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筑摩型防護巡洋艦

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筑摩型防護巡洋艦

竣工直後の「筑摩」
艦級概観
艦種 防護巡洋艦
艦名 河川名
前級 利根 (防護巡洋艦)
次級 天龍型軽巡洋艦
要目
排水量 常備:5,000トン
全長 144.8m
134.11m (440ft)(垂線間長)/140.5m(水線長)
全幅 14.22m (46ft 8in)
吃水 5.11m (16ft 9in)
機関 イ号艦本式石炭・重油混焼式大型水管缶12基&同小型4基
+ブラウン・カーチス式直結タービン2基2軸推進(矢矧のみパーソンズ式2組4軸推進)
最大出力 22,500hp
最大速力 26.0ノット
航続距離 平戸:12ノット/2,650海里
燃料 石炭1,000トン
重油300トン
乗員 414名
兵装 アームストロング 15.2cm(45口径)単装速射砲8基
アームストロング 8cm(40口径}単装速射砲4基
(1919年に三年式 8cm(40口径)単装高角砲2基追加)
ルイス式7.7mm(30口径)単装機銃2丁
45.7cm水上魚雷発射管単装3門
装甲 舷側:50~89mm
甲板:22mm(水平部)、57mm(傾斜部)
司令塔:102mm

筑摩型防護巡洋艦(ちくまがたぼうごじゅんようかん)は日本海軍防護巡洋艦。本型は1907年(明治40年)度計画により3隻の建造が承認され、1912年(明治45年)5月から7月にかけて3隻が建造された。

概要

本型は1番艦「筑摩」は佐世保海軍工廠で建造され、2番艦「矢矧」は三菱長崎、3番艦「平戸」は川崎造船所とそれぞれ民間造船所で建造、後者2隻は民間造船所で建造された初めての巡洋艦となった。

通常の防護巡洋艦は舷側に装甲を持っておらず舷側部の石炭庫が防御を成すが、本型は軽巡洋艦への移行の過渡期の設計で舷側の一部に87mmの防御装甲を貼っていた。

艦形

1917年にシドニー港の乾ドックで撮られた「平戸」。クリッパー型艦首と細長い艦体が良く判る写真

本型の船体形状は平甲板型船体となっており、艦首形状は前型の利根と同じクリッパー型艦首を備えるが排水量は5,000トン台となり大型化された。艦尾はクルーザースタンとし、船体のL/B比が約10と当時としては非常に細長い船型を採用していた。

艦の構造を前部から記述すると、全くシア(反り返り)の無い艦首甲板上に主砲の「15.2cm(45口径)速射砲」を防盾の付いた単装砲架で1基が配置され、その後方に司令塔を下部に組み込んだ操舵艦橋の両脇に船橋が設けられた。見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。船体中央部に等間隔に並んだ4本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。左右の舷側甲板上に15.2cm速射砲が防盾の付いた単装砲架で片舷3基ずつが配置された。後部甲板上に簡素な後部マストと後部見張所が設けられ、後向きに15.2cm速射砲が1基の計8基が配置された。

主砲、その他部装

本型の主砲はアームストロング社製「15.2cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は重量45.4kgの砲弾を最大仰角18度では射程14,800 mまで届かせられた。単装砲架の俯仰能力は仰角18度・俯角5度である、旋回角度は300度の広い旋回角度を持つ。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は人力を必要とした。発射速度は毎分5発である。

副砲として「8cm(40口径)速射砲」を単装砲架で4基を艦上に搭載した。他に対艦攻撃用に45cm魚雷発射管を単装で3基を搭載した。

竣工後の1919年に対空火器として「三年式 8cm(40口径)高角砲」を2番・3番煙突の間に単装砲架で片舷1基ずつ計2基を搭載した。

機関

1912年に撮られた「矢矧」。新造艦では本邦初の4本煙突艦であった。

ボイラーは国産のイ号艦本式缶で燃料は石炭と重油を使用する混焼缶形式で、本型の第1の特徴は大型缶に加熱機が付いた新型となっていた事である。これに小型缶4基が組み合わされ、ボイラー数の増加に伴って初の4本煙突艦となった。

そして第2の特徴として推進機関に蒸気タービンを採用したことである。性能比較のために筑摩と平戸にはブラウン・カーチス式衝動型直結タービン2基で2軸推進であったが、矢矧のみパーソンズ式で異なり、反動型の高速タービン1基と低速タービン1基を並列配置で1組として2組4軸推進と異なる構成とした。 これにより最大出力22,500馬力で最大速力26.0ノットを発揮できた。公試成績は筑摩は26.83ノット、平戸は26.87ノットで僅差だが矢矧のみ27.14ノットで27ノット越えを達成した。

艦歴

第一次世界大戦には3隻とも参戦しドイツ帝国領ドイツ領ニューギニア攻略作戦等に参加した。開戦時に筑摩・矢矧の2隻は第4戦隊所属であったが、ドイツ東洋艦隊による通商破壊を防ぐために1916年より第三特務艦隊としてオーストラリアシドニーに派遣されたが、わずか半年後に護衛任務を解かれ、第一特務艦隊となりインド洋の通商保護作戦に従事した。平戸は南シナ海警備にあたり、1916年3月から12月にかけてシンガポール基地から南太平洋方面の作戦に従事した。

第一次世界大戦後は1921年(大正10年)から筑摩が中国大陸へ進出し警備に当たった。残る2隻も大正末から中国方面へ進出、昭和7年から平戸が上海事変時に華北警備、昭和8年に満州事変時に熱河作戦の支援として旅順港で任務に就いた。矢矧も昭和10年(1935年)代まで同地で警備に従事した。

筑摩は1931年(昭和6年)に除籍、1935年(昭和10年)頃に実験艦として撃沈処分、残る2隻も1940年(昭和15年)に除籍、太平洋戦争中は練習艦として使用され、戦後に解体された。

同型艦

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
  • 福井静夫著作集第4巻 日本巡洋艦物語」(光人社、1992年)ISBN 4-7698-0610-8
  • 「造艦技術の全貌」(興洋社、昭和27年)
  • 「世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史」(海人社)

関連項目