秋の歌 (詩)
『秋の歌』(あきのうた、フランス語: Chanson d'automne(シャンソン・ドートンヌ))は、フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの詩である。1867年に出版されたヴェルレーヌ初の詩集『サテュルニアン詩集』(Poèmes saturniens)の「哀しき風景」(Paysages tristes)で発表された。[1]日本では上田敏の詩集『海潮音』のなかで「落葉」(らくよう)として紹介され、「秋の日の ヰ゛オロン(ヴィオロン)の ためいきの…」の訳で知られている。
第二次世界大戦時にはノルマンディー上陸作戦の際、フランスのレジスタンスに送る暗号としてこの詩の冒頭が使用された。
内容
[編集]ポール・ヴェルレーヌの原詩 | 日本語直訳(GFDL) |
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Chanson d'automne |
第二次世界大戦での使用
[編集]1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の際、イギリス・特殊作戦執行部がフランス各地のレジスタンスに工作命令を出すための暗号放送として、「秋の歌」の冒頭が使われ、英国放送協会(BBC)のフランス語放送で流された。
前半の「Les sanglots longs des violons de l'automne」と、後半の「blessent mon cœur d'une langueur monotone.」の、それぞれに分けて、前半が近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦があることを、後半が放送された瞬間から48時間以内に上陸作戦が行われることを伝えるものとしていた。
「Les sanglots longs ...」は6月1日・2日・3日、午後9時のニュースの中の「個人的なおたより」で流され、「blessent mon cœur ...」は6月5日午後9時15分から数回にわたって放送された。しかし、ドイツ側にもこの符牒は傍受されており、同じ放送を聴取していたドイツ軍のフランス駐留部隊はこれを解読、軍内に警報した。フランス防衛を担当する西方軍集団、B軍集団、そしてパ・ド・カレー地方にいた第15軍に警報が伝えられたが、ノルマンディー地方にいた第7軍には警報が伝えられなかった[2][3][4][5][6]。連合軍は諸条件から、ノルマンディー上陸作戦を6月5日から7日のいずれかに定めたが、その後の気象観測により、この3日間は嵐のために上陸作戦が難しいとの予測がなされた。連合軍にとっては幸運なことに、そしてドイツ軍にとっては不幸なことに6月6日は一時的に天候が安定するとの予測が出されたことを受け、上陸作戦は決行された。ドイツ軍も5日から7日にかけて嵐であることは予測しており、上陸作戦の遂行は延期されるものと考えていたが、連合軍によって、グリーンランドにある欧州の気象予測の重要施設であったドイツの気象観測所が襲撃されたことにより、6月6日に天候が安定するという情報を得られず、それが結果として3日間は嵐が続くために上陸作戦が行われないと思い込んでいたフランス駐留部隊の第7軍への警告懈怠に繋がることとなった。
参考文献
[編集]- ^ Séries littéraires: Commentaire de Chanson d'Automne (French)
- ^ パウル・カレル「彼らは来た ノルマンディー上陸作戦」P50~P53
- ^ Bowden, Mark; Ambrose, Stephen E. (2002). Our finest day: D-Day: June 6, 1944. Chronicle. p. 8. ISBN 978-0-8118-3050-8
- ^ Hall, Anthony (2004). D-Day: Operation Overlord Day by Day. Zenith. p. 100. ISBN 978-0-7603-1607-8
- ^ Roberts, Andrew (2011). The Storm of War: A New History of the Second World War. HarperCollins. p. 74. ISBN 978-0-06-122859-9
- ^ よく誤解されがちだが、これによって「敵が何かを起こす」ということは察知できても、その正確な内容までは不明であり、「それはノルマンディー(あるいは真珠湾)で起きる」というようなことまでは気づけなかった、ということは多い。しばしばある、「わかっていながらなぜ防げなかった」といったような議論は、そのような情報の曖昧さを考慮してないために発生する。