生食 (ウマ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大塚春嶺 『宇治川先陣争図』 明治期の作。高松市歴史資料館蔵。
手前が佐々木高綱と生食。奥は梶原景季と磨墨。

生食(いけずき、同義同音異字、同義異音異字:池月[いけづき]、生月[いけづき]、生喰[いけづき])は、平安末期の日本にて軍馬として活躍した名馬(一個体)の名。

概要[編集]

源頼朝に献上された名馬である。頼朝の所有する代表的な名馬に生食と磨墨(するすみ、cf. 磨墨塚)の二頭がおり、梶原景季は頼朝に日頃から欲しいと思っていた生食を所望したところ、頼朝は磨墨ならばと同馬を与えた[1]。ところが、後日、頼朝は生食を簡単に佐々木高綱に与えてしまった[1]。のちに宇治川の戦いでは生食を駆る高綱が、磨墨を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。

生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月はに映るに由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。

産地にまつわる諸説[編集]

東北から九州まで、日本の各地に生食(池月)の産地とする伝承がある。

東北地方[編集]

宮城県大崎市荒雄川(現在の江合川)上流、小黒ヶ崎山の麓には、かつて池月沼という三日月湖があり、ここで池月(生食)が生まれたという伝承がある[2]。小黒ヶ崎山や池月沼は平安時代から数多く和歌に詠まれており、順徳院藤原道家らの作品が『古今和歌集』、『続古今和歌集』、『新後撰和歌集』に収録されている[3]。江合川は前九年の役の舞台になった地域で、上流域では蝦夷を率いた安倍頼時が朝廷軍を破ったという鬼切部の戦いがあったとも伝わる[4]。当地の池月神社では馬の神が祀られていた[2]。なお、付近には荒雄川神社が鎮座している。一帯は明治時代初期は池月村と称したが、周辺の村との合併により一栗村岩出山町を経て現在は大崎市の一部になっている。

下総説[編集]

古くから下総、現在の千葉県北部には馬牧(放牧)が広がっており、軍馬の生産が行われていた(下総牧。cf. 諸国牧#牧と所在地の下総国)。

平安末期に八幡神使いと信じられるほどの名馬が下総国葛飾郡内の江戸幕府直轄の小金牧の前身となる牧場。現・柏市市内)で生まれ、「生食」と呼ばれて信仰を集めていた。これが源頼朝に献上されたものである。

現在においても白井市・柏市等の地域には生食に由来する神社が複数存在している。

東京・大田区[編集]

東京都大田区千束八幡神社には池月発祥伝説が伝わる。源頼朝が再起の折、鎌倉へ向かう途中に、この地に陣を張っていたところ、どこからか現れた野馬がおり、これを郎党が捕らえ頼朝に献上した。身体に浮かぶ白い斑点が池に映る月影のようだったことから「池月」と名付け、自らの乗馬としたという。また、近隣にある東急大井町線北千束駅はこの伝説にちなんで開業当初は「池月駅」と称した[5]

山陰[編集]

山陰地方(いまの鳥取県島根県)はかつて日本の代表的な馬産地の一つであり、各地に生食(池月)の生産地とする伝承がある[6]

鳥取市岩美町の境にあたる駟馳山(しちやま)もその一つで、山裾にはその石碑がある。ここでの伝承によると、幼いころに母馬を失い、母を探して山野を駆けまわったことで鍛えられた池月が頼朝に献上されたというものである。山はもともと「七夜山」(しちやま)と書いたが、池月にちなんで馬編の漢字があてられて「駟馳山」となったという[7][8][9]

徳島県美馬市[編集]

徳島県美馬市美馬町沼田地区の在所の飼い馬を母とし、半田の山の暴れ馬を父として生まれ育ったとする説があり、同地には1998年平成10年)に開業した池月公園がある[10]

脚注・出典[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 今泉の源太坂 - 富士市、2023年6月4日閲覧。
  2. ^ a b 『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』p515「池月沼」
  3. ^ 『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』p519「小黒ヶ崎」「美豆の小島」
  4. ^ 『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』p525-526「鬼首村」
  5. ^ (各駅停話)北千束駅 頼朝ゆかり、消えた駅名”. 朝日新聞デジタル (2017年10月31日12:38). 2017年10月31日閲覧。
  6. ^ 『日本馬政史』5巻 p364
  7. ^ 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p386「駟馳山」
  8. ^ 『鳥取県大百科事典』p402「駟馳山」
  9. ^ 鳥取商工会議所 ひょいと因但観光ナビ 名馬生月の伝説2015年10月14日閲覧。
  10. ^ 池月公園”. 美馬市. 2023年4月21日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]