呂運亨

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呂運亨
各種表記
ハングル 여운형
漢字 呂運亨
発音: ヨ・ウニョン
日本語読み: りょうんきょう
ローマ字 Yo Un-hyung
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呂 運亨(ヨ・ウニョン、りょ・うんきょう、1886年5月26日 - 1947年7月19日)は、朝鮮独立運動家、政治家。号は「夢陽」(モンヤン、몽양)。

来歴

YMCAで演説する呂運亨

1914年中国亡命1919年上海で設立された大韓民国臨時政府に参加。第二次世界大戦中は朝鮮人に向けて、半島学生出陣報、京城日報などを通じて「日本軍に志願するべきである」とした文章を投稿し、日本の戦争政策に協力した[1]。また、「大東亜はわが日本を中心に建設されている。一大の決戦は、東亜10億の生存権を獲得するための戦いだ。血が乱舞する中、半島はいったい何をしていたのか」と発言したこともあった[1](呂は韓国の親日人名辞典には掲載されていない[1]が、中央日報は前述の事実から「呂が親日であるのは明らか」としている[1])。

大戦末期の1944年8月10日、日本の敗戦を見越して朝鮮人による統一政府の樹立を目指して建国同盟を秘かに結成。そして1945年8月15日の日本の敗戦を受けてその日の内に朝鮮建国準備委員会(建準)を結成した。これは中道派から左派の連合体だった。呂は、日本との提携及び宋鎮禹・曺晩植(以上明治大学卒)・金性洙・安在鴻(以上早稲田大学卒)など、日本留学を経験している知日派の力が、独立後の体制作りに必要不可欠と考えていた。

日本の降伏は、少なくともアメリカが予想していたよりも早かった[2]朝鮮総督府朝鮮軍は茫然自失に陥っており、朝鮮は外国の軍隊のないまま8月15日を迎え、突然の「解放」(光復)というニュースのみがもたらされた。

呂運亨率いる建準は、この事態に最も早く対応した集団だった(「解放」当時では朝鮮で最も組織された集団だったといわれる)。これに対抗して全羅地方の資本家・湖南財閥によって韓国民主党(韓民党)が組織され、宋鎮禹金性洙らがそのリーダーになった。韓民党は国内の独立運動家たちによる組織を拒否して重慶に亡命していた大韓民国臨時政府の支持を打ち出した[3]

朴憲永(左)と

1945年9月6日、建準は「朝鮮人民共和国」(人民共和国)の樹立を宣言した。この頃には朝鮮共産党朴憲永をリーダーとしてすでに再建されており、連合政権に加わっていた。樹立宣言の翌日・9月7日アメリカ占領軍が上陸した。9月11日、占領軍は軍政を布くことを宣言し、人民共和国及び建準を否認した。そのため人民共和国としての独立は失敗に終わった。

呂運亨は、その後も中道左派の代表的な指導者として左右合作による統一戦線の維持に腐心した。アメリカ軍政が左派・共産主義者の排除を意図していることを意識して共産党と距離を置き、自らはより中道寄りに振る舞った。そのため共産党からはしばしば非難され、左派勢力との協力と対立との間で揺れ続け苦しみ続けた。左右合作と南北統一はほぼ同一のものとして受けとめられていた。1947年7月19日、南半部単独での建国が確実になりつつある中で、呂運亨は右派の青年によって暗殺された[4]

人物

交際の広い人物でもあり、例えば日本の神道思想家葦津珍彦とも交流があった。終戦間際に、呂運亨は葦津を朝鮮ホテルの一室に呼び、「日本敗戦後の対日弾圧は、徹底して厳しく、日本の諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両相扶け相和すべきの天機。私はその為に全力を尽くす」と主張した上で、彼に「萬里相助」としたためた書を贈っている。

呂運亨は南北朝鮮に於いて高い評価を受けている数少ない政治家である[5]。朝鮮独立の為に働いた他の人々は続く南北分断と反共/共産独裁主義の政治に依り片方では 彼の中途的な政治路線に 'オポチュニスト'と責める人々が頻繁にある 評価され、もう片方では貶められている。呂が朝鮮戦争前に暗殺されたこと、また朝鮮総督府・アメリカ・ソ連などいずれの勢力に対しても従属路線も全面対立路線も採らず、常に適度に距離を置こうとしていたことは結果的に南北両国民の間に、彼を朝鮮の自由の為に働いた稀有な政治家という良い印象のみを残したことになるだろう[5]。また、名越二荒之助等日本の保守派からは、「彼が大統領となっていれば、現在の日韓関係は全く違っていたものになっていただろう」と言う声が多く聞かれる。

脚注

  1. ^ a b c d “【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典”. 中央日報. (2009年11月6日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122425&servcode=100&sectcode=100 2010年2月24日閲覧。 
  2. ^ アメリカが予想したよりも早く日本が降伏したことは、その後の朝鮮に大きな影響を与えた。ソ連による満州攻略は9月までかかる予定だったが、降伏が早く、関東軍がすぐに壊走したために、ソ連の南下が急速であるとアメリカは誤解した。実際にはソ連による朝鮮全土の占領はあり得なかったが、アメリカは疑心暗鬼に陥った。その結果、米英中ソ4ヶ国による信託統治案は合意として生きていたものの、当面の方針として米ソによる北緯38度線での分割占領があわただしく決められた。
  3. ^ 韓民党は程なくして李承晩と連合して左派を排除し、大韓民国建国を主導する勢力となった。しかし、建国後すぐに韓民党は李承晩と対立し、野党となった(李承晩#大韓民国建国)。以降、同党の流れを汲む勢力が韓国における野党勢力の中核となる。
  4. ^ 今日の歴史(7月19日)”. 聯合ニュース (2011年7月19日). 2011年8月8日閲覧。
  5. ^ a b 徐仲錫『現代朝鮮の悲劇の指導者たち 分断・統一時代の思想と行動』林哲、金美恵ほか訳。42頁

参考文献

  • 姜徳相『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動新幹社、2002年。
  • 姜徳相『呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2005年。
  • 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年。
  • 斎藤吉久「朝鮮独立を支援した神道人‐呂運亨と葦津珍彦の交流」『正論』1999年4月号、産経新聞社。
  • 名越二荒之助『日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる』明成社、2002年

関連項目

外部リンク

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