山手 (横浜市)
山手(やまて)は横浜市中区にある、横浜関内地区南方の高台上にある山手町とその外縁部を含む一帯で、幕末から明治32年まで外国人居留地であった。
概要
横浜を代表する商店街の1つである元町の南側の高台で、高級住宅街、観光地として有名で都市景観100選に選定されている。狭義には中区山手町(やまてちょう)をいうが、その周辺の高台(本牧地区の北西側、山手駅付近まで)を含めることもある[1]。
山手町は横浜の開港後、外国人居留地とされた区域で、英語で"Yamate Bluff"または"The Bluff"(切り立った岬という意味)と呼ばれる。「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。
開港により関内に外国人居留地が設けられたが、そこが低湿で狭隘であることから住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府はこのイギリス借入地へのイギリス・フランス両国軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。
山手の高台は1867年(慶応3年)に居留地とされ、外国人居留民の住宅やキリスト教系の学校などが建てられた。元は久良岐郡北方村の他、石川村、中村、根岸村の各村に属していたが、1873年(明治6年)5月1日の区番組制や1874年(明治7年)6月14日の大区小区制、および1878年(明治11年)11月21日の郡区町村編制法実施の際には関内居留地(山下)とともに横浜区及び周辺各村のいずれにも属さない区域とされた。1879年(明治12年)に外国人居留地の管理が神奈川県から横浜区に移管され、1884年(明治17年)7月、以下の26か町が設けられた。
- 谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町
1889年(明治22年)4月1日横浜市制が施行され、山手26か町は外国人居留地のまま市域に含まれることになる。
1899年(明治32年)7月17日条約改正により外国人居留地が廃止され、7月24日に26か町の区域に山手町を設置した。
1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害を受け、以後この区域に住む外国人居留民は激減したが、異国情緒あふれる景観から現在でも人気の観光地で、次のような観光スポットがある。
施設等
観光
- 港の見える丘公園(公園内に神奈川近代文学館、大佛次郎記念館などがある)
- 横浜外国人墓地
- 山手資料館
- 岩崎博物館
- 横浜ブリキのおもちゃ博物館
- 山手イタリア山庭園
- 山手公園
- 元町公園、エリスマン邸(元町一丁目)
- ベーリック・ホール
その他
- カトリック山手教会
- 横浜山手聖公会
- 山手キリスト教会
- 横浜インターナショナルスクール
- フェリス女学院大学、フェリス女学院中学校・高等学校
- 中央大学横浜山手中学校・高等学校
- 横浜雙葉中学校・高等学校
- 横浜女学院中学校・高等学校
- 横浜共立学園中学校・高等学校
- サンモール・インターナショナル・スクール
交通
根岸線石川町駅またはみなとみらい線元町・中華街駅から徒歩、またはバス。
根岸線山手駅は本来の山手ではなく、山手町には遠い。
注
- ^ 首都高速道路と横須賀街道(国道16号)に囲まれた地域は一体の丘陵であり、松任谷由実のヒット曲「海を見ていた午後」に歌われた「山手のドルフィン」のように、ひとによってはエキゾチックな雰囲気から漠然と旧横浜競馬場を前身とする根岸森林公園や在日米軍根岸住宅地区まで包含するかのように用いる例もあるが、山手地区は一支脈を形成しており、若干の低地を挟んだ南側の丘は根岸あるいは本牧地区として区別される。