ゼルマ・メーアバウム=アイジンガー

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ゼルマ・メーアバウム=アイジンガー(英:Selma Merbaum-Eisinger) [注 1][注 2][注 3](1924年2月5日[注 4] - 1942年12月16日[注 5])はルーマニアで生まれ、ドイツ語の詩を綴ったユダヤ人少女。ホロコーストによってウクライナ強制収容所に送られ、18歳で病没した。

生涯[編集]

ハンザフィアテルドイツ語版Siegmunds Hof 20にあるメーアバウム・ハウス(Meerbaum-Haus)の記念銘板

ゼルマ・メーアバウム=アイジンガーはルーマニア王国ブコヴィナ州のチェルノヴィッツ(現在のウクライナチェルニウツィー州チェルニウツィー)にある靴屋の父チャイム・メーア・メーアバウム(Chaim Meir Merbaum:マックス(Max)・メーアバウムと呼ばれる)と食料品店を営む母フリーデリケ(フリーダ(Frieda))・シュレーガー(Friederike Schrager)の娘[16]として生まれた[17][注 6]。アイジンガーは彼女の継父の姓であった[20]。幼いころから文学を学び始め、ハインリヒ・ハイネライナー・マリア・リルケクラブント英語版ポール・ヴェルレーヌラビンドラナート・タゴールといった作家の作品を通して彼女の作風に強い影響を与えた。

1939年にドイツ語詩人[注 7]としての執筆活動を始め、持ち前の言語能力の高さによってユダヤ人高等女子ライシアムを卒業するまでにはフランス語ルーマニア語イディッシュ語と生来のドイツ語の対訳の能力を身に着けるようになっていた。

その傍ら、ユダヤ人の若者が集うシオニスト・グループに加わっていて、仲間と打ち解けようとしたこともあった[22]。仲間の一人である、レイセル・フィヒマン(Lejser Fichmann)という青年と知り合い、やがて恋心を抱くようになった。ゼルマの詩にはレイセルへの憧れを秘めた心情も盛り込まれるようになった[23]

後に、ナチス・ドイツ1940年ソビエト連邦に編入されていた彼女たちの地域へ侵攻し、1941年10月11日にユダヤ人は皆ゲットー[注 8]へ移され、ゼルマも家族で一緒に暮らすことになった。ゲットーはバリケードで囲われ、外部への出入りは厳しく制限された[29]。ゲットーにいたユダヤ人は10月25日から収容所への送還が始まり、強制労働に従事させられたが、日を追うごとにチェルニウツィーのユダヤ人が減少していくことにより街の運営が行き詰まると送還は中止され[30]、工場や病院・店舗などで働く人々などはゲットーに留まることになった。11月半ばにゲットーは解放され、市内に残ったゼルマの家族は引き続きアパートに住むことになった。父の仕事を手伝いながらも、ゼルマは愛するレイセルのために詩を作り続けていた[31]

だが、1942年6月28日には市内での居住許可を出した市長が更迭されたことをきっかけに居住権を剝奪され[32]8月28日[8]にはウクライナの片田舎にあるミハイロフカ英語版の強制収容所(チェルニウツィーの東北東約200km付近[33])に家族共々移送された後、ゼルマはやがてその施設の劣悪な環境の中で発疹チフスにより亡くなった[34]

その後[編集]

詩集はゼルマによってアルバムの形で綴られ、自分たちが連行されるにあたって、1942年2月にゼルマとは別の強制収容所に送還されたシオニスト・グループの青年レイセル・フィヒマンにゼルマの親友を通じて「愛をこめて」という形で託された。レイセルは1943年初めにチェルニウツィーに短期間戻ることを許された時に親友からアルバムを渡され、1944年に強制収容所が解放されるまでそのアルバムを保管していた[35][36]。レイセルはシオニスト・グループの仲間とパレスチナへ渡る決心をした一方で、自分が死んだ際に詩集が喪失することがないようにと、ゼルマの親友にアルバムを返した。レイセルはパレスチナへ渡航する途中、1944年8月5日に[37]黒海でソ連の潜水艦の砲撃を受けて死亡した[38][注 9]一方、親友たちはゼルマから届けられた手紙とアルバムとを別々にしながら、ヨーロッパを横断してパリからパレスチナへ渡った[40]

