パキスタン・ターリバーン運動
パキスタン・ターリバーン運動(ウルドゥー語: تحریک طالبان پاکستان, 英語: Tehrik-i-Taliban Pakistan,TTP)は、パキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)の南ワズィーリスターンを拠点にカイバル・パクトゥンクワ州などアフガニスタン国境地帯で活動するイスラーム主義組織。ウルドゥー語の意味は「パキスタン学生運動」であるが、傘下に多くの武装集団(兵力推計35,000人)を抱える。わが日本国のマスコミではターリバーンの呼称が「タリバン」、もしくは「タリバーン」で表現されることから「パキスタン・タリバン(タリバーン)運動」と呼称されることもある
概要
パキスタン人のほとんどのターリバーンメンバーを統合する目的で、2007年12月にバイトゥッラー・マフスードを最高指導者としてパキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体して発足した。
シャリーアに基づくイスラム国家発足が目標でありパキスタン政府の打倒を掲げている。「パキスタン・ターリバーン運動」(TTP)はパキスタン軍統合情報局(ISI)から直接支援されたアフガニスタンのターリバーンとは直接の関係はないが、2008年と2009年にムハンマド・オマルから「パキスタン国内での反政府活動よりアフガニスタンでの反米活動を支援して欲しい」との要請を受け、TTP指導部はムハンマド・オマルやウサーマ・ビン・ラーディンとの提携を進めた。これまでのところ、TTPの活動は主にパキスタン国内であるがクアリ・フセイン(Qari Hussain)はアメリカの都市を標的としていくと宣言した。2009年にチャップマン基地自爆テロ事件などを起こしたのはTTPである。同年以降、パキスタン政府はワジリスタン紛争でTTPへの攻勢を強めている。
歴史
TTPはアフガニスタン紛争 (2001年-)が起こるとトライバルエリア(FATA)に逃げ込んだ非パキスタン人(主にアラブ人や中央アジア出身者)に対して2002年にパキスタン軍が行った掃討作戦がルーツである。パキスタン軍のワジリスタン進攻はアル・カーイダやアフガニスタンのターリバーン掃討が目的であったが、ワジリスタンの部族勢力および武装勢力は共同で2004年に反政府の自治を進めた。
2006年10月のアメリカ軍によるバジャウルのマドラサ攻撃がTTP発足の契機になったとされる[1]。
2007年にはTTPの存在が公表されると翌年、パキスタン政府はTTPを禁止し銀行口座を凍結した。
2008年末から2009年にかけてムハンマド・オマルがTTPに使者を送りアフガニスタン国内に駐留するアメリカ軍への攻撃支援を要請すると、TTPの指導者であるバイトゥッラー・マフスード、ハーフィズ・グル・バハドゥル、マウルヴィ・ナジルの三者はそれに応え路線対立を停止し2009年2月に「統合ムジャーヒディーン評議会」(SIM)を結成した。同年8月、アメリカ軍の空爆でバイトゥッラー・マフスードが爆死すると権力闘争が勃発、弟のハキームッラー・マフスードが後継者となっているとされる。新体制になって反政府の自爆テロが活発化している。特にシーア派、アフマディーヤ、スーフィーなどの民間人も自爆テロの標的となっている。
2010年にアメリカはTTPを国際テロ組織に指定、2011年にはイギリスもテロリスト集団としてその活動を禁じた。
脚注
- ^ Fair, C. Christine (2011-01). "The Militant Challenge in Pakistan"