突撃砲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Luckas-bot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月15日 (火) 14:34個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: it:Cannone d'assalto (semovente))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

突撃砲(とつげきほう、: Sturmgeschütz)とは、ドイツ国防軍によって歩兵支援用につくられた自走砲歩兵砲)の一種である。敵陣地を直接攻撃するために強力な砲と低姿勢を兼ね備えており、対戦車任務にも大いに活躍した。

概要

突撃砲とはドイツ国防軍によって歩兵支援用につくられた自走砲の一種である。ドイツ以外では自走砲に分類される。先述のように、基本的には歩兵支援用であるが、対戦車戦闘向けに長砲身化されて実質、駆逐戦車任務をこなすようになったものもある。

突撃砲は黎明期の巡洋艦のような所属部隊や役務に応じた籍名ではなく、独自の車両種名である。仮に歩兵部隊の突撃砲が機甲部隊に配属されても、名前が「突撃砲」でなくなるわけではない。逆に駆逐戦車が歩兵部隊に配属されても、名前が突撃砲になるわけではない。ミハエル・ヴィットマンが車長を務めた時のIII号突撃砲も機甲部隊であるPanzergruppe所属である。

突撃砲と駆逐戦車の区別は所属兵科にある[要出典]。砲兵科所属が突撃砲で機甲科所属が駆逐戦車となる[1]。つまり砲に車体が付いたものが突撃砲であり、あくまでも砲が主体となる[要出典]。そのため、ドイツ軍では突撃砲が対戦車戦闘で活躍するようになると機甲科でも独自の突撃砲に似た駆逐戦車が作られるという事態が発生している[要出典]

前史

第一次世界大戦における塹壕戦では、歩兵が敵のトーチカを破壊することは困難であった。長距離砲による破壊は弾道精度、測距精度の問題で非効率的であり、大砲自体の前線進出が望まれていた。しかし大砲の前線進出には砲の重量、機動性の問題があった。このために、歩兵支援のための機動性を持ち近接支援を行うことができる砲として、自走砲戦車の研究が行われることとなった。

なおフランスの旋回砲塔を持たないサン・シャモンは「襲撃砲戦車」("char de rupture"[2])と呼ばれ、歩兵の陣地突破への直接火力支援を行うというコンセプトが後の突撃砲と同じである。

突撃砲の開発

III号突撃砲(G型)

こうした経験から敗戦後、ドイツ(ヴァイマル共和政)は突撃砲を開発した。当初は車台の上に近接支援用の砲をオープントップ式に搭載するのみで、砲兵を守る装甲板はなく、銃砲弾飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。その為どんどん装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つに至った。これが突撃砲である。このような開発経緯から、運用兵科は、戦車部隊ではなく、砲兵部隊となっている。

1936年に出された開発命令によりIII号戦車をベースとした車両に短砲身75mm砲 (7.5cm StuK37 L/24) を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。これがIII号突撃砲として採用された。

実戦での活躍と役割の変化

実戦で突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。電撃戦の各場面において、主に歩兵戦闘の支援を行い、敵勢力の重火器制圧に効果を挙げた。一方で、初期の突撃砲の装甲は30mm程度と薄かったため、しばしば敵の対戦車砲で返り討ちにあうという課題も残された。

1941年、バルバロッサ作戦ソ連侵攻作戦)を発動し、ソ連に侵攻したドイツ軍は圧倒的にすぐれた敵戦車T-34に直面し、すべての装甲戦闘車両は威力不足となった。ソ連軍の膨大な戦力に対し長距離行軍を強いられたことから、ドイツ軍の戦車戦力は急激に消耗していった。

東部戦線では、ドイツ歩兵の最大の脅威は敵のトーチカではなく敵戦車であり、突撃砲に求められるのは、敵戦車を破壊できる対戦車能力となった。もともと突撃砲は、対戦車戦闘も想定しており、徹甲弾を発射することができたが、これに加えて成形炸薬弾を用いて対戦車戦闘に従事した。のちにドイツ軍の戦車エースとなったミヒャエル・ヴィットマン独ソ戦初期にIII号突撃砲A型単独で16輌(諸説あり)のソ連軍軽戦車T-26を迎撃、うち6~7台を撃破したというエピソードを持つ。