1968年、旧・東ベルリンで詩集『何という言葉が寒さに向かって叫ばれたことだろう(Welch Wort in die Kälte gerufen)』(副題:ドイツ語にみる第三帝国におけるユダヤ迫害(Die Judenverfolgung des Dritten Reiches im deutschen Gedicht))が出版され、その中に編集者のハインツ・ザイデル(Heinz Seydel)がブカレストに住んでいた人たちから手に入れたゼルマの2篇の詩のうちの『ポエム(Poem)』も収録されていた。

ゼルマの当時のユダヤ人高等女子ライシアムの担任であり、建国後のイスラエルへ移住したヘルシュ・シーガル(Hersh Segal)はこの詩を読んだ後、ゼルマの友人を訪ね、彼女が保管していたアルバムを元に1976年にゼルマの詩集『アンソロジー(Blütenlese)』を自費出版[注 10]し、友人・知人に配布した(第二版は1979年テルアビブ大学により出版された)。文学ジャーナリストのユルゲン・ゼルケドイツ語版はゼルマの親戚のパウル・ツェランのいとこから、詩人のヒルデ・ドミーンを通じてこの詩集を手に入れ[42]1980年に旧・西ドイツでゼルマの詩集『私は憧れに包まれている(Ich bin in Sehnsucht eingehüllt)』を出版したことにより、ゼルマの存在が世界中で知られるようになった[43]

詩集は1978年にイディッシュ語版[8]1983年ヘブライ語版が出版された[37]ほか、英語などの各言語に翻訳された。また、ゼルマの詩を題材にした音楽作品[注 11]も世界各国で多数発表されている。

2005年11月にはゼルマの詩の朗読を収録したオーディオブックが発売された[44]

日本では、1983年12月号の『鳩よ!』(マガジンハウス)、1985年12月号の『詩とメルヘン』(サンリオ出版)でそれぞれゼルマの詩が紹介された[45]。その後、詩集の文庫本やドラマCD後述)などにもなった。

詩集[編集]

ゼルマが遺した詩集には57篇[注 12]のドイツ語の詩が収められているが、創作の52篇以外はフランス語などの詩からの5篇の訳詩もあり、表題がないものも3篇ある[48][49][50]1939年頃に書かれた『喜びをもって(Gilu)』以外は1941年12月24日までに戦争中に書かれたものである[51]。詩集の最後尾の詩『悲劇(Tragik)[注 13]』には赤文字で次の文章が添えられている。

-終わりまで書く時間がなかった[53][注 14]
別れが惜しいのが残念でなりません。
ではごきげんよう ゼルマ

ゼルマの詩集は二部構成になっており、それぞれのテーマによってまとめられている[注 15]

下記は収録されている詩のリスト及び発表年月日[54][注 16]

選集その1(Der Blütenlese Erster Teil)

  • 歌(Lied)「今日、あなたは私を悲しませた。(Heute tatest du mir weh.)~」 - 1939年12月25日

『アップルブロッサム(Apfelblüten)』

『ダークライラック(Dunkler Flieder)』

  • 栗の実(Kastanien) - 1939年9月23日
  • 落ち葉(Welke Blätter) - 同9月24日
  • 静寂(Stille) - 同10月24日
  • 散歩(Spaziergang) - 同11月29日
  • 枯れ葉(Welkes Blatt) - 1940年2月1日
  • ワイングラス(Der Kelch) - 同上
  • 春(Frühling) - 同3月7日
  • 午後(Nachmittag) - 同4月16日
  • 午後晩(おそ)く(Spätnachmittag) - 同上
  • 雨(Regen) - 同5月頃
  • 夕暮れ I(Abend I) - 1941年7月14日
  • 夕暮れ II(Abend II) - 同12月12日

『ナイトシャドウ[注 18](Nachtschatten)』

  • 哀しみ(Trauer) - 1940年12月6日
  • 憧れの歌(Sehnsuchtslied) - 1941年1月9日
  • わたしのための子守歌(Schlaflied für mich) - 同1月頃
  • あなたは、あなたは知っていますか……(Du, weisst du ...) - 同3月4日
  • メルヘン(Märchen) - 同3月7日
  • わたしは雨(Ich bin der Regen) - 同3月8日
  • 然り(Ja) - 同7月6日
  • ポエム(Poem) - 同7月7日
  • 八月(August) - 同6月30日
  • 秋(Herbst) - 同上
  • 歌(Lied)「わたしの歌を聴いて(Nimm hin mein Lied –)~」 - 同上
  • 秋の雨(Herbstregen) - 同上

