朝霞自衛官殺害事件

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朝霞自衛官殺害事件
場所 陸上自衛隊朝霞駐屯地
日付 1971年昭和46年)8月21日
概要 自衛隊の武器を強奪するために幹部自衛官に変装し駐屯地内に侵入した新左翼によって警衛勤務中の自衛官が刺殺された。
武器 包丁
死亡者 一場哲雄陸士長(事件後に2階級特進し、2等陸曹へ)
犯人 赤衛軍 日本大学駒澤大学学生
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朝霞自衛官殺害事件(あさかじえいかんさつがいじけん)とは、1971年昭和46年)8月21日に、東京都練馬区埼玉県朝霞市和光市新座市にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地警衛勤務中の自衛官新左翼によって殺害されたテロ事件である[1]

犯人グループが「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」ともいう。朝日ジャーナルの記者川本三郎と、週刊プレイボーイの記者がそれぞれ犯人を手助けしており、日本のマスメディアの信頼失墜にも繋がった。

事件の経過

事件の経過[2]
月日 時間 事柄
08月21日 20時30分 一場陸士長、動哨任務開始
20時40分 1回目の定時報告
21時10分 2回目の定時報告なし
21時40分 3回目の定時報告なし
22時00分過ぎ 警衛司令、次の歩哨を交代場所に派遣
22時10分 4回目の定時報告なし
22時30分 一場陸士長の任務終了時刻
22時30分過ぎ 交代場所待機の歩哨、一場陸士長交代場所に現れずと報告。
ラッパ手1名を交代場所に派遣し、一場陸士長の捜索開始
23時30分 捜索で発見できず。控え歩哨4名を応援派遣
08月22日 00時00分過ぎ 仮眠中の警衛所員7名全員で捜索。捜索隊員計13名
00時30分 倒れている一場陸士長を発見

事件当日の一場陸士長

東部方面隊第311装輪車野整備隊所属の一場哲雄陸士長(当時21歳)は21日、午前一回、午後一回の動哨任務を行い、20時30分に三回目の動哨任務に就いた。動哨中は途中に設置されている警備電話で30分毎に指令に連絡する事になっていた。当夜、20時40分に「異常なし」と連絡を入れたが、その後、連絡が途絶えた[2]

事件認知

22時過ぎ、警衛司令は一場陸士長からの連絡が途絶えたことから、次の歩哨を少し早めに交代場所に派遣した。22時30分、交代の時間になっても一場陸士長は交代場所に現れなかった。警衛司令はラッパ手1名を交代場所に派遣し、捜索を開始した。23時30分、捜索隊から発見できずの報を受け、警衛司令は休憩中の歩哨を捜索隊に追加した。午前0時過ぎ、警衛司令は捜索隊に警衛所で仮眠していた7名を捜索隊に追加した。合計13名での捜索から30分後の午前0時30分、捜索隊の一人が血まみれで倒れている一場陸士長を発見した[2]

一場陸士長は直ちに病院に搬送されたが、既に死亡していた[2][3][4][5]

事件現場周辺には、一場陸士長が所持していた銃剣、鉄帽、懐中電灯が散乱していた他、小銃が近くの側溝から発見された。一方、犯人が残したとみられる以下の遺留品があった[6]

  1. 1メートル四方の赤い布に、黄色のビニールテープで「赤衛軍」と貼り付けた旗
  2. 「赤衛軍」と書かれた赤いヘルメット2個
  3. ヘルメットの汗取りの折り返しの中に「緊急通達」と書かれた、6センチメートル×13センチメートル大のメモ1枚
  4. 『戦斗宣言!!』と題するわら半紙謄写版で印刷されたビラ82枚
  5. 朝日新聞』1971年(昭和46年)6月17日付、朝刊経済面
  6. 腕時計2個
  7. 眼鏡1個[6]

また、一場陸士長が左腕に付けていた「警衛」の腕章が消えていた。

『戦斗宣言!!』は次の文面が手書きで書かれていた[7]

戦斗宣言!!

☆日本共産党中央委員会

☆日本共産党赤衛軍

  関東第一方面軍《人民の革命的前衛》

われわれ日本共产(産)党と人民の革命的先鋒部隊=赤衛軍は、本日の〈米軍=自衛隊反革命軍に対する《基地襲撃銃器奪取斗争》を突破口として、圧仆(倒)的な非合法遊撃战(戦)に突入したことを、ここにすべての労働者・農民・学生・被抑圧人民に宣言し、全国[注釈 1]いたるところに散在している革命的武斗派諸君のわれわれの战(戦)列への結集を呼びかけるものである!

