784562026050。
* [[辻邦生]]『[[背教者ユリアヌス]]』、[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]全3巻〉、1974-75年 - 歴史小説
* ダイアナ・バウダ古代ローマ人名事典』 謙儞ほか訳、[[原書房]]1994年、ISBN 9784562026050
* G・W・バソック背教者ユリアヌス』 一郎訳、思索社1986年、ISBN 9784783511182。
* [[秀村欣二]]「ギリシア・ローマ史」『秀村欣二選集』 第4巻、キリスト教図書出版社、2006。
* G・W・バワーソック『背教者ユリアヌス』 新田一郎訳、思索社、1986年、ISBN 9784783511182
* ''Ammianus Marcellinus with an English Translation by John. C. Rolfe'', The Loeb Classical Library, Revised edition, Vol.1-3, London, 1950-52, ISBN 9780674993310.
* ドミートリイ・メレシコーフスキイ『背教者ユリアヌス 神々の死』 [[米川正夫]]訳、[[河出書房新社]]、新版1986年 - [[歴史小説]]
* Julian Bennet, ''Trajan, Optimus Princeps: A Life and Times'', Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 1997, ISBN 9780415165242.
* [[秀村欣二]]『「ギリシア・ローマ史」 秀村欣二選集.第4巻』 キリスト教図書出版社、2006年。
* R. C. Blockley, ''East Roman Foreign Policy: Formation and Conduct from Diocletian to Anastasius'', Leeds: Francis Cairns, 1992, ISBN 9780905205830.
* Tougher, Shaun. (2007), ''Julian the Apostate'', Edinburgh: Edinburgh Univ Pr, ISBN 9780748618866.
* Shaun Tougher, ''Julian the Apostate'', Edinburgh: Edinburgh University Press, 2007, ISBN 9780748618866.


== ユリアヌスを描いた文学作品 ==
{{先代次代|[[ローマ皇帝一覧|ローマ皇帝]]|[[361年]] - [[363年]]|[[コンスタンティウス2世]]|[[ヨウィアヌス]]}}
* [[塩野七生]]『キリストの勝利 [[ローマ人の物語]]XIV』 [[新潮社]]、2005年、ISBN 9784103096238。
* [[辻邦生]]『背教者ユリアヌス』 [[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉、全3巻、1974-75年。
* ドミートリイ・メレシコーフスキイ『背教者ユリアヌス 神々の死』 新版、[[米川正夫]]訳、[[河出書房新社]]、1986年。


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2011年11月11日 (金) 10:50時点における版

ユリアヌス
Julianus
ローマ皇帝
在位 副帝:
355年11月6日 - 360年2月
正帝:
360年2月 - 361年11月3日
全ローマの皇帝:
361年11月3日 - 363年6月26日

全名 フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
出生 331年または332年
コンスタンティノポリス
(現トルコの旗 トルコイスタンブル
死去 363年6月26日
マランガ
(現イラクの旗 イラクサーマッラー近郊)
配偶者 ヘレナ (Helena (wife of Julian)
王朝 コンスタンティヌス朝
父親 ユリウス・コンスタンティウス英語版
母親 バシリナ
テンプレートを表示

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス古典ラテン語Flavius Claudius Julianus フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス、331/332年 - 363年6月26日)は、ローマ帝国皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)である。コンスタンティヌス朝の皇帝の1人でコンスタンティヌス1世(大帝)の甥に当たる。最後の「異教徒皇帝」として知られる。異教[1]復興を掲げキリスト教への優遇を改めたため、「背教者ラテン語Apostata)」とも呼ばれる。

生涯

誕生から副帝登用まで(331年 - 355年)

331年または332年[2]コンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウス (Julius Constantiusとその妻バシリナ (Basilinaの間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により家族を暗殺された。ユリアヌスとその兄コンスタンティウス・ガルス (Constantius Gallusは幼少のため見逃された[3]。ユリアヌスは(おそらくガルスも共に)ビテュニアに住まう母方の祖母のもとに預けられ[4]、事実上軟禁された状態で養育された。軟禁生活では、キリスト教会の『聖書』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった宦官マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や神話も教えられていた。

おそらく342年になると、ユリアヌスとガルスは皇帝領のマケルム (Macellumへ移された。マケルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウス (George of Laodiceaの蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。

348年、2人はコンスタンティノポリスに召還され、6年間の追放が終わった。ガルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで修辞学を学んだのち、ニコメディアへ留学した。この地で哲学者リバニオス (Libaniusの講義を、間接的にではあるが受けることができ[5]、ユリアヌスは新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。

