陸軍大学校

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陸軍大学校跡地(北青山)

陸軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国陸軍に設けられた参謀将校養成機関ドイツ陸軍や、米陸軍ソ連陸軍にも同様な機関があった。日本海軍には同じく海軍大学校が、現在の陸上自衛隊では指揮幕僚課程にそれぞれ相当する。本欄では、戦前の日本陸軍に設置されたものについて詳述する。大学校という名称であるが、市井の大学のように一般に公募されるものではなく、軍人のみが入学資格を持つ幹部養成教育機関である。

概観

日本における陸軍大学校は、1883年から1945年まで、今の港区北青山に設置され[1]、参謀将校の育成や軍事研究などを主任務とした。64年間で3485人の卒業者を送り出した。略称は「陸大(りくだい)」。陸軍士官学校卒業者で、隊附2年以上、30歳未満の大尉中尉にのみ受験が許された[2]。教育期間は通常、歩兵騎兵が3年、砲兵工兵は2年。陸軍内の諸学校が教育総監部の管轄下に置かれたのに対し、陸大は参謀本部直轄の教育機関とされ、卒業生の人事も参謀本部が行った。

ドイツ式への転換とメッケル招聘

日本陸軍は創設以来フランス式の軍制を整えていたが明治初年に桂太郎山県有朋ら長州閥の主導でドイツ式への軍制改革が実施されていたが、参謀将校養成を目的とした教育機関である陸大は1882年(明治15年)に陸軍大学校条例が制定されて創設されるが、教官にはフランス人士官があたっていた。1884年(明治17年)にはドイツ帝国の陸軍大学校 (Preußische Kriegsakademie) をモデルとすべく、参謀本部長の山県、陸軍卿大山巌によりドイツ人教官の招聘が決定された。

翌1885年(明治18年)には日本側からの打診を受けたドイツ陸軍大臣ブロンザルト・フォン・シェレンドルフや参謀本部長モルトケは人選を開始し、モルトケの弟子であるクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐が派遣されることとなった。メッケルは同年に来日すると教官に着任し、それまでの図上演習等に加え、現地における参謀業務の実習、戦術教育を重視し、3年次には参謀演習旅行を行った。メッケルは明治21年に退任するが、メッケルの教育は実戦的として高く評価され、後年に至るまで陸大で行われた。

卒業と昇進

卒業生は胸に菊花と星をかたどった卒業生徽章が授与された。この徽章が江戸・天保期の百文銭に似ている事から、卒業生は「天保銭組」と呼ばれ、卒業生以外からは羨望と共に妬みの対象になった。成績上位6名には天皇から恩賜の軍刀が授けられた事から「軍刀組」と呼ばれ、上位12~3名は外国留学などを認められた。また、首席卒業者は天皇の前で研究発表を行うのが慣例だった。卒業生は補職や昇進で優遇され、昭和時代には陸大卒業者が陸軍の主要ポストを独占したため、陸大入校試験は実質的に陸軍高級将校の選抜試験と同じ意味合いを持つようになる。しかし、席次の順序に拘らず天保銭組の者は陸大を卒業していない将校を天保銭組では無いという意味で「無天」と蔑み、天保銭組の者が横柄な態度を取る等の対立や弊害が表面化した事から、昭和11年に陸大卒業徽章の軍服への佩用が禁止された。海軍大学に比べても定員枠はそれほど変わらないため、希望する将校の数が圧倒的に多い陸大の入試は海大に比してより難関とみなされていた。

入学選抜

陸大の入学試験を受験するためには,直属の上官である連隊長(時代により、工兵や輜重兵であれば大隊長)の許可を必要とする。ただし、輜重兵は騎兵として陸大を受験する事になっていた。試験は初審と再審に分かれる。初審は語学や数学、歴史などの一般教養科目や、典範令や操典などで、入学定員の二倍から三倍程度に絞り込む。再審は陸大で行なわれ、五名程の試験官を前にして口頭試問の形でなされる。出題は戦術や操典などであった。

山県有朋の死後、東條英機小畑敏四郎など、かつてバーデン=バーデンで密議を交わした者たちが陸大教官の地位に就くと、山口県出身者は陸大に入校できなくなった。その期間は10年以上に及ぶ。陸大を卒業していなければ、絶対に省部(陸軍省・参謀本部・教育総監部)の枢要に入る事はできず、学歴を利用した長州閥排除は成功した。

陸軍士官学校を卒業していない、幹部候補生出身の予備将校や少尉候補者出身の叩き上げ将校にも陸大の受験資格はあったが、初審を突破した者は数名存在するものの、再審を突破できた者は一人も存在しない。

皇族枠

一般軍人に対しては入学に際しては厳しい選抜試験が課せられ、選りすぐりの軍人のみが入校を許された。しかし、皇族王公族の場合、別枠で形式的な入学試験のみで(事実上、無試験で)入学することができた。陸軍幼年学校においては同様の入試枠は皇族・王公族以外に華族(一部士族)に対しても存在したが、陸大においてはそれは皇族にのみ限定されるものであった。入学後は華族の場合、成績や進級に手心は加えてもらえなかったが、皇族の場合は成績は公表されず、進級、卒業、その後海外留学が一般的なコースであった。

