アントニオ・パチェコ
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はパチェコ、第二姓(母方の姓)はマソーです。 |
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | サンティアーゴ・デ・クーバ州パルマ・ソリアーノ |
生年月日 | 1964年6月4日(55歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 207 lb =約93.9 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム |
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五輪 | 1992年、1996年、2000年 |
この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
金 | 1992 | 野球 |
金 | 1996 | 野球 |
銀 | 2000 | 野球 |
アントニオ・パチェコ・マソー(Antonio Pacheco Massó 1964年6月4日 - )は、キューバの元野球選手。二塁手・遊撃手、右投げ右打ち。
来歴・人物[編集]
1980 - 1981シーズンから2001 - 2002シーズンまでキューバ国内リーグセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルのアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバに所属。キューバ代表の主将を務め、オマール・リナレスやオレステス・キンデランとクリーンナップを担った。1983年のパンアメリカン競技大会から代表入りをして、以後2001年までの25の国際大会のうち11で打率4割以上を打つ。守備でも軽々としたフットワークから強い送球で走者を刺す二塁手。
2002年のシーズン中、キンデランとともに社会人野球のシダックスに入団。翌2003年から監督に就任した野村克也の指導の下でキンデランとクリーンアップを打ち、チームの打撃の中核を担った。同年行なわれた第74回都市対抗野球大会では準優勝に貢献したが、その翌月にアキレス腱を痛めてシーズン後半は欠場を余儀なくされ、翌2004年も負傷の影響で前年ほどの活躍はできなかった。同年限りで現役を引退、キューバに帰国。
帰国後、2004 - 2005シーズンから2010 - 2011シーズンまでアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバの監督としてチームを率いる。チームは2004 - 2005シーズン・2006 - 2007シーズン・2007 - 2008シーズンにシリーズ優勝。2008年の北京オリンピックでは代表監督に就任。キューバを銀メダルに導いた。
2011 - 2012シーズンにエンリケ・エステバン・ディアスによって破られるまで、通算最多安打記録(2356本)を保持していた。
エピソード[編集]
- 野村はスポーツうるぐすにて「キンデランは天才的な選手であったが、パチェコは頭脳的な選手であった。非常に野球を良く知っている。キューバ代表の監督になることは当時から言っていた」と振り返っている。
キューバ国内リーグ(選抜リーグ含む)通算打撃成績(22シーズン)[編集]
打率.334 出塁率.399 長打率.525 OPS.924
1853試合 7045打数 2356安打(歴代2位) 366二塁打 63三塁打 741四球 77敬遠 73死球 834三振 284本塁打 1304打点(歴代3位)
60盗塁 44盗塁死
リンク[編集]
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