銭湯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。122.215.121.157 (会話) による 2012年5月11日 (金) 12:06個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

博物館に移築された子宝湯の入口部分 - 江戸東京たてもの園
のれんの一例

銭湯(せんとう)は料金を支払って入浴できるようにした施設で、日本公衆浴場の一種。風呂屋(ふろや)とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる。

概要

のれんの例 2

定義

現在の日本の法律では公衆浴場について、次の定義がなされている。

  • 公衆浴場法」第1条の規定
    • この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。
  • 「公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律」第2条の規定
    • この法律で「公衆浴場」とは、公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場であつて、物価統制令(昭和二十一年勅令第百十八号)第四条の規定に基づき入浴料金が定められるものをいう。
  • 公衆浴場法の適用を受ける公衆浴場は各都道府県条例で、「普通公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類される。
    • 「普通公衆浴場」とは、おおよそ「日常生活における保健衛生上必要な入浴のために設けられた公衆浴場」と定義され、一般に、この「普通公衆浴場」を「銭湯」(風呂屋湯屋)と呼ぶ。各都道府県の条例では、施設の衛生基準や浴槽水の水質基準などが定められている。
    • 「その他の公衆浴場」とはその営業形態が銭湯とは異なる浴場のこと。また、自治体によっては「特殊公衆浴場」とも呼ぶ。例としてはサウナ風呂健康ランドスーパー銭湯等がある。

分類

もともと公衆浴場の業者には分類として風呂屋湯屋があり、水蒸気に満ちた部屋に入って蒸気を浴びて汗を流す、蒸し風呂タイプの入浴法で営業している業者を風呂屋と呼び、沸かした湯を浴槽に入れ、湯を身体に掛けたり、浸かったりするタイプの入浴法で営業している業者を湯屋と呼んで区別していた[1]。しかし、江戸時代中頃に入浴法の発達や、兼業して営業する業者が出るようになって、喜田川守貞が書いた『守貞謾稿』(巻之二十五)の「京大坂にては風呂屋と俗に云ひ、江戸では湯屋と云ひ訛る」[2]との記述があるように、地域によって呼び方は異なることはあるが風呂屋湯屋は混同されて使用されるようになった[3]

歴史

古代

禅林寺にある浴室

日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清める為、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行なうようになった。

中世

鎌倉時代になると一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった、これが銭湯の始まりと言われている[4]

日蓮が書き記した『日蓮御書録』によれば、1266年文永3年)、四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」と"湯銭" という文字があることから、詳しいことは不明であるが、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在していたと考えられている[5]

室町時代における京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。このころ、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった[6]。また、当時の上流階層であった公家武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた[7]。なお、室町時代末期に成立した洛中洛外図屏風(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている。

近世

石榴口つき銭湯(鳥居)
石榴口つき銭湯(破風)

江戸における最初の銭湯は、1591年天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町 (千代田区)付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した蒸気浴によるものであった。

その後、江戸時代初期の江戸では浴室のなかに小さめの湯船があって、膝より下を湯船に浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した[8]

さらにその後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が登場した。細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえ分からないようにして入浴するというものであった。後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。

こうしてだんだんと薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。

男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。1791年寛政3年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた。

営業時間としては朝から宵のうち(現在でいう夜の8時くらい)まで開店していた。浴場、銭湯が庶民の娯楽、社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。当時の銭湯の入り口には矢をつがえた弓、もしくはそれを模した看板が掲げられることがあった。これは「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落の一種である。

なお、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていた。江戸時代末期には大店の商家でも内風呂を持つようになった。

近代

1877年(明治10年)頃、東京神田区連雀町の鶴沢紋左衛門が考案した『改良風呂』と呼ばれる、石榴(ざくろ)口を取り払って、天井が高く、湯気抜きの窓を設けた、広く開放的な風呂が評判になって、現代的な銭湯の構造が確立した[9]

政府は1879年明治12年)に石榴風呂式浴場を禁止して旧来型の銭湯は姿を消していき、外国への配慮から混浴は禁止となったが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めた。

大正時代になると、銭湯はさらに近代化していき、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、陶器のタイル敷きの浴室が好まれていった。昭和時代になると、水道式の蛇口が取り付けられるようになった。

現代

戦後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築された。1965年(昭和40年)頃には全国で約2万2000軒[9]を数えるようになった。

以前、東京都では銭湯の利用世帯を調査していた事がある。それによると1964年(昭和39年)の調査で銭湯を利用している世帯は全世帯の39.6%だったが、1967年(昭和42年)には30.3%にまで減少している。大阪府では1969年昭和44年)に2,531軒あったものが、2008年(平成20年)3月末には1,103軒まで激減している。