全世界のブルジョアジーどもよ! プロレタリア世界暴力革命に反対し、人民への搾取と抑圧とをもって己のあとわずかばかり残された生命をつなぎとめることに日夜狂奔することのみなすすべを知らぬ一切の反革命―反動勢力とその権力の手先どもよ、聞くがよい! 長い間われわれは卑しむべき欺瞞の“平和”に耐えてきた。われわれは、この人民への搾取と抑圧の上にあぐらをかき、深々としてここちの良いソファーに包まれながら「世界は永久におれたちのものだ」といわんばかりのいまいましい面をひっさげているおまえたちを、この世界から一掃せねばならぬ歴史的な任務を必ずや遂行するであろう。帝国主义(義)者どもよ、おまえたちが大战(戦)争の危機を強調し人民を脅かしつつあるいま、それに対するわれわれの正しい解答は、战(戦)争を恐れ回避することではない。われわれは正义(義)の革命戦争をもっておまえたちの帝国[注釈 1]主义(義)侵略反革命战(戦)争に反対するだろう!

いまわれわれは、政治的にも人間的にもより複雑な任務に直面しつつある。われわれは(裏面へ→)


(表面から→)すべての人々の解放に向けた希望を己の一身に托しつつ決起した。われわれは自らの正しさの保証を得るためには、ただ自らの眼を持ってする現実の真摯な分析とおのおのの人民の革命的実践あるのみであることを、誰にもまして良く知っている。

われわれは革命的実践を通じてマルクス・レーニン主义(義)の真理に到達しようとしている。それをわれわれは革命的斗争の鉄火の中から生まれるものであり、かつ獲得しうるものだと固く信じている。

いまや、わが国[注釈 1]における人民解放武装闘争の条件は、いやというほどたっぷりと成熟している!

本日を機して日本共产(産)党は鮮烈な非合法斗争に突入した!

いまやブルジョアジーは、その足もとからくずれ去ろうとしている!

 総べての権力を人民へ!

 日本人民の偉大な武装闘争万才!

 プロレタリア国際主义(義)万才!

 日本共产(産)党万才!

 人民の革命的前衛=赤衛軍万才!

 真紅の暴力路線万才!

 日本共産党は斗うぞ!

 赤衛軍は勝利するぞ!

 基地襲撃銃器奪取斗争の勝利万才!

— 赤衛軍『戦斗宣言!!』[7] ()内は加筆

司法解剖

一場陸士長の遺体は埼玉県警察本部鑑識執刀医により司法解剖が行われた。右胸部に深さ13センチメートルの刺創が2か所あり、そのうち1か所は第4肋骨から胸腔内に入り、右を貫通、胸骨の内面を抉っていた。もう一方の傷は脇下線状第8肋間から胸腔内に入り、横隔膜2か所を貫通、肝臓内に11.5センチメートル刺さって止まっていた[8]

死因は出血多量。解剖所見によると「心臓摘出時に流出血液ほとんどなし」だったという。他に顔面、頭部、頸部に挫裂創、線状切創が数か所あった[8]

死亡推定時刻は21日午後10時前後とされ、捜索隊員が発見した時間より少なくとも2時間前に殺されたことが判明した[8]

捜査

赤衛軍の痕跡

埼玉県警察は「赤衛軍」という新左翼党派が起こした事件とみて、朝霞警察署に捜査本部を設置し捜査を開始した。遺留品を調べたところ、何れも東京都内で販売されたことから、犯人は都内に住んでいると推測したが、赤衛軍はこれまで事件を起こしたことがなく、公安警察といえども正体不明の存在であった。

一方、『戦斗宣言!!』の文章から次の分析がなされた[9]

『戦斗宣言!!』は最初のうちは字の大きさが揃い、癖が出ないよう丹念に書かれていたが、時間が無かった為か、裏面になると字が不揃いになっていた。また、「緊急通達」のメモの筆跡と同一人物であることが、誰の目にも明らかであった。あれもこれも自分で書いているという事は、小集団であると考えられた[9]

また、「緊急通達」のメモは「ネスカフェ」「マックスウェル[注釈 2]」「ストロング」「クリープ[注釈 3]」「お元気ですか」「かぜ気味です」「見舞いに行きます」「総力あげて突入せよ」「処分せよ」などと商品名を思いつくまま挙げているだけで、暗号指令というよりは寧ろ幼稚な“遊び”すら感じさせた。従って赤衛軍は、毛沢東かぶれのトロツキスト集団で、理論も戦術も消化しきれない小集団であると推定された[9]

週刊プレイボーイの記事から捜査が進展

発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月19日号の『週刊プレイボーイ』に「独占スクープ 朝霞の自衛官殺しはオレたちだ!」「謎の超過激派(赤衛軍)幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明し、取材源は限りなく「クロ」であることが分かった[10][注釈 4]

県警はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された[12][13][14][15]

