瓦版
![]() |

瓦版(かわらばん)は、江戸時代の日本で普及していた、時事性・速報性の高いニュースを扱った印刷物をいう。天変地異、大火、心中などに代表される、庶民の関心事を盛んに報じた。街頭で読み上げながら売り歩いたことから、読売(讀賣)ともいう。木版摺りが一般的。
概要[編集]
妖怪出現など(例として「大猫」項を参照)、娯楽志向のガセネタもある。多くは一枚摺り。絵入りのものなどもあり、幕末期には多く出版され、浮世絵師の歌川国芳らが描いていた。これらは無許可で出版される摺物であった。明治初期までは出版されることがあったというが、その後は新聞の登場などにより衰退した。現存する最古の瓦版は大坂の陣を記事としたものである[2]。
天和から元禄(1681-1704年間)にかけて盛んに刷られたとみられるが、その時期の瓦版はほとんど残っていない[3]。古いもので宝暦年間(1751-64年間)から現存してくる[3]。享保7年2月(1722年の3月か4月)[* 1]の法令中に「筋無き噂事並に心中の読売を禁じる」があり、享保9年6月(1724年の7月か8月)[* 2]の法令にも、「御曲輪内での読売をしてはならぬ」との法が出されている[3]。裏を返せば、この時期(享保年間)に盛んに読まれていたということであるが、現存するものは残されていない[3]。
確実に大量出版されるようになった時期は、天保の改革期(1831-1845年間)以降とされる[4]。
安政江戸地震(1855年)の直後に出た瓦版「関東江戸大地震并(ならびに)大火方角場所附」では被害状況や幕府が被災者のために作った「お救小屋」の位置などが書かれている[5]。
幕末にもなると江戸城の下馬先において、大名行列相手に瓦版売りが名物となった[6]。
近代初期に入った段階でもマスメディアは瓦版を利用しており、1885年(明治18年)の大阪洪水の翌86年において、『洪水志』の発刊にともなって、石版画14枚を抽入している。写真そのものがまだ高価で普及度も低い段階であり、写真の代替として石版画の瓦版が登場した[7]。
語源[編集]
瓦版の語源は以下のように諸説あるがはっきりしていない。
- 粘土板を用いて刷ったかのような粗悪な出来栄えである(『精選版日本国語大辞典』では、そうした説があるが確証はないとする)。
- 木版の代わりに粘土板を用いて印刷した(『日本大百科全書』では、そうした説もあるが不明確とする)。
- 紙の大きさが瓦と同じくらいである。
- 河原者が作った。
「瓦版」という呼称自体は幕末の文献より確認され(『精選版日本国語大辞典』)、初期においては、「絵草紙」と呼び(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)、「読売」とも呼ばれた(前同、日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。
- 奇説としては何等かの名前が訛って当て字を入れられた可能性もある。
例:厠(かわやと読む。トイレの意)に使うもの→厠版→瓦版
尚、例については紙質が悪かった事から例えば使用後は尻拭き等の使い道しか無かったのでは無いか?等の類推である。前例としては、九州にかつて江戸時代にあったとされる、えのころ(犬ころの意)飯等がある。
現代[編集]
現代日本語としては、掲示板様の告知・報道様式を指す雅称として「瓦版」「かわら版」という語が用いられる例は多い。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 森田健司 「江戸時代における「かわら版販売者」の形装」『大阪学院大学通信』第46巻第12号、2016年3月1日、pp.1-27.
- ^ 『精選版日本国語大辞典』「大坂安部之合戦之図」と「大坂卯年図」とする。
- ^ a b c d 稲垣史生 『三田村鳶魚 江戸武家辞典』 青蛙房 新装版2007年 p.260.
- ^ 全国歴史教育研究協議会編 『日本史Ⓑ用語集』 山川出版社 16刷1998年(1刷1995年) p.160
- ^ “港区立 港郷土資料館へ行ってみよう! 第11号”. 東京都港区立港郷土資料館. 2019年10月25日閲覧。
- ^ 根岸茂夫 『大名行列を解剖する 江戸の人材派遣』 吉川弘文館 (第1刷2009年)第2刷2010年 p.72
- ^ 北原糸子 『メディア環境の近代化 災害写真を中心に』 御茶の水書房 2012年 p.29.p.30に「大洪水細見之図」、p.31に「大阪市街浸水地の図」が掲載されている。