沖島 (敷設艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1931年(マル1計画) |
起工 | 1934年9月27日 播磨造船所 |
進水 | 1935年11月15日 |
就役 | 1936年9月30日竣工 |
その後 | 1942年5月11日戦没 |
除籍 | 1942年5月25日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:4,000t 公試:4,661t |
全長 | 124.5m |
全幅 | 16.2m |
吃水 | 5.15m |
主缶 | ロ号艦本式缶4基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 9,000hp |
速力 | 20.0kt |
航続距離 | 9,500 NM /14kt(重油:850t) |
乗員 | 445名 |
兵装 | 14cm連装砲2基4門 8cm単装高角砲2門 13mm連装機銃2基4挺 六号機雷500個 爆雷22個 |
航空機 | 九四式水偵1機 呉式二号三型カタパルト1基 |
沖島(おきのしま)とは、日本海軍の敷設艦。日本海軍初の大型敷設艦。
ロンドン条約によって「阿蘇」、「常磐」の代艦として敷設艦の建造が認められ、2隻予算請求されたが1隻のみ成立、建造された。日本海軍初の大型敷設艦であり、6号機雷を600個搭載できた。またカタパルト1基が設置され水上偵察機1機も搭載できた。
日中戦争には陸軍部隊や物資の輸送で活躍した。太平洋戦争では緒戦の各地攻略作戦に参加。しかし1942年(昭和17年)5月に米潜の攻撃により早くも戦没した。
艦歴
1934年9月27日、播磨造船所にて起工。1935年11月15日進水。1936年9月30日竣工。
1941年の開戦時第4艦隊第19戦隊所属。12月10日、マキン島上陸作戦、12月24日 、アバイアン島上陸作戦に参加。
5月、ツラギ攻略部隊に参加。5月4日、ツラギはアメリカ空母ヨークタウン搭載機による攻撃を受けた。最初の空襲で駆逐艦菊月が損傷し、沖島は駆逐艦夕月とともに出港しサボ島北方へ避退した[1]。続く空襲で沖島も爆撃機による攻撃を受けたが被害は軽微であった[2]。5日、沖島はツラギに戻り菊月乗員や重要書類を収容し、それからラバウルへと向かった[3]。5月7日にラバウルに到着するとそこで応急修理を受け、5月10日に出撃してナウルおよびオーシャン攻略に向かった[4]。だが、5月11日にクインカロラ沖でアメリカ潜水艦S-42の雷撃を受け左舷に魚雷2本が命中して火災が発生し、また全動力を失った[4]。金龍丸により曳航されて沖島はクインカロラへと向かったが金龍丸が座礁[5]。翌日駆逐艦睦月により曳航が再開されたが鎮火したと思われた火災が再びひどくなり、6時48分に沈没した[5]。
5月25日除籍。
歴代艦長
艤装員長
- 佐藤波蔵 大佐:1935年11月15日 -
艦長
- 佐藤波蔵 大佐:1936年9月30日 -
- 安住義一 大佐:1937年1月18日 -
- 富沢不二彦 大佐:1937年12月1日 -
- 平塚四郎 大佐:1938年12月15日 -
- 中村勝平 大佐:1939年11月15日 -
- 高橋一松 大佐:1940年3月22日 - (兼)
- 小畑長左衛門 大佐:1940年4月15日 -
- 小豆沢成 大佐:1940年10月15日 -
- 能美実 大佐:1941年9月12日 -
脚注
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇Ⅱ』(光人社、1990年)
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 南東方面海軍作戦1 ガ島奪回作戦開始まで』、朝雲新聞社、1971年