自我

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Luckas-bot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月4日 (金) 12:21個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: uz:Id, ego va super-ego)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

自我(じが、ドイツ語: das Ich または Ich)は哲学および精神分析学における概念。なおドイツ語代名詞ichとは、頭文字を大文字で表記することで区別される。

哲学における自我

哲学におけるdas Ichとも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。超越論哲学における原理でもある。初期フィヒテ知識学においては、自我は知的直観の自己定立作用 (: Selbstsetzung) であり、哲学の原理であるとともに唯一の対象である。自然はこれに反定立される非我 (: das Nicht-Ich) であって本来的な哲学の対象ではない。したがってフィヒテにおいては自然哲学の可能性は否定される。これに対し、他我 (: das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格の可能性は、非我と異なり道徳性において承認されかつ保証され、この構想はシェリングおよびヘーゲルから様々な点で批判された。一方フィヒテ自身もこの自我概念にあきたらず、後期フィヒテにおいては自我は我々(: das Wir)および絶対者 (: das Absoloute) の概念へと展開される。 すなわち、後期ドイツ観念論においては、もはや自我は体系全体の中軸概念としては扱われなくなる。

シェリングはフィヒテの自我概念を摂取し、『自我について』(“Vom Ich”) で自我の自己定立性を、無制約性と結びつけた。自我論文においては、物(: das Ding)である非我一般に対し、無制約者 (: das Unbedingte) としての自我は「物(: Ding)にされないもの」として対置させられる。そのような自我の特質としての無制約性が自由である。ここにおいて思惟の遂行としての哲学すなわち無制約な自我の自己知は、自由な行為 (: Handlung) となり、カント以来の課題であった知と行為の一致は、ただ自我の自由においてのみ一致する。また、シェリングはフィヒテが否定した自然哲学を主題的にとりあげ、『超越論的哲学の体系』において自我の前史・自我の超越論的過去としての自然という構想を得る。さらに進んで、『我が哲学体系の叙述』では、自我すなわち主観的精神と客観的自然はその原理において同一であり、無限な精神と有限な自然とは、即自において(それ自体としては)無差別な絶対者であるといわれる。これによってシェリングの同一哲学の原理である無差別(: Indifferenz)が獲得される。 このような思想において、主観的なものとして取り上げられるのはもはや自我ではなく、むしろ精神であり、また精神における主観的なものとしての知また哲学となる。後にヘーゲルは『精神の現象学』でこの絶対者概念を取り上げ、このような同一性からは有限と無限の対立そのものを導出することができないと批判した。そのようなヘーゲルの体系では、自己意識は精神の発展・教養形成の初期の段階に位置づけられ、もはや初期知識学のような哲学全体の原理としての地位から退くのである。

一方、マックス・シュティルナーはフィヒテの自我の原理をさらに唯物論的に発展させ、自我に価値を伴わない一切の概念をすべて空虚なものとした極端な個人主義を主張。国家や社会も自我に阻害するものであれば、排除するべきであるという無政府主義を主張した。

精神分析学における自我

ジークムント・フロイトにおける das Ich(以下自我とする)は精神分析学上の概念である。ここでは自我に加えて超自我(ちょうじが)とエスについても説明する。なおアメリカの精神分析学においては、1953年にジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集の英訳の際、: das Ich(自我)は: ego(エゴ)、: Über-Ich(超自我)はsuper-ego(: super: ego)(スーパー・エゴ)、: Es(エス)は: id(イド)と訳され用語として流布した。エスは快楽原則、自我は現実原則、超自我は道徳原則とされる。

自我

フロイトの定義では1923年以前までは意識を中心にした自己の意味で使われていた。つまりや意識に近いものとして語られていたのである。これはこの時期以前においては、彼が意識と無意識の区別によって精神を把握していたためである。1923年以後、心的構造論と呼ばれる新たな理論を語るようになってから自我(エゴ)という概念が「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化された。

自我(エゴ)はエス(イド)からの要求と超自我(スーパーエゴ)からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的防衛を行い、エス(イド)からの欲動を防衛・昇華したり、超自我(スーパーエゴ)の禁止や理想と葛藤する、調整的な存在である。全般的に言えば、自我(ego)はエス(id)・超自我(super-ego)・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。

自我(エゴ)は意識とは異なるもので、飽くまでも心の機能構造から定義された概念である。有名なフロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」という発言がある。自我の大部分は構造や機能によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられるが、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的である。よって自我=意識と考えるのには注意しなくてはならない。

ちなみに「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別されている。日本語においての自我という言葉は、一般的には「私」と同意に受け取られやすいが、それは日常語の範囲で使用する場合にのみ当てはまる。

エス

エス (Es) は簡単に言えば無意識に相当する。正確に言えば無意識的防衛を除いた感情欲求衝動、過去における経験が詰まっている部分である。

エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部分である。これをフロイトは精神分析の臨床と生物学から導いた。性欲動はヒステリーなどで見られる根本的なエネルギーとして、攻撃性は陰性治療反応という現象を通じて想定されたものである。またエスは幼少期における抑圧された欲動が詰まっている部分と説明される事もある。このエスからは自我を貫いてあらゆる欲動が表現される。それを自我が防衛したり昇華したりして操るのである。

エスは視床下部のはたらきと関係があるとされた。なおこのEsという言葉は フリードリヒ・ニーチェが使用し、ゲオルグ・グロデックドイツ語版“Gesellschaft”(『エスとの対話』)などで使われた用語で、彼と交流があったフロイトが1923年に発表した『自我とエス』という論文から取り上げるようになった概念である。

超自我

超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観倫理観良心・禁止・理想を自我に伝える機能を持つ。厳密には意識と無意識の両方に現れていて、意識される時も意識されない時もある。ただ基本的にはあまり意識されていないものなので、一般的には無意識的であるとよく説明される。理想的な親のイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので、それ故に「幼少期における親の置き土産」とよく表現される。精神分析学においてはエディプス・コンプレックスという心理状態を通過して形成されると考えられている。

超自我は自我の防衛を起こす原因とされている。自我が単独で防衛を行ったり抑圧をしたりするのは稀であるとフロイトにおいては考えられている。また超自我はエスの要求を伝える役目も持っており、例えばそれは無意識的な欲求を知らず知らずのうちに超自我の要求を通して発散しているような場合である。他にも超自我は自我理想なども含んでいると考えられ、自我の進むべき方向(理想)を持っていると考えられている。を加工し検閲する機能を持っているので、フロイトは時に超自我を、自我を統制する裁判官や検閲官と例えてもいる。

超自我は前頭葉のはたらきと関係があるとされ、現在でもそれは妥当と考えられる。

関連項目