武烈王

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武烈王
Silla-monarch(22-30).png
各種表記
ハングル 무열왕
漢字 武烈王
発音 ムヨルワン
日本語読み: ぶれつおう
ローマ字 Muyeol Wang
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武烈王(ぶれつおう、朝鮮語:무열왕、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、姓は金、は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女である天明姫(後に文貞太后と追封)。『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人・文姫であり、金庾信の妹に当たる[1]654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。韓国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。

治世[編集]

即位直後に唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせて楽浪郡王を増封された[2]。654年5月に理法府の令(長官)に命じて律令を詳しく調べさせ、理法府(きゃく、律令の修正・補足のための法令、副法)60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備した。また、伊飡(2等官)の金剛を上大等に任命するとともに、波珍飡(4等官)の文忠を中侍(真徳女王代に設置された執事部の長官)に任命し、官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで旧来の中央貴族による上大等制度と新興の執事部による政治制度との競合を図り、王権の強化にも努めた。後に658年には文忠を伊飡(2等官)に引き立てて、中侍には王子の金文王を任命した。660年1月に上大等の金剛が死ぬと、後任には金庾信を充てた。

655年1月には高句麗靺鞨百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、唐に使者を送って救援を求めた。これに応えて唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃している。659年にも百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。660年3月には唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問としていた。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、唐と新羅との連合軍としての百済討伐であることが明瞭であった。同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈王は凱旋して論功行賞を行なった。このときに評価されたのは中央貴族の私兵層ではなく、位の低かった地方豪族や投降してきた旧百済の官人に重点が置かれており、新羅王の直接支配できる軍事力の拡大を図っている[3]

死去[編集]

さらに翌661年より唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(麗唐戦争)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。金城(現の慶尚北道慶州)永敬寺の北に埋葬され[4]、武烈王のと太宗の廟号を贈られた。また、唐の高宗は武烈王の死を悼んで洛陽の城門で葬儀を行なった。後に第36代の恵恭王の時代に新羅の祖廟を定めたときには、恵恭王の父景徳王・祖父聖徳王とあわせて金氏の始祖である13代味鄒尼師今、三国統一の偉業を為した武烈王・文武王を選んで五廟とし、味鄒尼師今・武烈王・文武王の三者については代々不変の宗としたという[5]

武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大韓民国の国宝第25号に指定されている。

武烈王を演じた人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 三国遺事』王暦では王妃について訓帝夫人とし、文明王后はであるとする。
  2. ^ 旧唐書』巻211・新羅伝「(永徽)三年(652年)、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王。加授開府儀同三司、封樂浪郡王。」
  3. ^ 当時の新羅の軍事力の中核は王都金城付近を地盤とする中央貴族の私兵であって、必ずしも新羅王が軍事力を掌握していたわけではなかった。百済討伐戦やその後の高句麗討伐戦における王の論功行賞は、下級の地方豪族や投降した敵将など、中央貴族の私兵として属していない層を重視しており、これらの階層が三国統一後の新羅王権を支えていくことになる、と見られている。(→井上1972)
  4. ^ 『三国遺事』紀異・太宗春秋公条には、哀公寺の東に葬られたとある。また死去の年齢が59歳であったと伝える。
  5. ^ 『三国史記』巻32・祭祀志。ただし巻9・恵恭王紀には対応する記事はみられない。

参考文献[編集]