T-100

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T-100 重戦車
性能諸元
全長 8.38 m
車体長 8.38 m
全幅 3.40 m
全高 3.42 m
重量 58 t
懸架方式 トーションバー
速度 38 km/h
行動距離 200 km
主砲 30.5口径76mm戦車砲 L-11
副武装 46口径45mm戦車砲M1938
7.62mm機関銃DT x 3
装甲 前面 60 mm
側面/背面 30~45 mm
エンジン GAM-34BT (ガソリン)
850馬力
乗員 6名
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T-100重戦車は、1930年代後半にソビエト連邦で開発された多砲塔戦車である。T-35重戦車の後継車両という位置づけだが、砲塔は2基に減らされ代わりに装甲の強化が行われた。同時期に開発されていたSMK重戦車との競作になっていたが、SMKから派生した単砲塔のKV-1が次期重戦車になることが決まったため、試作車が2輌作られたのみに終わっている。

開発[編集]

1930年代末にソ連戦車は躍進期を迎えることになる。その一つのきっかけとなったのが、1936年に始まったスペイン内戦であった。この戦いにはT-26BT-5などの戦車が共和国派側に派遣され、ソ連製戦車としては初めての本格的な実戦を経験することになったが、しかし予想以上の損害を出してしまった。T-26やBTの装甲は最大でも15mm程度と薄く対小銃弾防御に重きを置いたもので、当時はこれでも十分通用すると考えられていたのだが、戦車には少なくとも小口径の対戦車砲弾に耐えられるだけの防御力が必要不可欠なことが明らかになったのである。これを受けて、ソ連軍はこれまでの戦車のあり方を見直すことになった。T-35重戦車も例外なく防御力の不足が問題とされたが、装甲の強化による重量の増加は、著しい機動力と信頼性の低下をもたらすため不可能だった。そこで全く新規に後継の多砲塔戦車の開発が進められることになった。

1937年には早速、ボリシェビーク工場・キーロフスキー工場の2つの戦車工場に対して開発の指示が出された。このうちキーロフスキー工場で開発されたものがSMK重戦車、ボリシェビーク工場で開発が行われたのがT-100重戦車であった。T-100は、当初案では砲塔を3つ持ち、26口径76mm戦車砲L-10と46口径45mm戦車砲2門を装備し、足回りはリーフスプリング式とする予定であった。しかし、最終的には砲塔は2つに減らされ、主砲は30.5口径76mm砲に強化、サスペンションもトーションバーに切り替えられた。完成した試作車は競作相手のSMKとほとんど同じ外見・性能を持ったものであり、重量は58トンだった。

その後[編集]

T-100の試作車は2輌製作された。1939年9月にはT-100重戦車、SMK重戦車、そしてSMKから派生したKV重戦車の3種の車両間での比較試験が始まった。KV重戦車は初めから計画されていたものではなかったが、76mm砲と45mm砲を単砲塔に併載(量産型では76mm砲のみ)しその分車体を小型化し軽量化に成功していた。試験の結果はKVが最も優れているというものだった。

試験の最中、ソ連-フィンランド間で冬戦争(第1次ソ連・フィンランド戦争)が勃発した。そこでこれらの3種類の戦車を実際に戦闘に投入しその実力を見極めることになった。その結果、やはり実戦においてもKV重戦車が最も扱いやすいということが判明した(ちなみにSMKは敵からの攻撃には耐えたものの、大重量のため雪溜りに落ち込んで行動不能に陥り放棄、後に回収されるもスクラップとなった)。かくしてT-100の開発は中止されることになり、試作車2輌だけが残された。

またT-100の車台を利用し、130mm・B-13海軍砲を搭載したSU-100Y自走砲(T-100-Y、SU-130とも呼ばれる)が試作された。これはフィンランドの要塞陣地攻撃用として提案されたT-100X自走砲の発展型で、生産性を高めるためより単純な作りの固定戦闘室を持つ。1940年の3月には試作車を用いた試験が始まったが、時を同じくしてソ連とフィンランド間で講和条約が結ばれたため、当初の目的だった冬戦争への投入は実現しなかった。T-100の発展型としては、この他に、大型の旋回砲塔に152mm砲を装備したT-100Z、同じく巨大な砲塔に130mm砲を装備したObject103があったが、いずれの計画もペーパープランの域を出ないうちに中止された。

SU-100Yは、独ソ戦が勃発した後にモスクワ防衛のため部隊配備されたが、実戦の記録は残っておらず、現在はクビンカ戦車博物館に保管されている。