円形校舎

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ファイル:清風中学校・高等学校.jpg
円形校舎(大阪府大阪市天王寺区清風中学校・高等学校

円形校舎(えんけいこうしゃ)とは、ロタンダ(円形建築物)となっている学校校舎である。1950年代に多数建設され、大阪府兵庫県奈良県を中心に北海道から鹿児島県まで広く分布している[1]

概要

円形校舎の教室(鳥取県倉吉市立明倫小学校旧校舎)

「最も経済的に造る」ことを信念としていた建築家・坂本鹿名夫によって考案された[1]。円形にすることで廊下節約でき[2]建設コストを安く押さえることができたほか、狭い土地を有効活用できることから、メディアに取り上げられて注目を浴び(1954年〈昭和29年〉の私立山崎学園富士見中・高等学校の竣工時には、日本はおろか外国報道機関までもがヘリコプター上空から取材をしたという[3]。)、一気にブームが起こったといわれている[4]。ほかにも、どの方向からもが入るため風通しが良く、日当たりも良いことや、扇形の教室は教師生徒の距離感が近く、教師からは全体が見渡せるといった利点もあった[4]

構造

直径30メートルほどの正円の平面を持ち、外周と内周にを均等に並べるラーメン構造である。中心部は動線設備コアとなっており、扇形に仕切られた諸室は円の中心側に黒板が設置された。外壁一面のガラスを通じて背後から採光するという、学校建築において過去に例がない形式である。最上階を講堂体育館にする形式のものも作られた。[1]

歴史

国の登録有形文化財(建造物)に指定されている朝日小学校円形校舎

1947年昭和22年)、教育基本法とそれにもとづく学校教育法の施行により、中学校が新設され小・中義務教育6・3・3・4制が確立する。しかし、戦災復興は1950年代に入っても罹災校舎の半分に及ばず、制度的前身を持たない中学校では施設不足が深刻化していた。各地で応急の木造校舎が建設されたが、粗悪な作りで台風の度に被害を出し、教育にも支障を来していた。こうした状況を受けて文部省(当時)は教育施設部を新設し、建築学会に学校建築の標準づくりを依頼した。1950年(昭和25年)に建築学会は、7×9メートルの教室を幅3メートルの廊下南面に並べた一文字型平面の「鉄筋コンクリート造校舎の建築工事」をまとめる。この定型は東京都建築局によって建築モデル校に指定された西戸山小学校などの設計に採用された。[1]

こうした一連の標準設計策定作業の輪の中に、坂本鹿名夫の姿もあった。大成建設の設計技師だった坂本は1947年(昭和22年)頃、上司の代理として文部省の委員会に出席するようになった。やがて臨時委員の資格で正規メンバーとなり、基本設計・断面詳細などの設計に関わる。作業が西戸山小学校の実施設計まで来たとき、廊下側間仕切りの検討をめぐって委員が私案を持ち寄ることになった。ここで坂本は、正円の校舎2棟を矩形平面の雨天体操場で連結した案を出すが、奇抜に過ぎるとして委員会で顧みられることはなかった。1952年(昭和27年)、私立金城高等学校(現・遊学館高等学校)で西戸山小学校と同じ円形校舎2棟を雨天体操場で繋ぐ案を提案するが、実現したのは円形校舎1棟のみだった。そのため、坂本自身は次作の私立山崎学園富士見中・高等学校(1954年〈昭和29年〉)を実質的な第1作としている。[1]

1954年(昭和29年)、坂本は独立し建築綜合計画研究所を設立する。独立後、坂本は多数の円形建築を設計した。1959年(昭和34年)にまとめた作品集『円形建築』で主要作品としてあげられているものに限っても、1954年に2件だったものが、1955年(昭和30年)には14件(うち校舎10)、1956年(昭和31年)には13件(うち校舎11件)、1957年(昭和32年)には26件(うち校舎15件)、1958年(昭和33年)には18件(うち校舎15)と増えている。これらのうちの少なからずが公立学校だった。坂本自身は自ら手がけた円形校舎は、1959年の半ばで100以上と書いている。[1]

建て増しが容易にできないことや、扇形の教室でのの大量配置が難しいことなどの問題から、ベビーブームの影響による生徒数の爆発的な増加に対応できず、1960年代後半になるとほとんど新築されなくなった。少子化の影響や老朽化によって解体が続いており、現在は約30棟程度しか残っていない。[4]