『赤いカーネーション(Rote Nelken)』

『星たち(Sterne)』

  • 子守歌(Schlaflied)「わが子よおやすみ、眠りに落ち、寝付いて、泣き止みなさい~(Schlaf, mein Kindchen, so schlaf schon ein, so schlaf doch und weine nicht mehr.)」 - 1941年1月頃
  • ゆりかごの歌(Wiegenlied) - 同上

『旗(Fahnen)』

  • 喜びをもって(Gilu)[58][注 20] - 1939年5月あるいは6月頃
  • 喜びの歌(Lied der Freude) - 1941年2月11日
  • 嵐(Der Sturm) - 同3月頃

『異国の蘭(Fremdländische Orchideen)』

選集その2(Der Blütenlese Zweiter Teil)

『お茶の花(Teeblüten)』

  • 午前(Vormittag) - 1941年8月1日
  • 雨の歌(Regenlied) - 同上

『白菊(Weiße Chrysanthemen)』

  • 鉛筆によるスケッチ(Bleistiftskizze) - 1941年9月28日
  • シュテファン・ツヴァイクStefan Zweig)※1941年12月24日に同氏のために創られた最後の作品[61]
  • しあわせ(Das Glück) - 同8月18日
  • ソネット(Sonett) - 同上
  • 八月の太陽(Sonne im August) - 同8月23日
  • 涙のスカーフ(Tränenhalsband) - 同11月6日
  • (無題)「とても多くの鮮やかな出来事~(Es ist so viel buntes Geschehen...)」 - 不明

『ワイルドポピー(Wilder Mohn)』

  • おまえのための子守歌(Schlaflied für dich) - 不明
  • 夢(Träume) - 1941年11月8日
  • 憧れのための子守歌(Schlaflied für die Sehnsucht)[注 22] - 不明
  • 歌は疲れて(Müdes Lied) - 1941年12月23日
  • (無題)「あなたのために私が~(Spürst du es nicht, wenn ich um dich weine...)」 - 同上
  • 悲劇(Tragik) - 同上

ちなみにゼルマは収容所へ移送される途中、『郷愁(Heimweh)』[注 23]ラビンドラナート・タゴールの『家と世界英語版』の第五章「なぜ私は歌えないのか?(Warum kann ich nicht singen?)~」いう二編の詩を手紙に遺している[注 24]。手紙の最後の一文は「私はもうだめ、もうくずれおちてしまう。<たった今、チュニアは私にロッチー(いずれも囚人の名前)からメモを渡されました。彼らは書きかけの文章を送るためのチャンスを私にくれました。>[注 25]口づけを。ハザーク(ヘブライ語で「強かれかし」)-ゼルマ」[69][70]

詩のスタイルと評価[編集]

ゼルマは自分たちの身に迫りつつある過酷な現実を目の当たりにして、熱く激しい憧れや深い悲しみ、繊細な感性と鋭い観察とを織り合わせた文学的にも高い水準の詩を作り続けていた[71][注 26]。時局は彼女の詩にも反映され、1941年にユダヤ人高等女子ライシアムに通う頃(ルーマニア王国日独伊三国同盟に加入し、イオン・アントネスクによる独裁政権となった頃)になってから詩にも陰りを増すようになった[73]。同7月7日にナチス・ドイツによるホロコーストでユダヤ教大聖堂が焼き討ちに遭い、数百人のユダヤ人が殺害された時も、詩『ポエム』で「わたしは生きたい/わたしは死にたくない/生はわたしのもの」といった悲痛な感情を込めて綴った[74]。これは、他のユダヤ系ドイツ語詩人がゲットーや収容所内で実践したような、伝統的詩形式により「ことば」の音楽性を高めて詩の世界へと入り込むことにより、現実の苦難から身を引き離し生きる力を得る営みであることを意味している[75]

