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水木しげるロードに設置されている「くだん」のブロンズ像

(くだん)は、19世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。「件」(=人/にんべん+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした妖怪として知られている[1][2]

綱要[編集]

その姿は、古くはの体と人間の顔の怪物であるとするが、人間の体と牛の頭部を持つとするという例も明治中期にはみえる[注 1][4]。また、牛頭の女性(牛女、後述)についても第二次世界大戦ごろから都市伝説化している[5]

幕末頃に最も広まった伝承では[要出典]、牛から生まれる奇獣、または人と牛とのあいのこ(雑種)とも言い伝えられる[6]。人間の言葉を話すとされるが[7]、生まれて数日で死に[8]、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし[7][6]、それは間違いなく起こる、とされている[6]。また、件の絵姿は厄除招福の護符になると言う[10]

別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ[11]、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ、とする説もある。

江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある。

由来[編集]

「人」すなわち人偏にんべんに「牛」と書いて「くだん」と呼ばれると記述される[9]

江戸時代後期の随筆『道聴塗説』では「件」が、当時の流行の神社姫に似せて創作されたものと指摘している[12]。江戸末期、越中(現在の富山県)の立山に出現した怪獣クタ部(クタは人偏に夂の下に田)についても、これらを掲載した瓦版は「件」を唐名(中国風の名前)とし、「クタベ」などは和名と主張しており、クタベ自身が件から派生した存在であり、既に魔除けとして流布していた白沢と予言をする件が姿の類似性から混同されたことにより難を避ける属性を持つクタ部が生まれたとの見解を笹方政紀は示し[13]水木しげるは人面の牛で腹部の両側面にも眼があったということを根拠に、くだべのことを白沢の同類であり、黄帝が白沢と遭遇した逸話と富山の売薬に関係があるとの見解を示している[14]。細木ひとみは立山修験の中心をはじめ富山県内外の立山関連の寺社、立山を訪れた人々の参詣記にも「クタベ」についての話は記されておらず、立山に富山の売薬と白澤が結び付いて「立山に伝わるクタベ」が発生したとの説には否定的で、立山衆徒の布教勧進活動によって立山への信仰心が芽生え、そこから生まれた立山に対する神秘性と未知の世界への期待感を持った人々が疫病流行と薬、さらには富山の薬売りを結び付け、白澤と同一視して「立山に住む(と言われる)クタベ」に結びつけていったとの見解を示している[15]

目撃の歴史[編集]

昔、宝永2年(1705年)12月に件が現れ、その翌年から豊作が続いた、という記述が天保年間の瓦版(後述)にみられる[16]

防州上ノ関の民家の牛から生まれた人面牛身の子牛が件と名乗り豊作とその後の兵乱を予言したという日記が『密局日乗』文政2年(1819年)5月13日条にみられる[17]

越中国立山に、文政10年(1827年)に人獣(人面の獣)が現れ、厄を避けるにはその肖像を模して貼れと言い残した[18]。立山に現れるのは、「くだん」ならず「くだべ」と呼ばれる山の精だとも記述されている[19]。立山で山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る獣身人面の怪物に出会った。くだべは「これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写した絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した。これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したという。

丹後倉橋山の件を描いた天保7年の瓦版

天保7年(1836年)の日付のある瓦版によれば[注 2]、天保7年の12月、丹後国の「倉橋山」すなわち倉橋(京都府与謝郡倉梯村)の下の山中で、人面牛身の怪物『件』が出現したと言う[注 3][注 4][16]。また「この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある[12][注 5]。ちなみにこの報道の頃には、天保の大飢饉が最大規模化しており、「せめて豊作への期待を持ちたい」という意図があってのものと思われる[誰?]

幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という[注 6]。この瓦版には「この瓦版を買って家内に貼り厄除けにして欲しい」として人面牛身の件の絵が描かれており、件の絵画史料として極めて貴重なものである。

明治42年(1909年)6月21日の『名古屋新聞』の記事によると、10年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長崎県 長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない[22]

明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。小泉八雲も自著『知られぬ日本の面影』の中で、件の見世物についての風説を書き残している。それによると明治25年(1892年)、旅の見世物師が島根県美保関に件の剥製を持ち込もうとしたところ、不浄の為に神罰が下り、その船は突風のため美保関に上陸できなくなったという[23]

昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された。昭和5年(1930年)頃には香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて3日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った[24]。昭和8年には長野県でも似た噂が流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた[25]

第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した。昭和18年(1943年)には、山口県岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う[要出典]。また昭和20年春頃には愛媛県松山市などに「神戸兵庫県)に件が生まれ、『自分の話を信じて3日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる』と予言した」という噂が流布していたという[要出典]

太平洋戦争中、ブラジルのマリリア方面で日系移民の間に件が生まれたとの噂が立ち、サンパウロ市にも伝わった。「戦争は終わるがそのあと疫病が流行る」と予言したという。

牛女[編集]

第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけては、それまでの人面牛身の件に代わって、牛面人身で和服を着た女の噂も流れ始めた[5]。以下、これを仮に牛女と呼称する。

牛女の伝承は、ほぼ兵庫県西宮市甲山近辺に集中している。例えば空襲の焼け跡で牛女が動物の死骸を貪っていたとする噂があった[要出典]。また、兵庫県芦屋市・西宮市間が空襲で壊滅した時、ある肉牛商の家の焼け跡に牛女がいた、おそらくその家の娘で生まれてから座敷牢に閉じ込められていたのだろうという噂などが残されている[要出典]

小説家小松左京は「件」の類の噂に取材して小説『くだんのはは』を執筆したと考えられ[20]、牛女伝説の伝搬もこの小説が影響していると思われる[26]。 しかし、幕末期の件伝承と比較すると、

  • 件は牛から生まれるが、牛女は人間から生まれる。
  • 件は人面牛身、牛女は牛面人身。
  • 件は人語を話すなど知性が認められるが、牛女にはそれが認め難い。

といった対立点があり、あくまでも件と牛女は区別すべきという主張もある[誰?]

件の如し[編集]

「件の如し(如件)」という定型句(証文等の末尾に記される書止、書留)があるが、西日本各地に伝わる多くの伝承によればこれは「件の予言が外れないように、嘘偽りがないという意味である」と説明されることもあるが、ただしこれは俗解語源(民間語源)の一種であろうと考えられている[27]

じっさい天保年間の瓦版によれば「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」ともあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示している[12][9]

怪物「件」の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるのに対して、「如件」という定型句はすでに平安時代の『枕草子』にも使われている[28]。ゆえに「件の如し」と怪物「件」を関連付けるのは後世の創作といえる[誰?]

注釈[編集]

  1. ^ 1921年(大正10年)の南方論文より25、6年前の例なので1894–5年(明治27–28年)頃。和歌山県三輪崎町。同県新宮市在住の須川寛得の談。
  2. ^ 徳川林政史研究所所蔵[20]
  3. ^ 「倉橋山」でなく「倉橋下の山中」と堀部の論文に読まれている。瓦版の本文では与謝郡とされていないが、はしがきに版元について「丹後国与謝郡何某板」の付注がついている。
  4. ^ 原文では"からだは牛 面は人に似たる件といふ獣出たり"とある。
  5. ^ 件の如し」という常套句については後述。
  6. ^ 同じく出雲国能義郡古川村の者が産した仔牛が「件」であったという記述が山村勉斎『奇獣記』にあるが、これは明治23年(1890年)3月1日付になっている[21]

出典[編集]

