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上杉憲賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上杉 憲賢
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄3年2月28日1560年4月6日
別名 次郎、義竹軒、雲岑、静賢
戒名 義竹庵雲岑静賢大居士
墓所 深谷山永明寺高台院(埼玉県深谷市[1][2]
主君 山内上杉氏
氏族 深谷上杉氏
父母 父:上杉憲清
高泰姫(法号:高泰院殿梅室元芳大姉)[3]
憲盛氏盛?
養子:氏賢後北条氏。憲賢外孫)
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上杉 憲賢(うえすぎ のりかた)は、戦国時代武将深谷上杉氏の6代当主。

生涯

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6代当主・上杉憲清の子として誕生した。現在の熊谷市久下にあった東竹院を再興した。

山内上杉氏に属し、扇谷上杉氏の滅亡後、武蔵国における上杉氏の勢力回復に努め、天文10年(1541年)に上野国新田金山城横瀬泰繁を攻めた記録が残る。

天文15年(1546年)、山内上杉氏が河越城の戦いで敗れると北条氏康に誼を通じた。

家督は子・憲盛が継いだ。

脚注

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  1. 上杉憲賢の妻高泰姫によって中興開基された。夫妻の墓がある。
  2. 深谷市教育委員会 編『目で見る深谷の歴史 : 市政二十五周年記念』1981年、45頁。doi:10.11501/9642335
  3. 深谷市史編さん会 編『深谷市史 追補篇』1980年、970頁。doi:10.11501/9642085

関連項目

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