高度経済成長期以降、風呂付住宅が一般的になったことや、平成期に入って「スーパー銭湯」と呼ばれる入浴施設が次々と開業しており、急速に利用客、軒数ともに減らしており、2005年平成17年)3月末日における全国浴場組合(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会)加盟の銭湯の数は5,267軒となっている。

構造

銭湯の見取り図

現代のごく一般的な銭湯の構造の例は次のようになっている(なお、この見取り図は関東地方の銭湯に多いパターンである)。

履物は、松竹錠(風呂屋錠)で施錠される下駄箱に収める。そこから、脱衣所にはいる。

男湯と女湯

脱衣所の手前で男湯と女湯に分かれている。図では左(M)が男湯、右(F)が女湯だが、左右の配置に特に決まりはなく、逆の場合もある。外から覗き見えにくい側に男湯を配置する場合もある。

全体の構造

番台
  • A:燃料室:従業員以外は立ち入り禁止。釜場は屋外と連絡している。
  • B:浴室:浴槽と洗い場に大きく分かれる。他にシャワーやサウナ室が設けられる場合もある。
    • (3) 浴槽:水風呂、電気風呂、打たせ湯、座風呂、ジェット風呂、薬湯、露天風呂などを備えている施設もある。特に日本式の風呂になじみの無い者のために、浴槽の中で体を洗わないなど入浴のルールや作法を脱衣場などに掲示しているところもある。また、上がり湯専用のカランを備えているところもある。東日本では浴室奥に設計されることが多く、西日本では浴室中央に設計されることが多い。
    • (4) 蛇口:温水と冷水が出る。ボタンを押す間のみ湯水が出る「湯屋カラン」が多く使われる。また、多くは混合水栓のシャワーを備える。壁際ではなく、壁から離れた所に島状に設置されている洗い場のカラン列は「島カラン」とも呼称される。
  • C:脱衣場と入り口:脱衣所の手前に休憩所が設けられるところもある。板張り床ではなく高級な籐であることもある。
    • (5) ベビー寝台:主に女湯の脱衣所に備え付けられている。
    • (6) 脱衣箱:脱いだ衣服を入れる棚箱、今でいうロッカー。月極めの貸しロッカーもまれにある。かつてはトウ(籐)製の脱衣かごも用いられていた。
    • (7) 番台:少なくとも江戸時代には銭湯に番台は存在した。番台は図のように男湯と女湯を共に見渡す位置にある。しかし新しい施設では、脱衣所とは別にフロントのように設計されることが多い。
    • (8) 暖簾:正面の入り口には大判ののれんがかけられている。
    • (9) 下駄箱:個別に松竹錠(風呂屋錠)などの簡易な錠前がつくことが多い。傘立ても同様。
    • (10)坪庭:片隅に小さな日本風の植栽などが設けられている所もある。

意匠の特徴

ペンキ絵

ファイル:Sento.EdoTokyoOutdoorMuseum.jpg
富士山のペンキ絵 - 江戸東京たてもの園

銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われる。大正元年(1912年)に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至った。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無い。また、富士山を主体とした図柄は、男湯の浴室正面の壁面に描かれることが多く、女湯の浴室のペンキ絵は、富士山でなく、幼児や子供が喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多かった。平成22年(2010年)の時点でペンキ絵の絵師は関東で丸山清人中島盛夫の2名を残すのみとなり、後継者の存続が危ぶまれている。

ちなみに平成18年(2006年)5月に閉館した交通博物館のパノラマ模型運転コーナーの背景壁絵のリニューアルの際(平成14年(2002年))にも、銭湯のペンキ絵の絵師によって、富士山などを主体とした山々が連なるペンキ絵が描かれた[10]

タイル絵

大型タイルに美しく豪華な上絵を描き、焼成したものをタイル絵という。全国的にみられるタイル絵は、伝統の九谷焼で戦前より石川県金沢の「鈴栄堂」という窯元が全国に広めたもの。壁面などの広い面積を装飾するため複数枚の大型タイルに柄続きの総柄に仕上げる。白地の平滑な地に描かれる図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などおめでたく華美なものがほとんどを占め、美術工芸品並みの技巧を凝らし創られたタイルもある。高級品でもあったため、設備資金にゆとりがあり集客の多い市街地の銭湯に多くみられた。