3人の学生は警察の取調べに対し、

  • 自衛隊の武器を強奪するために、幹部自衛官制服を準備し、幹部自衛官に変装して駐屯地内に侵入した。
  • 歩哨の自衛官をいきなり包丁で刺し、所持のライフル銃を奪おうとしたが、ライフル銃が側溝に落ちてしまい、暗かったので見失ってしまった。
  • 自党派の存在をアピールするため、わざと遺留品を残した。

と供述した。

女子日大生2人を逮捕

1971年(昭和46年)11月18日、女子日大生の女(20歳)と少女(19歳)を強盗殺人の疑いで逮捕[16]

元自衛官ら2人を逮捕

1971年(昭和46年)11月24日、元自衛官ら2人を逮捕[17][18]

川本三郎、週刊プレイボーイ記者の逮捕

また、『朝日ジャーナル』の記者川本三郎(当時27歳)は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた[19]

このほか、『週刊プレイボーイ』の記者(当時26歳)が犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していたことも判明した。このため、両人は1972年(昭和47年)1月9日に犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕された[20][21]

竹本信弘の逃亡と逮捕

首謀者とされた竹本信弘(ペンネーム滝田修、当時京都大学助手)は無実を訴え、新左翼活動家の支援を受けて地下に潜行したが、約10年後の1982年(昭和57年)8月8日、川崎市多摩区日本民家園埼玉県警察に逮捕された。また、竹本を匿っていた女(49歳)も、犯人蔵匿、犯人隠避の疑いで逮捕された[22][23]

第一審で竹本は強盗致死の謀議を否定し幇助で有罪として懲役5年判決を受けた。竹本は控訴したが浦和地方検察庁は控訴を断念した[24][25]

第二審が開始された後の1992年平成4年)7月21日、竹本は控訴を取り下げ、一審の懲役5年が確定したが、拘置所での未決勾留期間が量刑を上回っており、釈放された[26][27]

講談社勤務の男を逮捕

1982年(昭和57年)8月28日、竹本の逃走を助けていた支援者グループの一人、講談社勤務の男(44歳)を犯人隠避容疑で、福島県いわき市常磐ハワイアンセンターで逮捕。埼玉県警察の調べによると、男は竹本が指名手配されていることを知りながら、講談社出版研究所の翻訳などの仕事を竹本に斡旋。竹本は翻訳料として20万円以上の報酬を得ていた[28][29]

都立大助手の男を逮捕

1982年(昭和57年)9月6日、別の逃走支援者の東京都立大学工学部助手の男(47歳)を犯人隠避容疑で逮捕[30]

事件後

栄典

入隊後1年半程度ながら、歩哨係の任務を忠実に遂行しようとして殉職した一場陸士長は、その功績が評価され、特別に2等陸曹に任じられ、勲七等青色桐葉章が授与され、また防衛庁長官2級賞詞及び2級防衛功労章が授与された。

自衛隊施設入門規則の改定

当時幹部自衛官は制服を着用していれば身分証明書の提示が無くとも警衛所を通過出来たが、本事件以降はたとえ制服・戦闘服等を着用した幹部自衛官であっても身分証明書を提示しなければ営門を通過出来なくなった[注釈 5]

腹腹時計

1974年(昭和49年)に三菱重工爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線は教本『腹腹時計』において「マスコミ・トップ屋との関係は断つべき」として「赤衛軍」を失敗例として挙げた。

事件を題材にした作品

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川本三郎作、1988年(昭和63年)刊。2011年平成23年)、山下敦弘監督、妻夫木聡松山ケンイチ主演により映画化。

脚注

注釈

  1. ^ a b c 国の字は原文では囗の中央に丶
  2. ^ 米国ゼネラルフーヅ、現味の素AGFインスタントコーヒーのブランド名。
  3. ^ 森永乳業から発売されているコーヒー用クリーミングパウダーの商品名。
  4. ^ ある捜査幹部は、「朝日新聞の特定グループだけが、腕章のことを知っていたのですね、記者会見で、さかんに、『盗まれたものがあるはずだ』としつこく質問してきた」と語ったという[11]
  5. ^ 人命が失われるという重大かつ報道に発展した事件の教訓を踏まえての処置(歩哨が例え2等陸士であっても身分証を提示せず無理に営門を通過しようとした場合は将官であっても処分の対象となる。ただし官用車等で送迎される場合を除く)。なお、防衛省のある市ヶ谷駐屯地は営門通過後も常時身分証明書を首から下げていなければならず、パスケースも専用の物が使用される。また、職員の家族のみで入門する場合は防衛省共済組合が発行する組合員証、これに類する物の提示が求められる(所持していない場合は警衛所で面会証を発行してもらい入場する。)