また、ゼルマが同じユダヤ人の詩人でありながら、イディッシュ語でもヘブライ語でもなくドイツ語に固執しつづけたのは、自分の母国語であることはともかく、ユダヤ系ドイツ語詩人の例に漏れず、ナチズムやホロコーストという現実にさらされているにもかかわらず、いっそう強く保持し続けた詩人にとっての母語であるドイツ語への思いから来たものである[76]

訳者[注 27]を含め、複数の詩人や批評家はゼルマの詩を高く評価している。

  • 「(詩の中で)高度なテクニックを駆使している場合でも、いつも自然な流れを感じさせる。ゼルマはドイツ詩の伝統のなかで、またチェルノヴィッツの文学風景のなかで成長しながら、彼女独自のものをつかみつつあった。」秋山宏[77](詩集日本語版訳者)
  • 「すでに青春時代に、このようにみごとにさまざまな詩形、韻律、リズムを自分のものにしているゼルマは、もし生きていれば、偉大な詩人になったであろう…。」トーマス・B・シューマン(批評家)[71]
  • 「この詩は文学を越えたドキュメントである。」カール・クローロ英語版[78](ドイツの詩人・翻訳家)
  • 「これは人びとがつき動かされ、涙ながらに読む抒情詩である[注 26]。とても清らかで、とても美しく、とても明るく、そしてとても脅かされた詩だ。」ヒルデ・ドミーン[79](ドイツの叙情詩人・作家)
  • 「この若き乙女の声は、彼女がもたらす人生の豊かさの輝ける暗示で、長い歳月をもって我々の心を打つことになるであろう。」J・M・クッツェーノーベル文学賞受賞者)[80]
  • 「彼女が死の前に遺した撰集が明かすものは、それ自身が滅びることなく生き続けていることにある。ゼルマは強制収容所の奥底から柔らかく薄暗い声で我々に語りかけてくる。そして灰の中から救い出された詩は、喪失と恐怖の“千の暗闇”(ゼルマのいとこのパウル・ツェランの言葉より引用)を克服した驚くべき物語を我々に提供し、年月をかけて我々の元に届くだろう。」アリエル・ドルフマン(演劇『死と乙女英語版』の著者)[80]

ゼルマの詩は同郷のローゼ・アウスレンダーパウル・ツェランらの詩と共に、ブコヴィナにおけるドイツ・ユダヤ文化の重要な作品として位置づけられている。

ゼルマを扱った作品(日本国内)[編集]