問題点

大局観の欠如

卒業者が次第に参謀職だけでなく、司令官や陸軍省幹部等陸軍内の枢要なポストを占めるようになるにつれ、陸大受験は事実上、唯一の高級幹部の早期選抜システムになった。しかし、最終教育機関であるにもかかわらず、陸大での教育は参謀実務が中心で指揮官行政官としての教育はなかった。また、参謀実務に特化した教育が実施されていたかについても疑義があり、結局はどちらつかずの中途半端なものであったとの意見もある。このため過去の戦役経験者が元老を含めた政府中枢からもほぼいなくなった1930年代頃には、日露戦争当時までいた国際政治安全保障等を展望できる大局観を持つ陸軍幹部はほとんどいなくなった。日中戦争太平洋戦争が早期解決できずに泥沼化したのは、兵站なども考えるべき幹部が正面軍備や戦闘中心の軍事戦略面ばかりに目が行き全体を見渡した適切な戦争指導ができなかったからとする批判がある。

席次重視

補職や昇進が陸大卒業の席次で決まる傾向が非常に強く、後々まで影響を及ぼした。陸軍省や参謀本部で支配的な地位につくものは、陸大の上位三分の一程度の成績を修めたものが中心となっていた。

兵站軽視

入学を認められた兵科は当初、歩兵騎兵砲兵工兵だけだった。輜重兵は陸大10期入校組(1891年)まで兵科として入校を認められず、以降も太平洋戦争中まで毎年一人入れるかどうかだった(例外は34期3名、35期2名、38期4名、48期2名)。この事実からも帝国陸軍の兵站軽視がよく表れている。

入学選抜の問題点

時代によっては入学選抜が恣意的に行われていたともされる。昭和初頭まで陸大合格者の9割が陸軍幼年学校出身者であり、幼年学校出身者が優遇されていた。また、かつての長州優位時代の反動から、反長州を掲げる高級将校が力を持ち始めた大正後期以降しばらくの間、山口県出身者の入学が排除された時期もあった。

年譜

  • 1882年(明治15年)陸軍大学校条例[1]により、参謀の養成を目的に設置
  • 1883年(明治16年)4月、三宅坂に移転した参謀本部の跡地に開設。
  • 1885年(明治18年)メッケルが陸大教官に着任。
  • 1891年(明治24年)現在の港区北青山(現在の港区立青山中学校)に移転
  • 1923年(大正12年)専攻科を設置(1932年廃止)
  • 1933年(昭和8年)研究部と専科を設置
  • 1945年(昭和20年)4月、甲府に疎開。8月の終戦に伴い廃止。

歴代校長

  1. (兼)児玉源太郎 大佐(1887年10月25日 -)
  2. 高橋惟則 大佐(1889年11月2日 -)
  3. 大島久直 大佐(1890年6月13日 -)
  4. 塩屋方圀 大佐(1892年2月3日 -)
  5. (扱)藤井包聡 大佐(1894年8月1日 -)
  6. (扱)塩屋方圀 少将(1895年6月24日 -)再
  7. (扱)立見尚文 少将(1896年1月28日 -)
  8. (扱)大島久直 少将(1896年1月28日 -)再
  9. 塚本勝嘉 大佐(1896年6月10日 -)
  10. 大島久直 少将(1897年4月24日 -)再
  11. 上田有沢 少将(1898年10月1日 -)
  12. (扱)寺内正毅 中将(1901年2月18日 -)
  13. (心)藤井茂太 大佐(1902年5月5日 -)
  14. 藤井茂太 少将(1902年6月21日 -)
  15. 井口省吾 少将(1906年2月6日 -)
  16. 大井成元 少将(1912年11月27日 -)
  17. 由比光衛 中将(1914年5月11日 -)
  18. 河合操 少将(1915年1月25日 -)
  19. 浄法寺五郎 中将(1917年8月6日 -)
  20. 宇垣一成 少将(1919年4月1日 -)
  21. 星野庄三郎 中将(1921年3月11日 -)
  22. 田村守衛 少将(1922年2月8日 -)
  23. 和田亀治 中将(1923年8月6日 -)
  24. 渡辺錠太郎 中将(1925年5月1日 -)
  25. (兼)金谷範三 中将(1926年3月2日 -)
  26. 林銑十郎 中将(1927年3月5日 -)
  27. 荒木貞夫 中将(1928年8月10日 -)
  28. 多門二郎 中将(1929年8月1日 -)
  29. 牛島貞雄 少将(1930年12月22日 -)
  30. 広瀬猛 中将(1933年8月18日 - 1934年7月17日)
  31. (兼)杉山元 中将(1934年8月1日 -)
  32. 小畑敏四郎 少将(1935年3月18日 -)
  33. 前田利為 少将(1936年8月1日 -)
  34. (兼)今井清 中将(1937年8月2日 -)
  35. (兼)多田駿 中将(1937年8月14日 -)
  36. 塚田攻 少将(1938年3月5日 -)
  37. 飯村穣 少将(1938年12月10日 -)
  38. 藤江恵輔 中将(1939年10月26日 -)
  39. 山脇正隆 中将(1941年4月10日 -)
  40. 下村定 中将(1941年9月3日 -)
  41. 岡部直三郎 中将(1942年10月8日 -)
  42. 飯村穣 中将(1943年10月29日 -)再
  43. (兼)秦彦三郎 中将(1944年3月22日 -)
  44. 田中静壱 大将(1944年8月3日 -)
  45. 賀陽宮恒憲王 中将(1945年3月9日 - 9月16日)

主な卒業生

脚注

  1. ^ 陸大のキャンパスは、現在の港区立青山中学校である。開校後1年ほどは東京・千代田区の参謀本部(三宅坂に移転)跡地に、終戦直前には山梨県甲府市常磐ホテルに置かれた。
  2. ^ 初期には陸軍士官学校卒業でない者がわずか2名だが存在した。陸大3期以降は全員士官学校卒業生である。

関連項目

参考文献