大館勲

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大館 勲
1955年撮影
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ハワイ準州オアフ島ホノルル
生年月日 1917年4月9日
没年月日 (2000-06-08) 2000年6月8日(83歳没)
身長
体重
177 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1949年
初出場 1949年
最終出場 1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大館 勲(おおだて いさお、1917年4月9日 - 2000年6月8日[1])はアメリカ合衆国ハワイ準州Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手一塁手)。1950年から1955年の登録名は「大館 勲夫」(読みは同じ)。

来歴・人物

1935年に旧制平安中学(現:龍谷大学付属平安高等学校)で、第21回全国中等学校優勝野球大会に出場。その後京都武道専門学校に籍を置いて柔道を修行し、大柄な体を生かした豪快な大外刈や左右の払腰、受けの強さを生かして1939年明治神宮大会では非専門部門ながら優勝を果たし、1940年昭和天覧試合では3回戦で柔道王・木村政彦に敗れたものの、5分近い接戦を繰り広げた[2]。他方、野球では全京都でプレーしていた。

1949年に31歳で大阪タイガースに入団[1]。42試合に出場した。1950年初め、大館勲-徳網茂の1対1の交換トレードで、毎日オリオンズに移籍[1]。この年に、勲夫に改名した。移籍後は主に代打で出場し、1954年から主将を務めた。1955年オフに引退した。1シーズン代打本塁打4本、通算代打本塁打9本は1966年に中西太が更新するまでの日本プロ野球記録であった[3]。引退後は日本野球連盟参与を務めた[1]

1952年7月16日平和台事件(詳細は同項参照)では、日没ノーゲームに怒った西鉄ライオンズファンが、遅延行為を行った毎日選手の宿舎を囲んだ際に、大館が宿舎を出て謝罪した。これには激昂していた西鉄ファンも感服し、「あんたよか男ばい」と大館に握手を求めたという。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1949 阪神 42 85 80 3 17 0 1 0 19 4 1 0 1 -- 4 -- 0 20 -- .213 .250 .238 .488
1950 毎日 31 62 56 5 13 3 0 2 22 8 0 0 0 -- 6 -- 0 18 3 .232 .306 .393 .699
1951 24 49 46 3 12 3 0 2 21 8 0 0 0 -- 3 -- 0 7 1 .261 .306 .457 .763
1952 61 77 72 6 23 7 0 4 42 16 0 1 0 -- 5 -- 0 19 3 .319 .364 .583 .947
1953 51 85 72 3 16 2 0 1 21 5 0 0 0 -- 12 -- 1 21 1 .222 .341 .292 .633
1954 34 35 35 4 10 1 0 4 23 10 0 0 0 0 0 -- 0 11 1 .286 .286 .657 .943
1955 21 21 19 1 5 1 0 0 6 1 0 0 0 0 1 0 1 4 1 .263 .333 .316 .649
通算:7年 264 414 380 25 96 17 1 13 154 52 1 1 1 0 31 0 2 100 10 .253 .312 .405 .718

背番号

  • 1 (1949年)
  • 32 (1950年 - 1953年)
  • 30 (1954年 - 1955年)

登録名

  • 大館 勲 (おおだて いさお、1949年)
  • 大館 勲夫 (おおだて いさお、1950年 - 1955年)

脚注

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、106ページ
  2. ^ 木村政彦 (2001年11月16日). “天覧試合に勝つ”. わが柔道 -グレイシー柔術を倒した男、99頁 (学習研究社) 
  3. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」463ページ

関連項目

外部リンク