『ソネット』を収録。
『ゼルマの詩集』の中から、11篇を収録。
『憧れのための子守歌』を収録。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ゼルマの生前の氏名は、ユダヤ人の出生登録から学校の証明書、強制送還リストにいたるまで、いかなる公的文書においても Selma Merbaum のままだった[1]。母が再婚してからは Merbaum-Eisinger という別の名前を持っていたが、終生使うことはなかった(後述する2014年出版の詩集でも生前のゼルマを尊重してEisingerは省かれている)。アイジンガーの名はゼルマの死後、詩集の出版時に付けられたものと思われる。元々はアーノルド・ダガーニの日記の中で、「1942年10月19日、18歳のゼルマ・アイジンガーが、彼女が持っている『家と世界英語版』(ラビンドラナート・タゴールの作品)を私に貸してくれると約束した(後に『家と世界』はたばこの巻紙に使われてしまい、アーノルドはその本を借りることができなくなった)。」[2]で"Eisinger"が使われ、12月16日の日記には「夕方、ゼルマ・メーアバウム=アイジンガーが息を引き取った。」の箇所でフルネームが初めて登場する[3]。詩集が出版された当初はハイフンなしの表記[4]だったが、後の出版物ではハイフン表記で書かれるようになった。ちなみに、1968年に出版された後述の詩集[5]では、 Selma Merbaum(s) という表記だった。
  2. ^ ゼルマのミドルネームの"Merbaum"については、後年に正しい出典が明かされるまでは実父マックスの墓石に刻まれた"MAX MEERBAUM"[6]やアーノルド・ダガーニが1947年以降に出した手記もしくは1978年12月28日に描いたゼルマの肖像[7]くらいしかなく、1979年の詩集の出版時に"Meerbaum"と書かれてしまい[8]、後の作品集やWebサイトなどにもその記述が踏襲されたことから、各出典の裏付けで証明された通り、2014年出版の詩集では"Merbaum"と正されている[9]。日本語のミドルネーム表記についても、詩集のタイトルに記されている"M"を除いては、誤ったスペルに基づき長年「メーアバウム」と書かれており、従来の"Merbaum"にならうと、「メルバウム」が正しい表記になる。
  3. ^ ゼルマの氏名に関する出典は出生届[10]、強制送還リスト[11]、アーノルド・ダガーニの日記[12]、ゼルマの出生届の実物(こちらの方はルーマニア語で"Circumciziunii(割礼)"と書かれて2月9日に割礼の儀式を受けたことから彼女がユダヤ人であることの証明にもなる)、ホフマン・ライシアム(中等学校)入学証明書(1934/1935年)ならびに父マックスの死亡届(1924年11月9日)[8]※原典:チェルニウツィー州立公文書館記録
  4. ^ 現在では1924年2月5日(2004年9月にチェルニウツィーのゼルマの生家に掲げられたプレート[13])が正式な生年月日となっているが、かつては1924年8月15日と記されていた(『ゼルマの詩集 強制収容所で死んだユダヤ人少女』(1986年12月出版。本書にはゼルマが詩を作った年齢も書かれているが、これに6か月と10日を加えたものが実際の年齢になる[14])、1987年3月にベルリン市ミッテ区ハンザフィアテルドイツ語版で教会として使われていた建物を「メーアバウム・ハウス(Meerbaum-Haus)」[15]に改名した際にはめ込まれたプレートなど)。
  5. ^ ゼルマと同じ収容所にいた画家アーノルド・ダガーニが彼女の臨終に立ち会っており、日記にも12月16日水曜日の夜半に亡くなった旨を記した[12]
  6. ^ なお、父は1924年11月9日結核により31歳で死去し、母はレオ・アイジンガー(Leo Eisinger)と再婚した(母は姓をEisingerに改めたがゼルマはMerbaumのまま)が、夫婦共にゼルマと同じ強制収容所に移された後、ミハイロフカの南東にあるタラシウカ(Tarrasiwka)強制収容所で1943年12月10日にSSの親衛隊により殺害された[18]。ちなみにアーノルド・ダガーニの日記には1943年9月3日に「フリーダに会った」とあるが、ゼルマの母親(日記の中での記述はアイジンガー夫人のみ)の方ではなく、コックとして収容所に招かれたウクライナ出身のユダヤ人であり、ミハイロフカの強制収容所が9月に赤軍パルチザンに襲撃された後にタラシウカへ移ったがこれ以上ここに留まるのは危険だと思い、森の中に逃げ込んでアーノルド夫妻のいるベールシャジのゲットーまでたどり着いた[19]
  7. ^ 詩自体は例外を除きドイツ語で書かれており、家族の前でもドイツ語を話していたが、学校ではユダヤ人高等女子ライシアムに進学するまではルーマニア語で話さなければならなかった(ユダヤ人高等女子ライシアムはイディッシュ語で授業を学ぶことになった)[21]
