プレゼンス (レッド・ツェッペリンのアルバム)
『プレゼンス』 | ||||
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レッド・ツェッペリン の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1975年11月 ドイツミュンヘン、ミュージックランドスタジオ | |||
ジャンル | ロック | |||
時間 | ||||
レーベル | スワンソング・レコード | |||
プロデュース | ジミー・ペイジ | |||
専門評論家によるレビュー | ||||
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レッド・ツェッペリン アルバム 年表 | ||||
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プレゼンス (Presence) は、イギリスのロックグループレッド・ツェッペリンの第7作アルバム。1976年3月31日発売。プロデューサーはジミー・ペイジ。レコーディング・エンジニアはキース・ハーウッド。
経緯
1975年はレッド・ツェッペリンの活動歴におけるピークとも言うべき年となった。2月からの北米ツアーの大成功、『フィジカル・グラフィティ』の大ヒット、さらに5月、ロンドンはアールズ・コート・アリーナでの5夜公演を全てソールド・アウトにするなど、バンドの収益は莫大なものになった(後年、ピーター・グラントは、この年の収益を5000万ドル程度と推算している)。反面、この収益をイギリスの税法から守るため、メンバーはこの年の大部分を国外で過すことを余儀なくされる。
8月4日、ロバート・プラント一家の乗ったレンタカーがギリシアのロードス島で事故を起こした。重傷を負ったプラント夫妻は急ぎロンドンに搬送されたが、税法の関係上、プラント本人はイギリス国内に留ることができず、ジャージー島へ移動した。他のメンバーも集まり、とりあえず8月下旬から予定されていたアメリカ・ツアーの中止を決定した。
プラントはさらにマリブに移動し、ここでジミー・ペイジとともに作曲を開始する。ついでメンバー全員がハリウッドに集合してリハーサルを行なった。
録音
11月、バンドはミュンヘンのミュージックランド・スタジオで録音作業を開始する。スタジオは一ヶ月押えてあったが、メンバーの一人(それがだれであったかということは明かにされていない)が遅れて到着したため、実質的な録音期間は三週間しか取れないことになった。しかし時間の逼迫は、ツアーがキャンセルされ演奏機会を失っていたバンドの欲求不満とも相まって、メンバーの集中力を極限まで高める結果となった。一日18時間とも言われるハードワークを重ねた結果、録音の全作業は11月27日に完成した(実際には、オーバーダビングを行なう前にスタジオの期限が来たため、ペイジは、彼らの後にスタジオを押さえていたローリング・ストーンズに頼み込んで、スタジオ時間を二日間融通してもらったという)。
題名
作品完成が感謝祭の前日であったため、プラントは“Thanksgiving”という題名を提案した。また後述するジャケット・デザインとの関連で“Obelisk”がタイトルに決まりかけるが、結局ペイジが、ヒプノシスとのミーティング中にデザイナーが発した「このバンドには紛う方なきPresence(存在感)があるんだ」との発言を気に入り、『プレゼンス (Presence)』に決定された。
ジャケット
ジャケットデザインはヒプノシスとジョージ・ハーディーとが担当した。白を基調とした見開きジャケットの表裏あわせて4面に、10枚の写真が配置されている。写真はいずれも1950年代のアメリカを想起させる日常的な情景をとらえているが、そのいずれにも、映画「2001年宇宙の旅」のモノリスを連想させるような漆黒の奇妙な物体 (Obelisk) が写り込んで調和を乱している。
これはバンドとのミーティング中にヒプノシスから出た「バンドのパワーと存在感 (Presence)」というテーマを視覚化したもの。写真はライフ誌からとられたものである。
