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小山五郎

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こやま ごろう

小山 五郎
生誕 大島 五郎
(1909-03-25) 1909年3月25日
群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市
死没 (2006-03-02) 2006年3月2日(96歳没)
東京都新宿区
死因 心不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学経済学部
職業 銀行家
活動期間 1932年 - 2006年
父・大島戸一
養父・小山完吾
受賞 別記参照
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小山 五郎(こやま ごろう、1909年明治42年〉3月25日[1][2] - 2006年平成18年〉3月2日)は、日本銀行家三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階従三位

来歴・人物

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群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる[1]。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校[1]、旧制静岡高等学校を経て[1]1932年昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業[1][2]三井銀行に入行[1][2]

三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任[1]1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる[1]1965年(昭和40年)副社長に就任し、1968年(昭和43年)より社長[1][2]

1971年(昭和46年)には全国銀行協会連合会長に就任[1]1974年(昭和49年)三井銀行会長となる[1][2]1982年(昭和57年)会長を退き相談役に就任[1]1988年(昭和63年)名誉会長となり役員からも退いた[2]

三井グループの命取りになりかねなかったイラン・ジャパン石油化学(IJPC)の後始末で尽力したが、この件では旧制静岡高校の同窓だった中曽根康弘(元内閣総理大臣)の協力を取りつけたとも言われている。

三越、鐘淵化学工業(現:カネカ)の再建では黒幕的調整役として手腕を発揮、江戸英雄と共に三井グループの長老として崇敬されたが頑固な性格から、ケンカ五郎と呼ばれ、また、人斬り五郎三井の首領(ドン)などともいわれた。

2006年3月2日、心不全のため東京都内の病院で死去[3]。96歳没。日本経済新聞はその訃報で、「火中の栗を拾う『剛腕』 - 戦後の三井をリード」と評し、また、旧日本興業銀行中山素平・旧日本長期信用銀行杉浦敏介らに続く死により、戦後金融界のドンはほぼ鬼籍に入ったと伝えた。

無類のプロレスファンとして知られ、どんなに多忙であってもテレビのプロレス中継を欠かさず観ていた。また、絵画を趣味としており、少年時代は画家を目指していたほどであった。三井銀行入行後も多忙を極める中、キャンパスに向かってコツコツと絵画制作をしていたという逸話が残る。没後に作品の展覧会がカメイ美術館(宮城県仙台市)にて開催されている[4]

日本を守る国民会議顧問も務めた。

略歴

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三越岡田社長解任事件

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三越1982年公正取引委員会からの審決・「古代ペルシア秘宝展」の偽物騒ぎ・愛人への不当な利益供与などスキャンダルが続出した際(三越事件)、三越の社外取締役として岡田茂社長に辞職を勧めるが、岡田は語気を強めて五郎の提案を拒否。これを機に経営陣への根回しを行い、9月の岡田社長解任につなげる重要な役割を果たした。これについては高杉良が『王国の崩壊』(光文社、1984年、 徳間文庫、2000年)として上梓している。

家族・親族

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妻は小山完吾の娘で、福澤諭吉の曾孫[5]。五郎は群馬県多額納税者の大島戸一(大島堅造の兄)の五男で、結婚により小山家の婿養子となった[5]。長男は東芝[5]、次男は東レに勤務していた[5]。いとこに大蔵官僚の大島寛一

賞詞

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日本国

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外国

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脚注・出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、215頁。doi:10.11501/12189010 (要無料登録要登録)
  2. ^ a b c d e f 『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年12月10日、691-692頁。doi:10.11501/13215658 (要無料登録要登録)
  3. ^ a b 小山五郎氏死去 元三井銀行社長 共同通信47News 2006年3月3日閲覧
  4. ^ 小山五郎展 (PDF) カメイ美術館
  5. ^ a b c d 『日本の上流社会と閨閥』、250-251頁。

参考文献

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関連項目

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