  8. ^ 出典の図中、青色で囲まれた部分がゲットーを指し、その中にはゼルマが1939年中ごろに祖母と暮らすことになったアパート(Judengasse 22)も入っていた。ちなみに、両親のいた実家はゲットーの外だったため、移住の命令が発せられた10月11日中にゲットー内へ引っ越さなければならなかった(チェルニウツィーの市街地[24]、ゲットーの区域[25])。ゲットーから強制収容所への移送には貨車が使われるため、操車場の周りがゲットーの区域に指定された。その範囲は後に強制送還が進むにつれて狭められていった[26]。当然ながら、ゼルマの方も境界線が移動する度に居場所を変えざるをえなくなった(初めは祖母と暮らしていたアパートがゼルマたちの住居だったが、退去の命令により路頭に迷い、親友のエルゼに建物の庇の下で毛布にくるまって身を寄せている姿を見られた時もあった[27][28])。
  9. ^ レイセルの親兄弟はパレスチナへ渡ることに成功したが、兄弟は1954年7月29日に落下傘部隊の祝典の最中に飛行機事故で[37][39]、母親は自動車事故で死亡し、母の夫も失意のうちに亡くなった。
  10. ^ 当時のイスラエルではドイツ語は殺戮者の言語として忌み嫌われていたため、ほとんどの出版社から拒絶された[41]
  11. ^ 主な作品はde:Selma Meerbaum-Eisingerを参照。
  12. ^ 文献によっては58篇と記されているものもある。これはドイツ語への訳の他にイディッシュ語に訳したものも含まれている。アルバムの原本にはヴェルレーヌの Herbstlied の次にイディッシュ語に訳した harbst-lid (題名や文章の意味は同じ)が収められている[46][47]。なお、1980年に刊行された詩集の方には収録されていない。
  13. ^ 『悲劇』に関しては、岩波ジュニア新書では「未完の」詩と記されている。確かに文章を見てみると、詩の本文に次いで、赤鉛筆で「終わりまで書く時間がなかった…」とメモ書きで綴られているから、この詩が未完成だということを示唆しているようである。しかし、『悲劇』を作った次の日に『シュテファン・ツヴァイク』を作ったうえに、レイセルがチェルニウツィーを離れるまで2か月もの期間があるのだから、詩自体は未完だということは断定できない。ゼルマが書いた現物の詩の本文とメモ書きの全文とを比べてみると、メモ書きの方は乱雑な文字になっている[52]。おそらく、アルバムとしてまとめる最中、またはまとめた後でレイセルに渡すつもりで別れの言葉を綴ろうとして慌てて書いたのかもしれない。
  14. ^ 岩波ジュニア新書の元となった1980年刊行の詩集でもこの一文で終わっている。
  15. ^ 原語の詩集のみの表現。岩波ジュニア新書の方はそうした区分はない。
  16. ^ なお、岩波ジュニア新書には創作のみ収録されているため、対訳のみ特記で記述。
  17. ^ 「黄色い星」とも訳される。ナチス占領下でユダヤ人に付けられたダビデの星と思われる[55]
  18. ^ ナス科の植物。
  19. ^ 原題は『赤い雲(: Rote Wolken)』[56]。ちなみにゼルマは即興で詩を作り、後で手を加えることはしなかった[57]
  20. ^ 原詩の Gilu はイディッシュ語の二人称命令形で「喜べ」を意味する。
  21. ^ 原作である元の詩も題名は付されていない[59]。なお、この詩に関しては堀口大學による「巷に雨の降るごとく」[60]の他にもいくつもの日本語訳が発表されている。
  22. ^ 冒頭に「モルデハイ・ゲビルティグ英語版イディッシュ語の詩人)の『太陽は沈んだ(イディッシュ語: di zun iz fargangen)』[62]のメロディで歌う」と書かれている[63]
  23. ^ 『郷愁(Heimweh)』のタイトルの詩はゼルマのオリジナルではなく、バナート・シュヴァーベン人ドイツ語版の作者不明の民謡である[64]
  24. ^ ゼルマは収容所内で本を読むことはあっても、書き物らしい事はしていなかった。アーノルド・ダガーニによると、日記の中で「1942年12月18日、アイジンガー夫人は私に、ゼルマは病気になる前、ある民兵といっしょに脱走するつもりだったと語った。夫人はこのことを、ゼルマのコートの中にあった夫人宛の別れの手紙で知った。また、夫人によると、ゼルマは美しい詩を書いていたという[65]。」と綴ったが、後にヘルシュ・シーガル宛の手紙の中で、アーノルドによるゼルマへのオマージュのつもりでの「演出」だったと釈明した。英語で書かれたその詩は匿名の作者(=シェイクスピアの時代の女流詩人 メアリー・ロート英語版)の詩[66]から引用したものであったことも告白している[67]。手紙はゼルマがミハイロフカの強制収容所へ連行される途中のカリエラ・デ・ピアトラ(Carieră de piatră ルーマニア語で「石切り場」の意味)の近くを流れるブク川ポーランド語: Bug)のキャンプで書いたものである。ゼルマが親友のルネとその家族が近くの村で捕縛されたことを知ったうえで、その手紙を書いてユダヤ人の少年に届けてもらった[68]
  25. ^ 手紙の原文にて<>はコメントとして従前の出版物から省かれた部分。
  26. ^ a b これは他のユダヤ系ドイツ語詩人にも共通して言える事象である[72]
  27. ^ 訳者の秋山宏國學院大學教授。詩集出版時は助教授)は、1984年にウィーンへの留学中にゼルマの詩を知り、後に日本語版の詩集を執筆した。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]