351年、ガルスは東方のサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesiusや、エペソスのマクシムス (Maximus of Ephesusなど、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねてアテナイに赴いている。

354年、副帝であったガルスがコンスタンティウス2世に処刑された[6]。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いを掛け、メディオラヌム(現ミラノ)の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃エウセビア (Eusebia (empress)が唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。

メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者プロハイレシオスから手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる[7]

355年後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなくガリアでの問題にも直面していた[8]。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガルスに替わる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から、355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった[9]

ガリア赴任(355年 - 360年)

ガリアの都市

355年末、ユリアヌスはコンスタンティウスとともにガリアに向かっていた。配下に置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、フランク族によってコロニア・アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける[10]。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。

翌年6月、ウィエンナ(現ヴィエンヌ)での越冬を終えたユリアヌスはまず、攻撃に晒されていたアウグストドゥヌム(現オータン)を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現オセール)、アウグストボナ(現トロワ)で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現ランス)まで北上し、その地の駐屯軍と合流した[11]。戦力を整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現メス)を経由して、ライン川中流の西岸まで進出した。

これと平行してコンスタンティウスはライン川上流に進軍し、南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流をアラマンニ族から奪回する目的は達成された。アラマンニ族との戦いをコンスタンティウスに引き継いだユリアヌスは北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻した[12]

コンスタンティウスは357年にはガリアを離れたが、ユリアヌスの成功は続いた。アルゲントラトゥム(現ストラスブール)の戦いにて、3倍近いアラマンニ族を相手に勝利を収め[13]、その後はライン川を渡ってアラマンニ族の土地に攻撃を加えた。358年には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊がライン川を越えて征服したため、ローマ帝国北方の支配領域を、ライン・ドナウ両大河と、その源流の扇形の区域(リメス・ゲルマニクス)にまで戻すことに成功した[14]。こうしてガリアの安定は取り戻された。それを示すように、359年になるとユリアヌスの軍事行動も少なくなる。

正帝への登極(361年)

コンスタンティウス2世の肖像が刻まれたソリドゥス金貨

360年初頭、ユリアヌスの平穏は一変する。コンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからだ。要求されたのは、ユリアヌスが指揮する全軍の半数近くに及んだ[15]。この指示を出すようコンスタンティウスに促したのが宮廷内の反ユリアヌス派であった可能性はあるが、当時の情勢を鑑みれば、安定した西方から緊張の高まっている東方へというのは自然な流れでもあった。359年に北メソポタミアの要衝アミダ(現ディヤルバクル)を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢に出ていたためである[16]

しかしユリアヌス側からすれば、この命令は苦渋の決断を迫られるものだった。対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していた[17]からだ。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって正帝(皇帝)に推戴したのであった。

ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた[18]

アラマンニ族の王[19]を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサルスティウス (Sallustiusにガリアを任せ、361年夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した[20]。行軍速度は非常に速く、10月にはシルミウム(現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家のアウレリウス・ウィクトル (Aurelius Victorと面会している[21]。同月末にはナイスス(現ニシュ)に到った。ユリアヌスをこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦いを中断し、西へと向かう。しかし361年11月3日、西進する道中にキリキア地方で突然の死を迎えた[22]。ユリアヌスは同月末、ナイススでその報告を受け取った。

12月11日、ユリアヌスは唯一の皇帝としてコンスタンティノポリスに入城する[23]。時を置かずコンスタンティウスの葬儀を執り行い、この皇帝に対し深い尊敬の念を表した。コンスタンティウスに忠誠を誓っていた東方の兵士を抑えるためにも、簒奪者ではなく、正当な後継者として皇帝に即位したことを示す必要があった[24]。実際に遺言があったかは不明だが、コンスタンティウスが死の間際にユリアヌスを後継者に認めたという噂が、葬儀ののちに流れた[25]

皇帝としての改革(361年 - 362年)

ユリアヌスの肖像が刻まれたソリドゥス金貨

政治上の改革

コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」でオリエンス道長官 (Praetorian prefecture of the Eastサルティウス・セクンドゥス (Salutius Secundusを代理人に選んだ[26]。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった[27]。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている[28]

カルケドンで裁判が開かれる中、ユリアヌスはコンスタンティノポリスで宮廷の改革に取り組んだ。ディオクレティアヌス以降の帝政後期においては、宮廷ではペルシアをモデルとした新たな様式が導入され、その機能が肥大化していた[29]。禁欲的な新たな皇帝はこれを一挙に縮減した。キリスト教徒の官僚や教会史家の中には、この改革の目的がキリスト教徒の放逐にあると考えるものもいたが、実際にはそうではなかった。宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである[30]

宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、元老院の権威を復興させようという努力もした[31]。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、ヘレニズムとの調和が必要だと信じていた[32]

つまり、彼の改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである[33]。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだったとされている[34]。これについては、リバニオスも同様の説明をしている[35]

宗教面の改革

教派間の議論を見守るユリアヌス
(エドワード・アーミテージ画)

宗教面では、キリスト教への優遇政策を廃止している。ユリアヌスは「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起した[36]。彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導した[37]。異教祭儀の整備を進めたのも、ユダヤ教エルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためであった[38]。これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 (Apostata)」の蔑称で呼ばれることになる。

その意図は教育行政に対してもよく現われている。362年6月に布告した勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた[39]。これはキリスト教徒が教師となること自体は禁じていなかったが、実質的にキリスト教徒は異教のものである古典文学を教授することができなくなった[40]。こうしてユリアヌスは、ギリシアの伝統ある文化・文明の「異教徒」による独占状態を作り出した。次世代の知識人層を「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ったのである[41]。ユリアヌスは表面的には宗教的な差別は行わなかったが、その内心では明らかにキリスト教勢力を打倒しようとしていた[42]

ただし、彼が復興を目指した「異教」は、帝政以前からの伝統である(例えばアウグストゥスの時代の)ローマの国家宗教とは趣を異にした。当時の知識人がそうであったように、彼自身も新プラトン主義の影響を受けていたからである。ユリアヌスの考えるギリシア的宗教とは、ギリシア神話やローマ神話に代表されるような伝統的多神教ではなく、太陽神[43]とその下降形態である神々からなる単一神教 (henotheism) であった[44]

改革への反発と対立

急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在したアンティオキアでの、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は旱魃に見舞われていた[45]。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した[46]。『ミソポゴン (Misopogon』が書かれたのはこのときである。

ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった[47]。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。

ペルシア遠征(363年)

ユリアヌスのペルシア遠征経路

サーサーン朝のシャープール2世は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつてのアケメネス朝の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。

363年3月5日、ユリアヌスは8〜9万の兵を率いてアンティオキアを発った[48]。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟ホルミズド (Hormizd (Constantinople)を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現マンビジ)にて補給態勢の確認を行ったのち、ユーフラテス川を渡ってメソポタミアに入った[49]。メソポタミアのカルラエ(現ハッラーン)では、プロコピウス (Procopius (usurper)とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた[50]

ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現ラッカ)に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発ったのちはキルケシウム (Circesium(現ブセイラ)にてハブール川を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、ドゥラ・エウロポスアナタ (Anah、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている[51]。このうちオゾガルダナには、トラヤヌスパルティア遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。

その後はピリサボラ (Anbar (town)を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した[52]。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した[53]。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した[54]。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った[55]。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、6月26日、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した[56]。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。

4世紀末のローマ帝国東方の領域
384年のテオドシウスによる分割後)

撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝ヨウィアヌスは、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した[57]

これにより、サーサーン朝側の優勢は決定的となり、さらにローマ帝国は北方の国境にも問題を抱えていたため、以後、両国間に大規模な武力衝突はなくなった。4世紀末にテオドシウス1世が一時攻勢に出たが、東方国境以外に不安要素を抱えていたため、アルメニアを東西分割してその西側の一部をローマ側のものとするのが限界であった[58]。ユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばのユスティニアヌス1世の征服活動を待つことになる。

年譜

「ユリアヌス」が主語の場合、特に明示しない。

  • 331/332年 - コンスタンティノポリスに生まれる
  • 337年
    • 5月22日 - コンスタンティヌス1世(大帝)、死去
    • 夏(9月9日以前) - 一家暗殺される。ビテュニアの祖母に引き取られる
  • 338/339年 - マルドニオス、ユリアヌスの家庭教師となる
  • 342年頃 - ユリアヌスとガルス、マケルムに勾留される
  • 348年 - ユリアヌスとガルス、コンスタンティノポリスに召還される
  • 同年末/349年 - ニコメディアに留学
  • 351年5月 - ガルス、副帝に即位
  • 354年 - ガルス、処刑される。メディオラヌムの宮廷に召還、拘束される
  • 355年
    • 夏 - アテナイに遊学
    • 11月6日 - 副帝に即位
    • 12月1日 - ガリアに派遣される
  • 356年 - コロニア・アグリッピナを回復
  • 357年8月 - アルゲントラトゥムの戦い。ゲルマン人に大勝
  • 360年2月 - ルテティアで皇帝(正帝)に推戴される
  • 361年
    • 7月 - コンスタンティウス2世との対決に向け東方に進軍
    • 11月3日 - コンスタンティウス2世、死去
    • 12月11日 - コンスタンティノポリスに入城
  • 362年7月18日 - アンティオキアに入城
  • 363年
    • 1月 - 『ミソポゴン』を発表
    • 3月5日 - ペルシアへ出征
    • 6月26日 - 撤退中に負傷、死去

