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駒橋 (潜水母艦)

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駒橋
艦歴
計画
起工 1912年10月7日
進水 1913年5月21日
就役 1914年1月20日雑役船として竣工
その後 1945年7月28日浸水着底
戦後解体
除籍 1945年11月30日
性能諸元
排水量 基準:1,125トン
全長 垂線間長:64.01m
全幅 10.67m
吃水 3.86m
機関 レシプロ機関2基2軸、1,200馬力
速力 13.9kt
航続距離
燃料 石炭:230トン
乗員 86名
兵装 8cm単装砲3門

駒橋(こまはし)は、日本海軍潜水母艦

概要

当初は運送船として計画され、1914年(大正3年)に雑役船「駒橋丸」として竣工した。しかし直後に潜水母艦として使用されることとなった。当時まだ潜水母艦の類別が無かったため二等海防艦に類別され、艦名も「駒橋」となった。日本海軍最初の潜水戦隊(第4潜水戦隊)の母艦となり、大正期は韓崎とともに潜水母艦として運用された。

しかし艦型が小型だったため元々母艦任務には適しておらず、1924年(大正13年)に潜水母艦に類別変更はされたが、それ以降は馬公を基地とした測量任務に就いている。1932年(昭和7年)の改装の際に測量艦として整備され、その後は南洋群島や北方海域での測量、警備任務に当たった。

大戦中はアリューシャン方面の測量のほかは、日本近海、特に横須賀鎮守府管轄の由良内・横須賀・室蘭間船団の直接・間接護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)に入り尾鷲を基地とした対潜掃討部隊の旗艦となったが、終戦直前に同地で敵機の攻撃を受け損傷浸水し着底、そのまま終戦を迎えた。

測量艦として

本艦は1932年(昭和7年)に測量艦として整備された。また同時に老朽化した主機をディーゼルと交換した。その時点での要目は以下の通り。

公試成績

この項は『海軍艦艇史 3』による。公試成績が悪く(計画1,800馬力のところが1,200馬力弱)、翌年にディーゼルを修理した。この時ラ式ディーゼルから池貝ディーゼルに交換した可能性もある。

時期 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
1,652トン 1,152BHP 12.306kt 1932年(昭和7年)11月24日 横須賀軍港防波堤外

駒橋は測量艦に類別変更されたのか

駒橋に関する文献やサイトの中には、「特務艦(測量艦)に類別変更された」という記述が現れる。一方で、『写真 日本の軍艦 第13巻』93ページには「類別上は最後まで潜水母艦のままであったとするのが正しいようである。」とある。

しかし、前者に関してみると、転籍日とされる1942年7月20日[1]には、確かにこの日、海軍大臣から鎮守府、艦隊、警備府の各長官に宛てて官房機密第二九三番電が発信されているが、その中の第三項には「三. 勝力ヲ軍艦籍ヨリ」と、同じ日に測量艦に転籍した勝力とは違って駒橋の名前はない[2]。一方、後者に関してみると、第二復員局が終戦後に編さんした「「阪復」三重県区内接収関係引渡目録」のうちの「艦艇目録」によれば、駒橋の艦種は「軍艦」であってその他の艦種にはなっていない[3]。また、永石正孝が記録した「大東亜戦争参加艦船表」でも、駒橋は潜水母艦の欄に含まれている。

軍艦籍にある艦艇が特務艦的な用途に使用された例としては、太平洋戦争中の水上機母艦能登呂があり、駒橋の場合も上に掲げた数少ない文献を見る限りでは、能登呂同様、軍艦籍にありながら特務艦的な用途で使用されていたものと考えられ、この点では水上機母艦から特務艦に戻った神威とは対照的な例となっている。

艦歴

歴代艦長

この項は主に『艦長たちの軍艦史』による。

  1. 神代護次:1914年8月16日 -
  2. 福田一郎:1915年12月13日 -
  3. 大田原達 中佐:1916年12月1日 - *第3潜水艇隊司令兼任
  4. 田口刺戟 中佐:1917年12月1日 - *第3潜水艇隊司令兼任
  5. 益子六弥 中佐:1918年11月10日 - *艦長心得就任、12月1日より艦長。第12潜水艇隊司令兼任
  6. 福田一郎 大佐:1919年1月24日 - *2月15日より第12潜水艇隊司令兼任
  7. 益子六弥 中佐:1919年7月10日 -
  8. 吉田百重[6]少佐:1919年10月1日 - *第11潜水艇隊司令兼任
  9. 木内達蔵 中佐:1919年12月1日 -
  10. 古川良一 中佐:1920年9月6日 -
  11. 神本国太郎 中佐:1920年12月1日 - *潜水学校教官兼任
  12. 河村儀一郎:1921年12月20日 -
  13. 和波豊一 中佐:1922年4月8日 -
  14. 植松練磨 中佐:1922年12月1日 -
  15. 森繁二 中佐:1923年12月1日 -
  16. 千谷定衛 中佐:1924年12月1日 -
  17. 星埜守一:1924年12月16日 -
  18. 渡部釗:1925年9月21日 -
  19. 波田野二郎 中佐:1926年12月1日 -
  20. 井上勝純 中佐:1927年12月1日 -
  21. 香椎哲二郎 中佐:1928年8月10日 -
  22. 松田源次郎 中佐:1928年12月10日 -
  23. 佐藤康逸 中佐:1929年11月30日 - *利根艦長兼務
  24. 鈴木幸三 中佐:1930年1月15日 -
  25. 能美留寿 中佐:1930年12月1日 -
  26. 山田省三 中佐:1931年12月1日 -
  27. 下坊定吉 中佐:1932年12月1日 -
  28. 岸人三郎 大佐:1935年11月15日 -
  29. 山崎貞直 中佐:1937年11月22日 -
  30. 相馬信四郎 大佐:1938年11月10日 -
  31. 清水正心 大佐:1939年11月15日 -
  32. 加藤文太郎 大佐:1940年10月7日 -
  33. 山形政二 大佐:1941年4月1日 -
  34. 大野周 大佐:1942年2月1日 -
  35. 水谷勝二 予備少佐:1945年4月2日 -

参考文献

  • 横須賀鎮守府司令部『自昭和十七年七月一日至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030319200
  • 第二復員局『艦船目録』(「阪復」引渡目録 第2復員局 (1-引渡目録-214)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08011205100
  • 『日本郵船戦時船史 上』日本郵船、1971年
  • 永石正孝/正岡勝直「大東亜戦争参加艦船表(永石表)」『戦前船舶資料集 第112号』戦前船舶研究会、2006年
  • 世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』(KKベストセラーズ、1982年) ISBN 4-584-17023-1

脚注

  1. ^ 『日本海軍特務艦船史』53ページ
  2. ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』。原文は「三. 勝力ヲ軍艦籍ヨリ、第二十五号及二十七号駆潜艇ヲ駆潜艇籍ヨリ、矢風ヲ駆逐艦籍ヨリ除カル」
  3. ^ 『艦船目録』
  4. ^ 『艦長たちの軍艦史』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』によると着工は4月15日。『海軍艦艇史 3』によると工事は4月から11月。
  5. ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』
  6. ^ 「艦長たちの軍艦史」では吉田百里となっている。

関連項目