出典

  1. ^ 警備研究会 2017, p. 128.
  2. ^ a b c d 福井惇 1987, p. 9-10.
  3. ^ 「警備の自衛隊員、刺殺される 朝霞駐とん地 過激派赤衛軍が侵入」『読売新聞』、1971年8月23日、東京朝刊、1面。
  4. ^ 「自衛隊員刺殺される 営内に「赤衛軍」のヘル 朝霞駐とん地」『朝日新聞』、1971年8月23日、東京朝刊、1面。
  5. ^ 「警備中の陸士長殺さる 朝霞 現実になった“自衛隊襲撃” 現場に「赤衛軍」ヘル 計画的新過激派の犯行か」『産経新聞』、1971年8月23日、東京朝刊、1面。
  6. ^ a b 福井惇 1987, p. 106.
  7. ^ a b 福井惇 1987, pp. 107–109.
  8. ^ a b c 福井惇 1987, pp. 13–14.
  9. ^ a b c 福井惇 1987, pp. 109–114.
  10. ^ 福井惇 1987, pp. 132–138.
  11. ^ 福井惇 1987, p. 137.
  12. ^ 「自衛隊員殺し 有力容疑者浮く 日大生「K」きょう逮捕状」『読売新聞』、1971年11月16日、東京朝刊、14面。
  13. ^ 「日大生に逮捕状 朝霞の自衛官殺害 87日ぶり、強制捜査へ「赤衛軍」解明に手がかり」『朝日新聞』、1971年11月16日、東京朝刊、3面。
  14. ^ 「日大生二人けさ逮捕 自衛隊員殺し20か所一斉手入れ」『読売新聞』、1971年11月16日、東京夕刊、11面。
  15. ^ 「日大生2人を逮捕 数人での犯行か 20ヵ所捜索 ヘルなど押収」『朝日新聞』、1971年11月16日、東京夕刊、9面。
  16. ^ 「女子日大生二人も 自衛隊員殺しで逮捕」『読売新聞』、1971年11月19日、東京朝刊、15面。
  17. ^ 「自衛隊員殺し 元隊員を逮捕 直接の下手人か 今春退職し日大に入学」『』、1971年11月25日、東京朝刊、15面。
  18. ^ 「元自衛隊員ら2人逮捕 自衛官殺し 制服で侵入、襲う」『朝日新聞』、1971年11月25日、東京朝刊、3面。
  19. ^ 福井惇 1987, p. 159.
  20. ^ 「自衛官殺し、意外な進展 週刊誌記者二人を逮捕 証拠焼き、犯人隠す 凶行直前にも会って取材」『読売新聞』、1972年1月10日、東京朝刊、15面。
  21. ^ 「朝日ジャーナル記者ら逮捕 証拠隠滅の疑い」『朝日新聞』、東京朝刊、3面。
  22. ^ 「自衛官殺し黒幕「滝田修」を逮捕 手配10年、川崎で 70年代過激派運動の扇動者」『読売新聞』、1982年8月9日、東京朝刊、1面。
  23. ^ 「滝田修を逮捕 自衛官刺殺事件 潜伏10年、川崎で 支援者グループ追及 埼玉県警」『朝日新聞』、1982年8月9日、東京朝刊、1面。
  24. ^ 「自衛官殺害「竹本」に懲役5年 浦和地裁判決 ほう助罪と認める」『読売新聞』、1989年3月2日、東京夕刊、15面。
  25. ^ 「自衛官刺殺「朝霞事件」の首謀者・竹本被告が控訴 浦和地検は控訴断念」『読売新聞』、1989年3月17日、東京朝刊、30面。
  26. ^ 「自衛官が刺殺された朝霞事件控訴審 竹本被告、無罪を主張 東京高裁」『読売新聞』、1992年4月21日、東京夕刊、19面。
  27. ^ 「自衛隊員刺殺・朝霞事件の竹本被告が控訴取り下げ」『読売新聞』、1992年7月22日、東京朝刊、30面。
  28. ^ 「「滝田」支援者逮捕 出版社の合田 資金に翻訳仕事回す」『読売新聞』、1982年8月29日、東京朝刊、22面。
  29. ^ 「出版社員を逮捕」『朝日新聞』、1982年8月29日、東京朝刊、22面。
  30. ^ 「滝田逃走を手助け 都立大助手も逮捕」『読売新聞』、1982年9月7日、東京朝刊、23面。

参考文献

  • 福井惇『一九七〇年の狂気―滝田修と菊井良治』文藝春秋、1987年6月20日。ISBN 9784163415604 
  • 「8. 朝霞自衛官殺害事件」『過激派事件簿40年史』立花書房〈別冊治安フォーラム〉、2001年8月20日、38-41頁。ISBN 9784803714081 
  • 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集』 五訂、立花書房、2017年2月1日。ISBN 9784803715415 

関連文献

関連項目