主な円形建築

昭和に建てられた主な円形建築には以下がある(坂本が設計したもの以外も含む)。

北海道
  • 1957年、江別市立江別第三小学校[5][6]
  • 1957年、小樽市立石山中学校(閉校[7]
  • 1958年、室蘭市立絵鞆小学校[8][9]
  • 1960年、美唄市立沼東小学校(1棟は解体、1棟は廃墟)[4]
  • 木古内町立泉沢小学校(現存せず)[要出典]
  • 木古内町立札苅小学校(現存せず)[要出典]
埼玉県
- (未編集)
千葉県
東京都
神奈川県
- (未編集)
岐阜県
- (未編集)
静岡県
- (未編集)
愛知県
- (未編集)
三重県
滋賀県
京都府
- (未編集)
大阪府
兵庫県
奈良県
和歌山県
- (未編集)
鳥取県
島根県
- (未編集)
岡山県
- (未編集)
広島県

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 梅宮弘光「第2部 1950年代—白い機能主義」『関西のモダニズム建築』淡交社、2014年6月16日、157-160頁。ISBN 9784473039453 
  2. ^ a b c d “消えゆく円形校舎 ベビーブーム期急増 老朽化”. 朝日新聞 夕刊3版 大阪面: p. 13. (2012年9月14日) 
  3. ^ 『昭和30年・40年代の練馬区 なつかしい青春の記憶』三冬社、2009年6月10日、73頁。ISBN 9784904022511 
  4. ^ a b c d J-heritage「円形校舎」『産業遺産の記録』三才ブックス、2012年11月1日、94-97頁。ISBN 9784861995385 
  5. ^ 江別市立江別第三小学校 | 北海道江別市公式ウェブサイト”. 江別市学校教育支援室学校教育課 (2014年5月19日). 2015年2月21日閲覧。
  6. ^ さよなら円形校舎!解体される江別第三小学校の円形校舎に潜入! - 北海道ファンマガジン(2015年5月1日版 / 2015年8月9日閲覧)
  7. ^ 『写真で辿る小樽 明治・大正・昭和』北海道新聞社、2014年11月1日、106頁。ISBN 9784894537514 
  8. ^ 年譜 of 絵鞆小学校”. 室蘭市立絵鞆小学校. 2015年5月6日閲覧。
  9. ^ 2棟とも残したい!3月で閉校する室蘭・絵鞆小「円形校舎」に潜入! - 北海道ファンマガジン(2015年2月21日版 / 2015年8月9日閲覧)
  10. ^ 津田沼小学校全面改築工事、校舎・体育館完成 習志野市ホームページ”. 習志野市教育総務課 (2013年4月11日). 2015年2月21日閲覧。
  11. ^ a b c “円形校舎よ、ありがとう 学びや55年の歴史に幕 習志野・津田沼小”. 千葉日報. (2012年10月11日). http://www.chibanippo.co.jp/news/local/104814 2015年2月21日閲覧。 
  12. ^ No.39 平成11年9月1日号 「習志野の王冠たれ」 習志野市ホームページ”. 習志野市教育総務課 (2007年8月23日). 2015年2月21日閲覧。
  13. ^ 学校紹介 ~沿革~”. 習志野市立第二中学校. 2015年2月21日閲覧。
  14. ^ 東京建築士会『東京の建築 1945-1957』1958年7月20日、181頁。 
  15. ^ 『昭和30年・40年代の葛飾区 なつかしい昭和の記憶』三冬社、2010年6月2日、56頁。ISBN 9784904022610 
  16. ^ 往年の大泉高校”. 東京都立大泉高等学校. 2015年7月28日閲覧。
  17. ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財/情報データベース/朝日小学校円形校舎”. 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護課. 2014年8月6日閲覧。
  18. ^ 近江八幡市立安土中学校ホームページ|学校概要”. 近江八幡市立安土中学校. 2015年8月2日閲覧。
  19. ^ 『温泉町誌・第3巻』
  20. ^ 川西小学校の沿革/加古川市ホームページ”. 加古川市 (2014年12月23日). 2015年2月21日閲覧。
  21. ^ 明倫小学校100年(8)”. 倉吉市立明倫小学校 (2012年11月15日). 2015年2月21日閲覧。
  22. ^ 片山中学校沿革史”. 呉市立片山中学校. 2015年2月21日閲覧。

外部リンク