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信濃の国

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信濃の国」(しなののくに) は、長野県県歌である。

概要

松本藩士族の浅井洌(1849年~1938年)の作詞、長野県外出身の北村季晴(1872年~1930年)の作曲により、1900年に成立した。長年にわたり実質的な長野県歌となってきたが、1968年5月20日に正式な長野県歌に制定された。

全5番からなるが、4番のみメロディーが異なり、スローテンポとなる(よく間違えられるが転調ではない)。

歌詞の内容は、各節で次のように分かれている。

  1. 長野県の地理に関する概要
  2. 山河
  3. 産業
  4. 旧跡/名勝
  5. 長野県出身の著名人
  6. 碓氷峠と鉄道(作曲の数年前に開通した信越本線)・結句

全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、御嶽山乗鞍岳浅間山千曲川天竜川諏訪湖佐久間象山など、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が(極力均等に)列挙されている。その内容から、「複数の盆地の寄せ集め」「連邦」などと揶揄される長野県内の一体性を高めるための精神的支柱として使用されてきた。 これに関連して、「信濃の国」には直接登場しない下高井郡では独自に郡歌を作っている。

なお、5番において「 仁科五郎盛信」が間違われて「仁科五郎信盛」と歌われている。浅井洌の勘違いによるものか、誤植によるものかは明らかではないが、歌詞を訂正しないまま歌い継がれている。

歴史

「信濃の国」はもともと教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する信濃国内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、江戸時代にも多くの天領に分かれていたことから、県域全体の一体感は希薄であった。1871年明治4年)の廃藩置県とその後の府県再編により、現在の長野県は長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県(現在は岐阜県に属する飛騨国の領域も含んだ)に分かれていた。しかし、1876年(明治9年)に松本の筑摩県庁舎が焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来、「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが現代に至るまでの大きな課題となっている。

「信濃の国」は本来、同時期に作られて流行していた「鉄道唱歌」などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない[1]。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。その面では、長野県民の地域ナショナリズムの根源とも言える。「信濃の国」の最初のバージョンは、1898年(明治31年)10月信濃教育会が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭であった浅井の作詞、同僚の依田弁之助作曲が創作したものである。この曲は「信濃教育雑誌」(1899年(明治32年)6月発行)に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年(明治33年)、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。

「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、分割に反対する北信地方東信地方(合併前の長野県域)の住民が占拠する議場の傍聴席から、突如として「信濃の国」の大合唱が沸き起こり、分割を求める県会議員たちの意思を潰して、分割を撤回させたと言われている[2][3]。しかし、仮に県議会で可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとされる[3]

普及度

「信濃の国」はかつて、長野県内の多くの小学校・中学校・高校で、さまざまな行事の際に歌われてきたため、俗に「信州(長野県)で育った者なら、全員が『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは、必ず『信濃の国』が合唱される」「『信濃の国』を歌えない者はよそ者」とやや誇張気味に語られるほど、信州人(長野県民)に深く浸透していた。日本の都道府県歌は、住民にとってあまりなじみがない場合が多く、存在すら認識されていない例もあるため、「信濃の国」は、「日本で最も有名な県歌」とも言える歌である。現在でも、県外(多くは国)から県幹部職員を着任させる時、県会に同意了解を求めるが、他県出身の人事を快しとしない県議員からは、「信濃の国」を知っているかどうかを詰問する風景が見られることもある。

昭和末期からは、長野県内でも「信濃の国」を歌わない学校が現れており、「信濃の国」を歌えない県民も徐々に増えつつある。しかし、カラオケのレパートリーや、携帯電話着信メロディに用いられるなど、地元・長野県民の支持は依然として根強い。長野県の各地域では、公共放送でのジングルや列車等の車内アナウンスでの採用例(長野新幹線開通前の特急「あさま」号の長野到着時、特急「あずさ」号の松本到着時)も多い。「信濃の国」は、長野県師範学校附属小学校の後身である信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても採用されている。長野新幹線開通記念の長野駅でのセレモニー(1997年10月)や、長野オリンピック1998年2月)の開会式における国家斉唱の次に「信濃の国」を歌ったのと、日本選手団の入場行進時などに代表されるように、長野県に関わる公的行事の伴奏音楽としても、頻繁に採り上げられている。また、高校野球の全国大会で長野県代表の応援歌としても使用されており、出場校の出身者でなくてもほとんどの長野県人が歌えるという普及度の高さが生かされている[4]2002年2月にはJR東日本長野支社から、列車が走る風景を背景にして「信濃の国」の歌詞を1番ずつあしらった6枚組オレンジカードが発行されている。

2005年には、パラパラが踊れるユーロビートバージョンも登場した。ユーロビートバージョンは、CMなどで流れていることもある。さらに同年、長野青年会議所の手により、上高井郡小布施町在住のセーラ・マリ・カミングスの翻訳監修で、すべて英語の歌詞の信濃の国(英題:Our Shinano)が制作された(外部リンク参照)。

「歴史」の項目で述べている分県問題にまつわる逸話を題材にして、作家内田康夫が『「信濃の国」殺人事件』を書いており、「信濃のコロンボ事件ファイル」の一編としてTVドラマも作られた。

  1. ^ 渡辺裕.『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』.中公新書.2010年
  2. ^ 長野県. “県歌信濃の国4”. 2006年9月28日閲覧。
  3. ^ a b 読売新聞 (2007年5月22日). “県歌 信濃の国 第1部〈5〉県会大合唱伝説の真相(5月22日)”. 2009年5月18日閲覧。
  4. ^ YOMIURI ONLINE 「県歌 信濃の国」第1部〈7〉

外部リンク

※ちなみに信越放送ラジオでは毎日放送上の曜日基点となる朝4時と、月曜の放送開始・並びに日曜の終了時(2009年3月までは後者のみ。2009年4-9月は日曜未明以外は3-4時が休止だったため、3時の終了時にも)にインストゥルメンタルの楽曲をインターバル・シグナルとして演奏している。また、1989年まで、テレビの放送開始、終了映像の音楽として使用された。