建築様式

今や貴重なレトロ建築の梅ヶ枝湯 - 兵庫県高砂市

全国的に寺社建築のような外観の共同浴場を見ることができる。主に温泉が湧出する観光温泉地の共同浴場であるが、これが関東大震災後に東京で成立する宮型造り銭湯の様式としても採用された。主に関東近郊にこの建築様式が集中しており、地方の銭湯では見られずきわめて数が少ない。この宮型造り銭湯の都心での発祥は東京墨田区東向島の「カブキ湯」に始まる。この建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく建築様式を「宮型」という。

神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また、極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っている。そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も垣間見える。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えてイベントであり娯楽であったことも鑑み、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能した。

こうした宮型造りの銭湯は昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられたが、自宅に作る内風呂が普及し、またビルに建て替えられる銭湯も多くなって、数少なくなってきた。しかし近年の懐古趣味であるちょっとしたレトロブームに乗って、中には新築で宮型造りの銭湯が建てられる物件も出てきた。

各地の銭湯の建築様式は様々であるが、コミュニケーションの場として日常生活に彩りを与える工夫がなされている所に共通点がみられる。

なお、大阪市生野区にある源ヶ橋温泉は外観・内装とも昭和モダニズムの面影を残す貴重な建物のため、風呂屋の建造物では数少ない国の登録有形文化財に登録されている。なお、同じく登録有形文化財となっていた同市阿倍野区の美章園温泉は2008年2月、燃料費の高騰や耐震補強工事が困難であることなどを理由に廃業、解体にともない文化財としての登録を取り消された。

営業時間・営業日

現代の日本では、午後あるいは夕方から深夜12時前後までの営業が一般的。「朝風呂」と称して早朝より営業している店もある。 また、昨今の利用客の減少から、最近では近隣の銭湯で定休日が重ならないように調整し合う事もある。

料金

入浴料金は物価統制令(現憲法発布前に出された勅令法律としての効力を持つ)の規定により、各都道府県知事の決定で上限が定められる。そのため都道府県ごとで料金は違う。いずれの都道府県においても「大人(中学生以上)」「中人(小学生)」「小人(未就学乳幼児)」の料金分けを採用。また、洗髪する場合は追加の洗髪料金を徴収する地域もある。

サービス

ファイル:Yakuza sign near Sento.jpg
刺青お断りの告知

それぞれの施設で異なるが一般的に、番台やフロントなどで入浴に必要な道具や石鹸、入浴後に飲まれることの多い飲料である牛乳サイダー、ジュース、缶ビール(一部の施設)などを販売。脱衣所ではテレビや体重計があり、扇風機・ドライヤーやマッサージチェアも一部有料で利用できる。喫煙についてはできる場所もあるが、時代の変化にともない一部、もしくは全面禁煙化した施設も多い。頻繁に利用する入浴客には、割安な回数券も販売されている。

日本古来のならわしから柚子湯菖蒲湯(しょうぶゆ)などの伝統行事をに合わせて行ったり、子供や年配客向けの割引・無料サービスを行うところもある。最近では保育園幼稚園小学校に通う子供達を「裸のつきあいの意義を知る」としてクラス単位などで全員一緒に入浴させる「体験入浴」を学校行事とともに地域のふれあい行事として、一部の施設で行っている例もある。

施設によっては、浴場以外にサウナ風呂を有する場合もあり、東日本の一部の銭湯では200~300円程度の追加料金でサウナへ入浴が可能なことが多いが、西日本では追加料金のない施設も多い。料金を支払った客を区分しやすくするために、サウナ専用のカラータオルを貸しだすこともある。雑誌新聞などの持ち込みなどはほとんどの場合、入浴客の安全を考慮して制限される。

また、プールジム等と同様、刺青が入った客の入場は、断られる場合がある(他の客への威圧などが理由)。

脚注

  1. ^ 河合敦 『目からウロコの日本史―ここまでわかった!通説のウソと新事実』、p.42
  2. ^ 藤浪剛一 『東西沐浴史話』、p.142
  3. ^ 奥野高広 『戦国時代の宮廷生活』、p.143
  4. ^ 河合敦 『目からウロコの日本史―ここまでわかった!通説のウソと新事実』、p.40
  5. ^ 町田忍 『銭湯遺産』、p.178
  6. ^ かんでん e-Patio. “昔、お風呂は蒸し風呂だった!”. 2011年5月15日閲覧。
  7. ^ 藤浪剛一 『東西沐浴史話』、p.134
  8. ^ 藤浪剛一『東西沐浴史話』、p.157
  9. ^ a b 町田忍 『銭湯遺産』、p.181
  10. ^ 町田忍さん:後編 まずは、いちばんお近くの銭湯へどうぞ。(くるまあるき賛成派!第22回) - 日産カーウィングス(日産自動車、2010年9月28日閲覧)

参考文献

関連項目

外部リンク

Template:Link GA