T-60 (戦車)

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T-60
T-60 Kubinka.jpg
性能諸元
全長 4.10 m
全幅 2.35 m
全高 1.75 m
重量 5.5-5.8 t
懸架方式 トーションバー
速度 44 km/h
行動距離 315-614 km
主砲 20 mm 戦車砲ShVAK1941年型
副武装 7.62 mm DT機関銃
装甲 7-20 mm
エンジン GAZ202
6気筒4ストローク・ガソリン
70 馬力
乗員 2 名
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T-60は第二次大戦中のソ連軽戦車である。

概要[編集]

偵察用水陸両用軽戦車であるT-40は独ソ開戦後ほどなく水陸両用機能を削られ、また武装と装甲を強化したT-30に発展した。しかしこれはT-40同様の浮行用の車体デザインのままであり、一方ではN.A.アストロフ技師の設計チームにより、最初から陸上専用に設計された軽戦車が試作されていた。


これはトーションバー・サスペンションのT-40のシャーシを元にしてはいるものの、浮力を稼ぐための車体容積を削って絞り込んだ結果、同程度の重量ながら車体前面下部と操縦席の装甲、砲塔で25mm(後期型で35mm)と倍の厚さにできた(ただし70度に傾斜した前面装甲は15mmにすぎない)。それ以外のエンジンや操行装置、2名の乗員配置などは以前とさほど変らず、TNSh20mm機関砲を装備した本車は1941年10月、T-60として採用された。

モスクワ前面にドイツ軍が迫る危急の時であり、またより高性能のT-50を量産する余裕も無く、T-60には当初から1万輌という大量生産の命令が出された。疎開により遅れつつも4つの工場で順に量産に入り、12月半ばには量産第一号が完成した。より強化されたT-70の生産開始から半年後の1942年の秋までに6045輌が生産された。

実戦[編集]

次々に前線に送られた本車を本来の偵察などの任務に用いる余裕はなく、跨乗歩兵を乗せての攻撃任務に用いられた。これは武装・装甲が従来よりは強化されたとはいえ、軽戦車に向いた任務ではなく、他の軽戦車ともども撃破され"Bratskaya Mogila na dvoikh"「二人兄弟の墓」いうあだ名まで付けられた。また偵察用に作られながら、小型で車体底部と地面との間が狭く、泥濘地や雪原では腹が接地して動けなくなるなど、機動性にも問題があった。にもかかわらず、疎開中の工場でT-34やKVといった強力な戦車が大量生産され数を揃えるまで、これら軽戦車は時間稼ぎの戦いを止めるわけにはいかず、レンドリースで送られてきたイギリス製戦車と共に、翌年のドイツ軍の夏季攻勢でも投入され続けた。

味方からもその価値を疑われたT-60は、これを捕獲・調査したドイツ軍の報告でも「華奢で戦力価値なし」「捕獲しても使い道が限られる」とされ、武装や砲塔を撤去して、大砲を牽引する装甲トラクターとして用いられた。

しかし中には、この戦車でソ連邦英雄の称号を得た者もいた。1943年1月、第5号パショーロクの戦いで、第502重戦車大隊所属のVI号戦車ティーガー3輌を発見した戦車長ディミトリー・オサーチュク中尉と操縦士のイヴァン・マカレンコフ曹長は、これらを挑発しておびき出し、隠れていた味方の野砲陣地に近づき横腹を向けさせ、2輌を撃破させるのに成功した。

また1942年のドイツ軍夏期攻勢(ブラウ作戦)では、T-60が車体の小ささを生かし、背の高い草の原を抜けて密かにドイツ軍歩兵に接近、奇襲をかけ大きな損害を与えたことが記録されている。

バリエーション[編集]

空挺グライダー戦車A-40
履帯の抵抗が大きく離陸できず、現実には画像のように飛行していない。
T-60
1941年型。T-40をベースにしているが車体は完全な新設計で、水陸両用機能は最初から廃止されている。航空機用の20mm機関砲を搭載。
T-60A
1942年型。前面装甲が35mmに強化され、転輪がスポーク型から円盤型に変更されている。

派生型[編集]

本車をベースにカチューシャ・ロケットランチャーを搭載した自走砲型・BM-8-24が量産され、対空自走砲、グライダー付き空挺戦車(アントノフ A-40)が試作された。またルーマニアは捕獲した本車に76.2mm野砲を載せた自走砲・TACAM T-60を作り上げている。

関連項目[編集]