主な著作

  • 『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている
  • 『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺
  • 『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への批判
  • 『王なる太陽への賛歌』 - 「異教」神学の体系化を図った著作

脚註

  1. ^ 「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。後藤。
  2. ^ 331年が有力とされる。月日については不明。バワーソック、44頁。
  3. ^ ガルスは当時、病で間もなく死ぬと思われていた。バウダー、104頁。
  4. ^ ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、ニコメディアで司教エウセビオスの手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。Tougher, p.14.
  5. ^ リバニオスの話を直接聞くことはコンスタンティウスに禁じられていたため、代理の者にノートを取らせていた。Tougher, p.16.
  6. ^ ガルスの統治が評価しがたいものであったことはユリアヌスも認めており、処刑はともかく副帝解任には正当性があった。バワーソック、62頁。
  7. ^ Tougher, p.18.
  8. ^ バワーソック、61頁。
  9. ^ バワーソック、62頁。
  10. ^ Ammianus, 15.8.19, Vol.1, p.175.
  11. ^ バワーソック、70-71頁。
  12. ^ バワーソック、72頁。
  13. ^ バワーソック、76頁。
  14. ^ バワーソック、78頁。
  15. ^ バワーソック、84頁。
  16. ^ 倉橋、304頁。
  17. ^ Ammianus, 20.4.4, Vol.2, p.19.
  18. ^ バワーソック、94頁。
  19. ^ ユリアヌスを攻撃するように記された書簡を、コンスタンティウスから受け取っていたとされる。バワーソック、97-98頁。
  20. ^ バワーソック、99頁。
  21. ^ バワーソック、101頁。
  22. ^ バワーソック、103頁。
  23. ^ Tougher, p.44.
  24. ^ バワーソック、109頁。
  25. ^ バワーソック、110頁。
  26. ^ バワーソック、111-112頁。
  27. ^ Tougher, p.45.
  28. ^ バワーソック、111頁。
  29. ^ バワーソック、118-119頁。
  30. ^ バワーソック、119頁。
  31. ^ バワーソック、120頁。
  32. ^ Tougher, p.49.
  33. ^ バワーソック、117-118頁。
  34. ^ Tougher, pp.47-48.
  35. ^ Libanius, Funeral Oration for Julian, 11 (Tougher, p.117).
  36. ^ バワーソック、118頁。
  37. ^ バワーソック、135頁。
  38. ^ バワーソック、143頁。
  39. ^ Julian, Rescript on Christian Teahers (Tougher, pp.92-93).
  40. ^ バワーソック、136頁。
  41. ^ バワーソック、137頁。
  42. ^ バワーソック、138頁。
  43. ^ プロティノスの唱えた「一者」に相当する存在であり、これもヘーリオスソルなどの伝統的なギリシア・ローマ神話上の人格神ではない。後藤、全般。
  44. ^ 後藤、全般。
  45. ^ バワーソック、152頁。
  46. ^ バワーソック、156-160頁。
  47. ^ Tougher, p.52.
  48. ^ バワーソック、174頁。
  49. ^ バワーソック、175頁。
  50. ^ Ammianus, 23.3.5, Vol.2, p.323. ただしこの「メディア」とはアッシリアの範囲内のことのようである。ibid., p.322, 脚註3。
  51. ^ Ammianus, 24.1.5-2.6, Vol.2, pp.403-411.
  52. ^ Ammianus, 24.6.1, Vol.2, p.457.
  53. ^ バワーソックは、水がティグリス川に流れるように造られた運河としているが、Bennettは、トラヤヌスは陸上に装置を設けて船を運んだとしている。バワーソック、182頁。Bennett, p.199.
  54. ^ バワーソック、183頁。
  55. ^ バワーソック、183-185頁。
  56. ^ バワーソック、185-186頁。
  57. ^ Blockley, p.27.
  58. ^ 倉橋、304-305頁。

関連項目

参考文献

ユリアヌスを描いた文学作品

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