アルバムの発売前、ゲリラプロモーション用にジャケットのオブジェと同型の模型が1000個作られて、ダウニング街10番地やホワイトハウス等、世界各地の要所に置かれる計画があった。ところが、決行直前にアトランティック・レコードの社員が情報をマスコミに漏らしてしまい、ジャケットデザインが雑誌にスクープとして掲載されてしまったために計画は実行されることなく終った (くだんの社員は雑誌が発売された翌日解雇された)。
その際、ヒプノシスのオーブリー・パウエルは、ピーター・グラントらツェッペリン側のマネージメントスタッフから計画を漏らしたものと疑われ、午前4時に自宅を襲われて「掲載されたデザインに関する資料を出せ」と詰め寄られた (その資料は既にアトランティック・レコード側に渡しており、彼の手元には無かった)[1]。
収録曲
(LPレコードの表記をもととする)
Side A
- アキレス最後の戦い (Achilles Last Stand / Page & Plant)
- フォー・ユア・ライフ (For Your Life / Page & Plant)
- ロイヤル・オルレアン (Royal Orleans / Bohnam, Jones, Page & Plant)
Side B
- 俺の罪 (Nobody's Fault but Mine / Page & Plant)
- キャンディ・ストア・ロック (Candy Store Rock / Page & Plant)
- 何処へ (Hots on for Nowhere / Page & Plant)
- 一人でお茶を (Tea for One / Page & Plant)
なおB-1はブラインド・ウィリー・ジョンソンの同名のブルース・ナンバーをハードロック・ナンバーに再構成した曲であることが知られている。1979年、コペンハーゲン公演のおり、プラント自身が聴衆に向ってその旨を告白した。また2007年12月10日にロンドンで行われた再結成コンサートにおいても、プラントは同曲の演奏前にウィリー・ジョンソンへの感謝を表するコメントを発している。
チャート・アクション
「プレゼンス」は1976年3月31日、アメリカで発売された。ビルボードのチャートに24位で初登場し、翌週には首位に立った。イギリスでは4月6日発売。アルバムチャート初登場1位(これはイギリスチャート史上初の快挙である)を記録した。
影響と評価
発売直後の立ち上がりは素晴らしかったが、結果的に『プレゼンス』はレッド・ツェッペリンの全カタログ中、最も売れないアルバムになってしまった。作品自体のクオリティは、レッド・ツェッペリンの他のアルバムに劣るものではなく、とりわけ演奏時間10分を超える大作「アキレス最後の戦い」は彼らの代表曲である。音楽評論家の山崎洋一郎は、「アキレス最後の戦い」をこのアルバムのハイライトと位置づけたうえで、「ロックというものを物質化して見せてくれと言われても無理だが、このアルバムはそれに限りなく近いことをやっている」と絶賛している。
全楽曲がギター、ベース、ドラムのみで演奏され、全編にわたってヘヴィサウンドが展開されている。キーボードやその他の楽器は使用されておらず、レッド・ツェッペリンお得意の貪欲な音楽性の広がりがないぶん、彼らのアルバム中、最も硬質感・ロック色の強い作品となっている。ペイジ自身この作品の出来に満足し、気に入っているとされる。
長い目で見ると、このアルバムの制作は、むしろバンド内部に深刻な影響をもたらした。短時間で作品を仕上げるために、ペイジが他のメンバーを押えつけるように強引にセッションを進行させ、これがもとでジョン・ポール・ジョーンズとペイジとの間に深い亀裂が生じたのである。この亀裂は、3年後、次回作「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」のセッション時まで尾を引くこととなる。
パーソナル
- ジミー・ペイジ - ギター、プロデュース
- ロバート・プラント - ボーカル、ハーモニカ
- ジョン・ポール・ジョーンズ - ベース
- ジョン・ボーナム - ドラム、パーカッション
- ピーター・グラント - 製作総指揮
- キース・ハーウッド - エンジニア、ミキシング
- ジェレミー・ジー - テープ・エンジニア
- ジョージ・ハーディ - ジャケット・デサイン
- ヒプノシス - ジャケット・デザイン
注
- ^ ミュージックマガジン社『100ベストアルバム・カヴァーズ』による