松田匡司

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松田 匡司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
生年月日 (1974-11-16) 1974年11月16日(49歳)
身長
体重
184 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1999年 ドラフト7位
初出場 2000年6月1日
最終出場 2004年6月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

松田 匡司(まつだ まさし、1974年11月16日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手外野手)。右投左打。

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

星林高では1年夏に甲子園に出場。その後は投手となって、2年夏は県大会準優勝。

法大では、投手で1年秋にリーグ戦4試合に登板した後に外野手へ転向。投手としては高橋由伸にリーグ通算2号本塁打を浴びた。3年次に全日本大学野球選手権大会優勝、4年秋に東京六大学野球リーグのベストナインにも選ばれた。同期には副島孔太がいた。
野手ではリーグ戦通算20試合、48打数26安打11打点、打率.546。

社会人野球チームシダックスでは、都市対抗野球に補強を含めて3年連続出場してベスト4も経験[1]1999年日本選手権初優勝に大きく貢献し、同年のドラフトで阪神タイガース7位指名を受けて入団。

プロ入り後[編集]

自慢の強肩で1年目から23試合に出場した。また足が速く当時の野村克也監督に高波文一赤星憲広ら7人で「F1セブン」と名付けられた[2]。7月30日の対広島東洋カープ戦では延長11回無死一塁の打席で小林幹英からサヨナラ二塁打を放った[3]

2002年オフに佐久本昌広とのトレードで福岡ダイエーホークスへ移籍[4]2003年は自己最多の56試合に起用されるも、オフに戦力外通告を受けた。当初はトレード要員通告だったが、手を挙げる球団がなかったことから解雇となった。

その後大阪近鉄バファローズのテストを受け不合格となるが、翌2004年春季キャンプにテスト生として参加し、強肩とハングリー精神を買われて合格。しかし同年10月6日に球団合併の際に2度目の戦力外通告を受け、現役を引退[5]

速球に強いものの、変化球が全くと言っていいほど打てず、貧打に苦しんだのが、レギュラーに定着できなかった理由のひとつである。また、強肩だが制球力に欠けていたので投手転向もならなかった(法大時代は途中まで投手で、1年秋のリーグ戦に登板している)。

引退後[編集]

2018年時点では、会社員をしている[6]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2000 阪神 23 32 26 3 6 2 0 0 8 3 1 1 2 0 4 0 0 8 0 .231 .333 .308 .641
2001 19 14 13 3 3 0 0 0 3 1 2 0 0 0 1 0 0 5 0 .231 .286 .231 .516
2002 18 16 15 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 1 5 0 .133 .188 .200 .388
2003 ダイエー 56 80 71 3 9 1 1 0 12 0 0 0 5 0 4 0 0 22 2 .127 .173 .169 .342
2004 近鉄 3 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:5年 119 143 126 12 20 4 1 0 26 4 3 1 7 0 9 0 1 40 2 .159 .221 .206 .427

記録[編集]

背番号[編集]

  • 67 (2000年 - 2002年)
  • 43 (2003年)
  • 92 (2004年)

脚注[編集]

  1. ^ 都市対抗野球大会80年史 毎日新聞社刊
  2. ^ 虎の嵐!俊足自慢5人組、好タイム連発nikkansports.com、2016年10月22日閲覧。
  3. ^ 「トラ11回サヨナラ ルーキー松田が殊勲」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)7月31日付朝刊、24面(スポーツ面)。
  4. ^ 「佐久本と松田がトレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月9日付朝刊、20面(スポーツ面)。
  5. ^ 「近鉄、赤堀、加藤ら8選手に戦力外通告」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2004年(平成16年)10月7日付朝刊、22面(スポーツ面)。
  6. ^ 日刊スポーツ大阪本社版、2018年9月11日付3面「ニッカン極トラ・プレミアム あの猛虎は今」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]