脚注
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  1. ^ 松山ひろし 『壁女-真夜中の都市伝説』 イースト・プレス、2004年、73-74頁。
  2. ^ 木原浩勝・岡島正晃・市ヶ谷ハジメ 『都市の穴』 双葉社〈双葉文庫〉、2003年、249頁。
  3. ^ クダン(件)”. 国際日本文化研究センター (2002年). 2021年4月15日閲覧。
  4. ^ 南方 (1921), pp. 50–55 (国際日本文化センター データベースに記載[3])
  5. ^ a b 松山ひろし 『壁女-真夜中の都市伝説』 イースト・プレス、2004年、72頁。
  6. ^ a b c d 岡山民俗学会編 『岡山民俗事典』 日本文教出版、1975年5月1日、118頁。 堀部 (1994), p. 219で引用。
  7. ^ a b c 柳田國男; 民俗學研究所 『綜合日本民俗語彙』 2巻(改訂版) 平凡社、1970年10月 [1956年]、10頁。 朝日新聞2016年1月6日号で引用。
  8. ^ 生まれて4、5日[7]あるいは2、3日[6]
  9. ^ a b c 天保7年の瓦版の原文。堀部 (1994), p. 220に掲載。
  10. ^ 天保年間の刷り物の例[9]
  11. ^ 松山ひろし 『壁女-真夜中の都市伝説』 イースト・プレス、2004年、74頁。
  12. ^ a b c 常光 (1990); 常光 (1990), pp. 159–161
  13. ^ Ⅳ 白沢からクタベへ”. 2021年4月23日閲覧。
  14. ^ 水木しげる『妖鬼化(むじゃら)〈2〉中部編』Softgarage、2003年、60頁。ISBN 978-4861330056
  15. ^ 疫病流行を告げる「クタベ」と越中立山に現れた理由”. 2021年5月23日閲覧。
  16. ^ a b 堀部 (1994), p. 220; 常光 (1990), p. 128に拠る。
  17. ^ 山口県文書館・平成29年度第1回資料小展示解説資料「よって件(くだん)のごとし -予言する正直な怪物-」”. 2021年4月23日閲覧。
  18. ^ 廃姓外骨奇態流行史』半狂堂、1922年、65頁。2020年11月21日閲覧。
  19. ^ 国書刊行会鼠璞十種. 第二』国書刊行会、1916年、77頁。ISBN 978-41240080812020年12月27日閲覧。
  20. ^ a b “【ひょうごの謎スペシャル】其の五 甲山に妖怪・たたりの巨岩?”. 朝日新聞. (2016年1月6日). http://www.asahi.com/area/hyogo/articles/MTW20160106290690005.html 
  21. ^ 山村良夫 『広瀨藩儒山村勉斎覚書』 飯塚書房、1978年4月、105–106頁https://books.google.com/books?id=oxIiAAAAMAAJ&dq=%22くだん%22 
  22. ^ 斉藤小川町他『日本の謎と不思議大全 西日本編』人文社編集部編、人文社〈ものしりミニシリーズ〉、2006年、123頁。ISBN 978-4-7959-1987-7
  23. ^ 下巻8章"伯耆から隠岐へ”.
  24. ^ 永井生「くだん」『ドルメン』第2巻第7号 岡書院 1933年
  25. ^ 「小豆飯の厄除け」『ドルメン』第2巻第4号 岡書院 1933年. 長野県での噂は、前年(昭和7年)の暮れに北海道で阿弥陀仏のお告げを受けて80歳の老婆が出産した子供が予言した内容が伝わって変容したものと言う
  26. ^ 一柳廣孝; 吉田司雄 『ホラー・ジャパネスクの現在』 青弓社〈ナイトメア叢書 1〉、2005年、68頁。ISBN 4-7872-9178-5https://books.google.com/books?id=eqU0AQAAIAAJ&q=%22くだんのはは%22 
  27. ^ 南方 (1921), p. 61.
  28. ^ 添へたる立文には、解文(げもん)のやうにて、「進上 餅餤一包 例に依て進上如件 別当 少納言殿」とて月日書きて、(以下略、能因本136段)
参考文献

関連項目[編集]