契丹文字
契丹文字 | |
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契丹小字七言絶句銅鏡[1] | |
類型: | 未解読文字 |
言語: | 契丹語 |
発明者: | 耶律阿保機 |
時期: | 920年頃-12世紀頃 |
Unicode範囲: | 割り当てなし |
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。 |
メロエ 前3世紀 |
カナダ先住民 1840年 |
注音 1913年 |
契丹文字(きったんもじ)は、遼の太祖耶律阿保機が制定したとされる文字。契丹大字と契丹小字という、系統の異なる2種類の文字が存在する。
概要
- 契丹大字墓誌:[2]
- 1.痕得隠太傅墓誌(遼穆宗應曆十年[960]五月二十八日)
- 2.耶律延寧墓誌(遼聖宗統和四年[986]十一月十八日)
- 3.霞里隱大王墓誌(遼興宗重熙十年[1041]十月八日)
- 4.可汗橫帳孟父房涅鄰劉家奴詳穩墓誌碑銘(遼興宗重熙二十年[1051]十月二十二日)
- 5.奪里不里郎君位誌銘(遼道宗大康七年[1081]三月十五日)
- 6.故撻不衍觀音太師墓誌(遼道宗大康十年[1084]六月五日)
- 7.フリジ契丹國六部遙里撒里必石烈阿縵太師墓誌(遼道宗大安五年[1089]十二月二十五日)
- 8.蔑古乃乙辛隱袍里宰相勅葬墓誌(遼道宗大安六年[1090]三月十九日)
- 9.大中央フリジ契丹國故西北路招討訛都宛太傅妻永寧郡公主位誌銘(遼道宗大安八年[1092]三月二日)
- 10.大中央フリジ國興隱太師妻夫人墓誌碑銘(遼道宗寿昌六年[1100]四月一日)
- 11.大フリジ國耶律撒班枢密齊王位誌銘(遼天祚帝乾統八年[1108]五月某日)
- 12.大中央契丹國惕隱司仲父房習涅副使墓誌(遼天祚帝天慶四年[1114]三月二十五日)
- 13.大金國先父郎君墓誌銘(金世宗大定十六年[1176]八月十一日)
- 契丹小字
- 太祖の弟であった耶律迭剌が、多音節言語である契丹語の表記には不便だった契丹大字に代わり、ウイグルの使者から学んだウイグル文字の表記を参考にして創作したとされる。公布された年代ははっきりしていないが、924年(天賛3年)頃ではないかと考えられている。
1125年に遼が滅亡すると次第に廃れていくが、金が1191年(明昌2年)に契丹文字使用禁止の法令を出しており、この頃まではまだ一部で使用されていたと思われる。
特徴
契丹大字は、数詞や日付表記などに明らかに漢字を参考にしたと思われる文字があり、それらは恐らく漢字を元に改変されたものと思われるが、漢字との関係があるように見えない文字も多く、それらの文字の起源に関しては明らかになってはいない。
契丹小字は、対称に書かれた漢文から予想される音から想定して、恐らく発音をあらわす複数の要素を組み合わせた音節文字だと考えられているが、表語的要素をもつと想定される一部の文字もあり、現在のところ詳細は判っていない。
残された資料が遼朝の皇帝・皇族の陵墓である慶陵の墓碑銘(哀冊)などで資料として偏っているためか、漢文との二言語対照資料があるにもかかわらず現在のところほとんど解読されていない。
契丹小字の文字要素の組み合わせ方は現在のハングルのそれに似ており、ハングルの原理は契丹小字から取られたとする説が西田龍雄によって唱えられている。
研究者
脚注
- ^ 韓国国立中央博物館所蔵「契丹小字七言絶句銅鏡」、『韓半島から眺めた契丹・女真』京都大学学術出版会、2011年。
- ^ 愛新覚羅烏拉熙春、吉本道雅『韓半島から眺めた契丹・女真』京都大学学術出版会、2011年、220頁。