ドイツ軍は、突撃砲の歩兵支援向きの短砲身砲を、対戦車戦闘にも有利な長砲身に変更する計画を大戦前から進めており、1940年にはクルップ社にて試作砲が完成して試験が始まっていた。しかし開発中だった新型7.5cm砲ではT-34に対して威力不足と考えられたため、ラインメタル社が新たに提示したより強力な長砲身砲(7.5cm StuK40 L/43 及び L/48) を開発搭載することになった。ここ至って突撃砲の任務は対戦車戦闘に変更されたと言える。主に歩兵支援任務を行う車両として、より口径の大きな榴弾砲を装備した、10.5cm Sturmhaubitze 42 (42式突撃榴弾砲又は突撃榴弾砲42型)が後に量産された。この時点で突撃砲は、回転砲塔を持たず、その重量を装甲防御と火力に回す"戦車"へと性格を変えた。

IV号突撃砲

戦車不足に悩むドイツ軍にとって、突撃砲はなくてはならない戦力となった。前述の通り突撃砲は同じ重量の戦車より装甲と火力に勝り、その上、精度が要求される回転砲塔を持たないため生産工程は戦車よりも少なく済み、大量生産が可能であった。駆逐戦車的な性格を強めた突撃砲は、大戦中期以降は戦車部隊にも配備され、これは本来の突撃砲運営部隊との間に少なからぬ摩擦をもたらした。配備される突撃砲の取り合いになっただけでなく、砲兵科からは「砲兵が騎士十字章を得る手段が無くなってしまう」(突撃砲兵以外の砲兵は支援任務主体であり、また対戦車砲は歩兵の装備であり直接交戦の機会が少ないため)などと反発の声が上がった。なお、武装親衛隊の突撃砲は従来から戦車隊に配備されていた。

突撃砲はアルケット社により生産されていたが、工場が被爆し操業停止に追い込まれたため、 IV号戦車の車台を用いた IV号突撃砲 (Sturmgeschütz IV) が製造された。IV号突撃砲の生産開始に伴い、それまで単に「突撃砲」と呼ばれていた車輌は III号突撃砲(Sturmgeschütz III) と呼ばれるようになった。

ドイツの突撃砲は終戦まで連合国軍相手に歩兵支援や対戦車戦闘で活躍し、ドイツ軍の対戦車戦力の根幹であった。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめることとなったのである。ただし、回転砲塔とそれに付随した機関銃を持たなかったため、バズーカ等を装備した歩兵に背後や側面に回られると戦車よりも脆い点が弱点であった。

戦後

上述の通り、本来は歩兵支援の自走砲であった突撃砲が、戦車的なものへと性格を変えたのは、回転砲塔を持つ戦車の火力不足、生産量不足であった。回転砲塔が装備できればそのほうが戦闘車両として遥かに使い勝手が良いので、可能であればそれに越した事は無い。従って、突撃砲に火力で劣らぬ戦車を十分な数量生産できれば、突撃砲は不要となる[要出典]。こうして突撃砲は、時代の徒花として消えていった[要出典]

もうひとつ、砲兵科と機甲科のセクト争いより、似たような性格の戦闘車両である突撃砲と駆逐戦車を両方生産してしまったという側面もある[要出典]。駆逐戦車については戦後のドイツでもカノーネンヤークトパンツァーの生産が継続されたが、やがて武装を対戦車砲から対戦車ミサイルへと変えていく事になる。

なお、スウェーデン陸軍では"主力戦車"として、砲塔を持たないStrv.103を生産しているが、これは待ち伏せ戦闘に特化したためである。

第二次大戦後、突撃砲は歩兵支援の場からも、対戦車狙撃任務の場からも、急速に姿を消していった。理由は以下のようなものが挙げられている。

  • 歩兵支援任務は歩兵戦闘車や、より発達した装甲兵員輸送車に引き継がれた[3]
  • 高価な主力戦闘戦車以外による低姿勢待ち伏せ型対戦車攻撃任務は、駆逐戦車や長砲身型突撃砲から、自走対戦車ミサイル発射機と携帯式対戦車火器に引き継がれた[4]。その移行期には、カノーネンヤークトパンツァー駆逐戦車(ドイツ)、改ヘッツァー型駆逐戦車G-13(スイス)等も造られている。

脚注

  1. ^ 同様の事例に歩兵砲と普通の野砲榴弾砲)があり、歩兵科所属なら歩兵砲で砲兵科所属なら榴弾砲ないし野砲となる[要出典]
  2. ^ 模型メーカーによる造語ではない
  3. ^ 三野正洋『戦車マニアの基礎知識』(イカロス出版1997)。
  4. ^ 三野正洋『戦車マニアの基礎知識』(イカロス出版1997)。

参考文献

  • フランツ・クロヴスキー、ゴットフリート・トルナウ 『突撃砲兵』上下、高橋慶史訳、大日本絵画。

関連項目