河内忠吾

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河内 忠吾
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県小山市
生年月日 1930年12月24日
没年月日 (1991-01-29) 1991年1月29日(60歳没)
身長
体重
173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手三塁手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

河内 忠吾(かわち ただみち、1930年12月24日 - 1991年1月29日[1])は、栃木県小山市出身のプロ野球選手投手三塁手)、野球監督

略歴[編集]

栃木県立小山高等学校から、1950年日本大学に進学。東都大学リーグでは在学中3度優勝。1953年秋の対駒大4回戦で東都大学野球連盟初の完全試合を達成[2]。この完全試合は、1部リーグで記録されており、東都大学野球連盟1部での完全試合達成は、河内の2年後、1955年春季に、河内の後輩である日大の島津四郎が対駒大4回戦で記録したのみである[2]。この1953年秋季リーグには首位打者も獲得している。卒業後は、社会人野球の熊谷組に所属[3]1954年都市対抗日本麦酒の補強選手として出場。翌1955年都市対抗には熊谷組のエースとして連続出場、1勝を挙げている。

1956年大阪タイガースに入団。当初は投手だったが、大学・社会人時代の肩の酷使の影響と打撃への高評価から入団後間もなく三塁手に転向[4]。同年は1試合の出場に終わる。翌1957年もわずか2試合の出場に終わり、同年末現役を引退した。

引退後、荏原高等学校の野球部監督に就任[3]1965年第37回選抜高等学校野球大会に初出場する[3]。試合では、2回戦(1試合目)でPL学園に敗れた。同年の秋に母校である日本大学の硬式野球部の監督に就任する。翌1966年春季には、1部リーグ優勝を果たす。同年の第15回全日本大学野球選手権大会にも出場し、優勝を果たしている。しかし、翌1967年秋季は、最下位に沈み、日大史上初の2部リーグ降格を経験する。1968年秋季に、2部リーグで優勝し1部リーグに復帰。1969年春季・秋季には連続して1部リーグ優勝している。1971年秋季も優勝し、第2回明治神宮野球大会に初出場し初優勝している。1973年春季より低迷し、1974年秋季までの4シーズンで3回の最下位を経験し、このシーズンで2部リーグに降格した。1975年春季に2部リーグ優勝し、1部リーグ復帰を果たすものの、その後も1部リーグでは低迷し、1977年春季に最下位となり2部降格。このシーズンを持って、日大野球部監督を辞した。日大監督期間には、東都大学野球連盟1部リーグで4度の優勝、全日本大学野球選手権大会でも優勝1回、明治神宮野球大会でも優勝1回を記録している。その一方で、6回の最下位と3度の2部リーグ転落を経験した。

日大監督時代の教え子として、佐藤道郎佐藤義則木村広らがいる。

プレースタイル・人物[編集]

投手としては、シュートドロップを武器とする技巧派投手であった[4]。打者としては、巧打者として評価されていた[4]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1956 大阪 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1957 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 2 -- .000 .000 .000 .000
通算:2年 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 2 -- .000 .000 .000 .000

背番号[編集]

  • 3 (1956年 - 1957年)

脚注[編集]

  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、167ページ
  2. ^ a b 過去の記録-投手”. 東都大学野球連盟. 2013年4月4日閲覧。
  3. ^ a b c “猛虎人国記(11)~栃木県 村山を泣かせた中野の一打”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918980.html 2013年4月4日閲覧。 
  4. ^ a b c 河内忠吾”. げんまつWEBタイガース歴史研究室. 2013年4月4日閲覧。

関連項目[編集]